クズの様な街に、クズの様な人間が住む。
街は区画整理などとは無縁の無秩序な様相を見せ、辺りには様々なゴミが散乱している。その中には元々生きていたものもあるのだろうが、今となってはゴミ以外の何者でもない。”廃棄区画(リジェクテッドブロック)”と呼ばれるこの辺りはしかし、小さな地方都市の一つくらいはまるまる収まる程の規模だ。それでも国で最も巨大なこの都市からすればこの区画は四分の一程度に過ぎない。とはいえ、スラムとしてはあり得ない程の広大さではあるだろう。都市の生い立ちがそれを成り立たせているのだが、ここに住む者には関係のない話だ。
住人もまた、そんな街によく似合う者が大半だ。自分よりも何かにつけ下にいる人間を見つけては昏い優越感を覚え、上にいる人間はどうにかして追い落としてやろうと考えている、そんな連中ばかり。道を歩いている者は、何かを物色するような目つきで辺りを見回しているか誰とも目が合わないように俯いているかのどらかが殆どであり、そうでない者も疲れ切った表情を浮かべていたり、アップ系のクスリでもキメているのか目が常軌を逸していたりとロクでもない。
そんな街にそんな人間が住んでいるのだから、ここで起きる出来事も中流以上の――普通の人間からすればとうてい許容出来ないようなことばかりだ。喧嘩や恐喝、窃盗などは日常茶飯事、発生する死者の数も一日に20人はくだらない。時には100人近くがゴミの仲間入りをする。しかし当局に拘束される者の数は驚くほど少ない。建前上は都市の一部ではあるものの、実質的には全くの別都市――いや、いっそ別の世界、別の国とさえ言えるこの街には警官の姿などない。そんな制服など着ていようものならば、ここに踏み込んで1時間と生きていられまい。完全な無法地帯なのだ。親子兄弟姉妹が互いを犯し、売り、殺し、喰らう、この世の地獄。
だが、それでも人は住み生きていく。誰もが明日をも知れない人生だからこそ、この街に住む連中は皆その瞬間を必死に生きている。その充実感など誰も味わってはいないだろうが、余計な事を考えずに生きていけるというのは意外と不幸ではないのかも知れない。殺しは多くとも自殺者の類が出たという話は聞いたことがないのはそういう所に理由があるのだろう。尤も、自殺するほどならばそもそもこの地に足を踏み入れたりはしないだろうが。レベルとしては大差ない。むしろ後腐れがないだけ自殺の方が気楽な気がする。
俺はそのクズの様な街の一角を歩いていた。いつもの喧噪の中、いつもの様に。辺りを見回すでもなく、俯くわけでもない。ただ正面を見据え、ただ歩く。目的は特にない。強いて言うならば――ねぐら探しと言ったところか。そこらの路地裏で寝ても大して躯は休まらないし、かといってある程度の安全を買うには懐具合が厳しい。買えなければ自分でそれを作るしかないわけだ。
そんな俺に注意を払う人間は居ない。それは昼なお暗いこの地において漆黒のコートを纏っているからかも知れず、また俺の気配がそうさせているのかもしれない。俺の持つ気配は、関わり合いになりたい類の物ではないだろうからだ。だからと言って油断出来るわけでもないが。人間を殺す事など容易い。その意識が余計に人を遠ざけているというのもあるだろう。
いや、いた。俺に近付いてくる人間が。目をそちらに向けてみれば――それは顔見知りだった。いわゆる情報屋だ。様々な情報を集め、売る。その情報の量と質だけで暮らす者である。
「へへ…旦那、調子はどうですかい?」
媚びるような口調と顔だが、居丈高に出ても損はあっても得はしない職業だ。無理もない。俺はそれには触れずに答えた。
「いつも通りだ」
「そいつぁ何よりです。今日は何かありやすかい?」
情報屋の声に軽く首を振る。そいつは気安げに頷いた。
「そうですかい。そんじゃあっしから一つだけ。連絡方法が変わりましたんでね。教えさせて頂きやす」
この街は、1人の人間を捜すのには向かない。広いし無秩序だからだ。足下を見る相手も多い――というかそうではない人間の方が珍しい。だから特定の住居が定まらない人間との連絡には暗号にも似た方法を用いねばならない。俺は情報屋との新しい連絡方法を教えて貰うと、再び歩き始めた。
「そんじゃまた、何かありやしたらお願いしやす」
そんな声を背後に聞き、軽く身振りで返事を返す。気配は迅速に遠ざかっていった。
そのまま足を進めていくと、目の前に古い教会が目に入った。
「…ふむ」
周囲の人間が誰も気に留めずに歩くそこに、俺は無造作に近付いていき、外れかけた扉を力一杯蹴りつける。爆発物などが仕掛けられていたらそれまでだが、このような場所に罠を仕掛ける物好きもあまりおるまい。あっけないほどに何事もなく扉は内側へと吹き飛んだ。
「ほう…」
中に踏み入れた俺は思わず感嘆の声を発する。そこはこの街の中にあって尚、「教会」だった。牧師なりシスターなりの説法を聞きに来た連中が座る長椅子こそ破壊されていたが、それ以外は殆ど影響がない。壁や天井の壊れ具合も充分風や雨露を凌げそうだ。今日はここで夜を明かすとしよう。俺は比較的原型を留めている長椅子に腰掛けると、懐から煙草を一本取り出して火を点けた。
この煙草はこの辺りの連中が吸う様な怪しげな混ぜ物が入っているような物ではない、”外”で流通している普通の煙草――それもかなり上質の物だ。
俺は食事や寝床にはそれほどこだわらないが、こういう嗜好品にだけは金をかける。食事や睡眠は人間が生きていく上で必須だが、嗜好品はそうではないからだ。それを敢えて摂取する以上、最大限に贅沢をしたいという志向である。詰まらない意地と言われればそれまでだが、息の詰まりそうな生活をしていれば尚更、こういった物でもなければ気が休まらない。
深く煙を吸い込み――吐き出す。手に入れるのに苦労しただけあって、いい物である。紫煙が辺りを漂う中、しばし俺は感慨に耽った。
「ぁ……」
何だ…?
くつろいでいた俺の耳に、微かな声らしきものが聞こえた。耳を澄ましてみる。すると…
「…ぁ…ぁぁ…」
また聞こえた。どうやら女の声の様だが…聞こえてくる方向は奥。
先客がいたのか…
このようなしっかりした建物だ。誰かが住んでいても不思議なことは何もない。少々面倒だが、挨拶した方がいいだろう。いきなり発砲されたら目も当てられない。俺は立ち上がり、奥へと続く扉を蹴破った。
この教会は意外と広いらしい。外から見たときはそんな印象は無かったが恐らくは牧師だか神父だかが住み込むためだろう、奥行きはかなりのものだ。廊下をしばらく進む。声は未だに断続的に聞こえるが、それが段々はっきりしてくる。
女の声は女の声だが――その声は意味のある言葉を一度も紡いではいない。うわごとの様な掠れたものばかりだ。
一分程も歩いたか、とある扉の中からその声は聞こえていた。俺は注意深く扉を検分し、罠の類がないことを確認した後、音を立てないようにそれを開き、中へと踏み込んだ。
「あ〜…」
女が1人、横たわっていた。躯の大半が露わになってしまっている。躯にまとわりついている布きれは、着ていた服だろうか。殆どその意味を為していない。そして、少女は意味のない声を繰り返しあげていた。
俺の気配に気付いたのだろうか、その顔がこちらに向けられた。子供と呼ぶには成長しているが、大人の女と呼ぶにはまだ早い、そんな年頃の少女。やつれてはいるが愛らしい顔つきだ。”外”に居れば恐らくは人気者になれただろう。性格のよさが顔に出ている。そこにつけ込まれたか。
少女の瞳には、最早理性の色は無かった。意味のない繰り言は、元は何のために発していたのか。想像するだけで気が滅入る。
俺が少女を観察していると、外からいくつかの足音が聞こえてきた。俺が来た方向とは反対側――更に奥からだ。音は複数、恐らくは4,5人程度と思われた。俺はドアの方を向く。
「さって…今日も可愛がってやるかねぇ」
頭の悪そうな声を上げながら入ってきたのは、太った男だった。古びたよれよれのシャツを纏い、下卑た笑みを刻んでいる。
「お? 先客か」
そんな事を言いながら部屋に踏み込んで来る。続いて似たような印象の男が4人入ってきた。連中は入ってきた所で足を止め、俺の様子を観察する。俺も同様に相手の姿と物腰を観察した。だが、そんなものは特に必要ないとすぐ分かる。全員、雑魚だ。
「…」
「へへ…ンな睨むなよ。出てけなんて言わねぇから」
無言の俺の事をどう思ったのか、最初に部屋に入ってきた男が頬に汗を流しながら取り繕う様に言った。俺は右手を僅かに動かす。並の人間には気付かれない程、僅かに。
「先譲ってやっからよ。みんなで楽しもうじゃねぇか」
更に言いながら太った男がこちらに歩み寄ってくる。合わせて俺も半歩前に出る。男は右手を気安げに挙げて――俺の肩でも叩こうとしたのだろう。だが、その手は空を切り男はそのまま倒れ臥した。
「お…おいっ! どうしたっ!?」
入り口のところで立ち止まったままだった4人の内の1人、ひょろっとした男がその様子を見て慌てて駆け寄ってくる。一歩脇に移動した俺は右腕と左腕を動かしながら、そいつにだけ聞こえるようにすれ違いざまに、言った。
「高い毒だ…もう少し味わって貰いたかったが」
「な…!?」
かがみ込みかけていたその男が、俺の言葉に弾かれた様に顔を上げるが――遅い。倒れた男からこちらに向き直る瞬間、その首の横を銀光が音もなく走る。同時に左腕を上げて、左手の人差し指を握り込む様に引き付ける。
轟音が部屋を揺るがす。入り口付近の1人の顔が、半分になった。直後、俺の脇で笛の様な音を響かせて紅い噴水が吹き上がる。
「野郎…っ!」
残った2人の男の内、背の高い方が懐からナイフを抜くが――それが鞘を抜けきる前に眉間に俺の投じたナイフが突き立った。
「な…」
俺が最後に残った男に目をやると、そいつは腰を抜かしてへたり込みながら涙声を上げた。
「た…助けてくれ…頼むっ!」
取り合わずに左腕で額にポイントする。轟音。そして部屋で動くモノは俺だけに――俺と、意志のない少女だけになった。銃を仕舞い、投げたナイフを回収した後、俺は少女の脇にかがみ込む。
呼吸、脈拍、瞳孔の反応。更に声をかけて意識の有無を確認する。それが終わった後――
「運が無かったな…」
俺は彼女を抱き上げていた。
最初に入ってきた聖堂。その教壇の上に、少女の躯を横たえる。懐から粉末を取り出し、コップに注いだ飲料水に溶かし込む。少女の背中を支えてやり、その水溶液を気管に入らないように注意しながら飲ませる。大半が口からこぼれたが――それでも喉が動くのを確認して、俺は再び彼女を寝かせた。
最初に座った椅子に座り、煙草に火を点ける。それがもうすぐ燃え尽きるという所で、俺は銜え煙草のまま立ち上がり、少女の様子を確認する。彼女は眠っていた。俺は踵を返し、教会を出る。取れかけた扉をくぐる時に、煙草を指で弾いて捨てた。
そのまま街の喧噪に戻り、少し歩いた頃――背後で爆音が轟いた。
「せめて…最期くらいは安らかに、な…」
人は生きていく。クズみたいな街に住むクズみたいな人間でも、昨日を悔やみ今日を嘆いて明日を呪いながら、それでも生きていく。今日が昨日に、明日が今日になっても変わらずに、飽きることなく絶望して、生き続けていく。時に底のない不幸に囚われて、命を落とす事があっても、生きることに何もなくても。この”廃棄区画”は、その不幸が少し多いだけだ。
俺はそのまま、深みを増していく闇と雑踏に紛れていった。