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彼は、悩んでいた。
自分の身体にはやや大き目の肘掛の付いた回転椅子に身を任せ、白い紙に刻まれた意味を持つ黒胡麻たちを
睨みつけながら。別にその黒胡麻が与える意味が解らずに眉間に深い皺(しわ)を刻んでいる訳では到底ない。酷く難
解な公式を眺めて、0.36コルン違う、と赤ペンでその公式を更に難解にしていることからして、そのようである。
その間違いに落胆したのか否か、彼はその紙を机の上に無造作に置くと、大きく息を吐いた。
彼は悩んでいた。召喚術学士として学界は勿論のこと、広く一般に知られ認められている彼が、学問について悩む
ことなどそうはない。学問よりももっと難解な問題を抱えているのである。この問題が世間に知れたなら、どうなるだろ
うか? 答えは唯一つ。学界追放、はなかろうが、それに近い事態には陥るだろう。
「何故儂があのような阿呆の為に無駄な労力を使わねばならん…!」
彼の悩みの種というのは、社会一般常識を全くといって良いほど弁えていない、不届者である。そうでなければ論
理を捏(こ)ね繰り回し、必ず相手を不利へと導く彼が、こんなに苦労する筈がない。
今日も今日とて、彼は悩んでいた。あの犯罪者をどうやって云い包めれば良いか、と。
□■□
キィンと金属音が微かな風に乗って耳へ届く。金色のコインが綺麗な直線を描いて空を斬り、一瞬その動きを止める。
そしてまたその速度を上げ、今度は反対に地に吸い込まれるが如く一直線に落ちてくる。それを救い出すかのように、
パシと目にも留まらぬ速さでそのコインを掴んだ。その作業を飽きもせずに何度も繰り返す。7回目にコインを掴んだ
ところでとうとう飽きたのか、はああと長い溜息を吐いた。
彼の名前は玖瑠亜=不由(くるあ=ふゆう)という。この国には珍しい漢文字の名前であるが、実際の所、国の重要書類などには、
『Culea=Fjue』 と記録されている。”クルア”と国言語で書くと余計阿呆っぽいと云われたのを切欠(きっかけ)に、漢文字を
当てたのである。不純な動機であるのは確かだ。
そして、その切欠を作ったのが、スタディである。スタディ=ラーンカルド学士といえば、相当に世間に名の知れた召喚術
学者である。彼自身も明るい緑の髪に赤い瞳、尖った耳に額に大きな角、といった召喚士族特有の容姿を持った
亜人であり、同時に、玖瑠亜が今いる、この敷地内に建物が5、6あろうかという大きな研究所の責任者でもあった。
玖瑠亜は彼に救われ、ここに名前だけ登録された、何の働きもしない研究員―つまり居候として置いて貰っているの
であるがしかし、玖瑠亜は社会一般常識がさっぱりの不届者である。感謝はどうやらしているらしいが、スタディには
上手く伝わっていないらしい。まあ、それはまた別の話だが――。
彼もまたスタディと同じくして悩んでいた。それは彼の賃金についてであるが、彼の手の中にあるそれが賃金と呼んで良い
ものかは定かでない。何故なら彼はその金を大した労働もなしに手に入れているからである。それと引き換えに、多大な
リスクを負う事で。そのリスクがスタディの悩みの種になっている事など、彼には知る由もなかろうが。
ともかく彼の悩みとは、その多大なリスクとは到底かけ離れたものである。それは、彼がさしてこのリスクについて深く考えて
いない事からも明らかだ。彼の悩みとは、彼自身にはどうにもなり得ない事なのである。それと云うのも――
「何っでこんなに不景気なんだよこの国は!!」
という悩みだからなのである。実際にはこの国の景気そのものは安定しているので、これは彼の思い込みによるものなので
あるが。つまり彼が云いたいのは、財布の中身が少なすぎる、という事なのであった。そう、彼の職業…それは『盗人』。
多大なリスク―罪を負う事で生活を営む、俗に云う犯罪者なのだった。
「シケた財布だよなぁ。200ルクじゃパンもろくに買えねェよ」
手の中で陽の光を受けて金に光る硬貨は紛れもなく200という文字を刻み込んでいた。ぼやくように云った玖瑠亜は、
もう一度財布の中を覗き見、落胆したように肩を落として、屋上の金網の外へ財布を投げ捨てた。
「要らねェよ! 中身の無ェ財布なんか!」
そう云いつつも、僅かながらに手に入れた賃金は手放さない。そういう所が玖瑠亜らしいといえば玖瑠亜らしい。チェ、と
つまらなそうに再びコインをトスすると、ズボンのポケットの中で何かが一瞬振動する。コインを取ってからそのポケットを覗き
見ると、携帯通信機のアンテナが顔を出した。
「…動いた……?」
心底不思議そうな顔をしてその通信機の画面を睨む。確かに着信しているのか、画面が一定間隔で点滅していた。
「俺、この間海に思いっきり落としたよなぁ?」
いつから耐水性になったのか。否その前に何ヶ月も充電を怠っていたにも関わらず、どうして動く事ができようか。とにかく
データは飛んでしまっているらしく掛け主は判らなかったが、受信するべく青く光るボタンを慣れた手つきで押した。
「はい、何方(どなた)さん?」
□■□
ノックと共に姿を現したのは、残念ながら、先程から何度と無く放送、伝達、言伝などの連絡手段をとっても尚自分の
前に姿を現さない悩みの根源では無かった。スタディは召喚術士特有の魔力封印の呪術の所為で、普通の人間で
いう12、3歳の姿で成長が止まっているが、開けた扉の先にいる少女は、それより更に小さい、一見5歳ほどの幼児の
容姿をしていた。しかし上目遣いに見上げた瞳は、年相応とはとても云えない。鋭い視線に一瞬、身を引きかけるが、
それよりも早く相手の少女が云った。
「スタディ。玖瑠は何処」
声は甘く高い。青い髪と同色の瞳が僅かに揺れるのを唯呆然と見つめながら、飴玉のようだなどと半分夢心地に思う。
それもその筈、ここ最近スタディは研究室から一歩も出ず、直接誰とも口を利く事無く過ごしていたのだった。暫くその
言葉を噛締めるように眼を伏せ、脳に言語能力が戻ったのか、ゆっくりと口を開いた。
「…儂に訊くな。彼奴(きゃつ)を呼び出すよう言伝してから随分経つが、一向に姿を現さん」
「もおっ、この建物が無駄にデカイから捜そうにも捜せないよう!」
「そう喚くなニヴィ。彼奴は隠と盗のみに置いては相当の手練。儂等が捜す方が無駄なのじゃ」
建物の所為ではない、とやんわりと云いながら、少女を部屋の中へと招き入れた。少女もそれに従い、とたとたと着いて
来る。そしていつもの事のように部屋の中心に配置されたソファに身を沈めた。スタディはというと、それを気に留める様子も
無く、元の自分の回転椅子に腰掛ける。
「その内には姿を見せるじゃろう」
半分は、そろそろ堪忍袋の緒が切れそうな自分に云うように。
「その内って今日中に来る?」
それも上手く返される。全くその通りだ。ちらと横目で彼女の表情を覗き見ると、ぷくっと膨らんだ頬が彼女の心情をそのまま
映し出しているようだった。云い返す言葉も見つからず、仕方なく机の引き出しを一つ開け、その中の携帯通信機を取って
少女の目の前に差し出した。
「掛けてみろ。或いは繋がるかも知れぬ」
彼奴からは思い切り海に落としたと聞いているが。心の中でそう呟く。
「いいの!?」
「ああ。急用なのだろう?」
「うんっ」
そう云って少女は嬉しそうに、小さな指で青いボタンを押した。
彼女の名は、ノヴェル=リングという。青い髪と瞳が水を思わせる、水輪石という一種の精霊石に封じられていた水精霊の
魔力精である。魔力精とは自らの能力により魔力を創り出せる根源精の一種で、主に魔術師が携帯する魔力回復道具に
封じられ、使われることが多い。水輪石というのもその一種であるが、人工的に製作されている道具の元となった自然鉱石で、
非常に珍重されている。
その石がこの研究所にも幾つかあったのだが、そのうちの一つが実験中連鎖反応を起こし、封印が解けてしまったのである。
その時その反動で現れたのがノヴェルである。酷く衰弱していたが、玖瑠亜の適切な処置により一命を取り留めたのだった。
それ以来、玖瑠亜に懐いてか否か、ここの研究に協力しながら居候を続けているのである。玖瑠亜は勿論、スタディも
一生懸命働くノヴェルには娘のような気がしてならないのか、猫可愛がりである。スタディは彼女の事を愛称でニヴィと呼ぶが、
何故か玖瑠亜は彼女を嬢と呼ぶ。その意図は彼女自身にも解らないだろうが。
ツーツーと無表情な声が耳の奥に響いた。コール音がない。
「…話し中?」
「どれ、儂に貸してみろ」
そう云ってスタディが当てた先からは確かに話し中の変わりない音程が響き渡っていた。
「真だ」
「ね? …まったく気楽なもんよねっ、こっちは必死で捜し回ってるのに、呑気に電話なんて」
再び膨らむ頬を、今度は大した感慨も無しに眺めて、スタディは通話切断のボタンを短く押した。
(…何をして居るのじゃ、阿呆玖瑠めが…)
もう一度呼び出し放送をかけてやろうかと、室内に付いた内線電話に手を伸ばしたとき、急に廊下から忙しない足音が
近づいてくるのに気付いた。それも、相当の速さで。
「何じゃ…?」
一定の間隔で刻まれる足音を不審に感じながら、スタディは部屋の扉を勢い良く開けた。
□■□
『相変わらずだね、フューア。僕だよ、判るかい?』
電話の奥から響いたのは、思いもよらぬ聞きなれた声と、『フューア』という単語。
「…お前、如何して…」
『おっと残念。コレは録音だから返答を得ようたって無理だよ。騒ぎ立てずに聴いてくれ。一度きりしか流さないからな』
そっちこそ意地の悪い手口は相変わらずか、などと思いながら、玖瑠亜は受話器をしっかり持ち直した。
『いいかい。最近『組織』の方で、人工人間…サイボーグの話題が出てる。何やら古代遺跡から発掘された最古のもの
らしいんだけれどね。どうやら凄い力を持っているらしい。動く兵器だ。『組織』がそれを狙ってる。出来れば君の居候している
研究所に流れてきたら確保しておいて欲しい。相当壊れているみたいだがね』
またかよ、と依頼された仕事内容が不服なのか、小さく呟いた。
『それと』
思い出したかのような電話の先の声に、やる気半減のまま耳を傾ける。
『…懐かしい奴が其処に向かってるはずだ。まあ来たら歓迎してやれよ』
思い当たる節のない人物を挙げられて、不思議そうに眉を寄せるも、電話の向こう側は構わず
喋り続ける。
『ついでにこっちの状況も教えてもらうと良い。…まあ、奴が簡単に口を割るとは思えないけど、
取り敢えず頑張ってみるんだね。じゃ、僕はこれで。こんなことしてるなんて知れたら
それこそ拷問所行きだ。それはご勘弁願いたいからね。ま、元気でやりなよ』
そっけない言葉と共に、プツリと通話の切れる音がした。
玖瑠亜は今一納得できないまま、通話終了のボタンを軽く押した。
「たく、誰だってんだよ、面倒くせぇな…。自分でやりゃあいいだろうが。何っで俺ばっか
こんな仕事やらなきゃなんねーんだよ。畜生…」
もうとっくに済んだ話のことだろうが、ともう一言付け加えてぼやくと、仕方なしに
立ち上がった。誰か来るというのだから、それを確かめなければならない。
ふと眼を地上へおろすと、其処にありえない筈のものが映った。
良くスタディの所にやってくる研究員のうちの2人が、棺桶にも似た箱を
ずるずると半ば引きずりながら運んできている。
幾ら研究員とはいえ、2人がかりでそこまで重いものなど、研究棟内にはない筈である。
という事は。
「…さっきの…何だっけ? 人…こー…何とか、て奴かねえ?」
すっかり人工人間の文字を忘れ去ってしまったらしい。興味のない事にはいつもそうなのである。
「ま、いっちょお出迎えといきますか」
ふああ、と大きく欠伸をして、玖瑠亜は階下へ続く階段に向かった。
□■□
扉の先には見慣れた研究員の姿があった。
いつも呼んでも必ず一階から四階のここまで15分程も移動時間のかかる彼が、
息を切らして走ってくるとは、かなり珍しい事である。
「が、学士! 大変です!」
「何事じゃ、騒がしい…早う用件を云うてみい」
その姿に僅かに驚くも、どうせ大した事でもないだろうと、呆れ半分に問うた。
「か、かか…」
「蚊?」
「か、棺桶が……棺桶が外に…!」
「棺桶ぇ?」
思いもよらぬ言葉に、素っ頓狂な声が唇を滑り落ちた。
ノヴェルもソファの上でむくれていたが、何事かと扉の方に寄って来る。
「ゾンビか何か出てきたら如何しようかと…し、心配で…!」
「ゾンビなど出てたまるか」
「そうでしょう!? ですから、学士、あの…」
途切れ途切れに紡ぎだされる声は、スタディの苛苛を更に増強させた。
「開けて欲しいんでしょ?」
中々云い出さない研究員に痺れを切らせたノヴェルが、強く云うと、研究員は
勢い良く首を数回縦に振った。
「お、お願いしますよ、学士…あんな気味の悪いもの、処分のしようが…」
「それを敢えて儂にやらせるか、お主。良い度胸をしておるの」
「が、学士〜」
涙目にまでなって懇願する彼に、怒りも呆れも通り越して、笑うしかない。
仕方ないと机の上に置かれた分厚く、彼の身長の半分ほどもある辞書らしき本を
手に取った。相当重いだろうに、彼は片手でその本を小脇に抱える。
「もうこういう騒動はこれきりにして欲しいものじゃな」
「はいっ、十分心得ております!」
「心得ているなど、そのような棺桶自分で処分できるようになってから云え」
溜息混じりに云って、今度はノヴェルの方を見やった。すっかり彼女も行く気のようである。
楽しげにこちらに微笑みかけている。再び脱力感がスタディを襲う。
「行くか、ニヴィ…?」
「勿論っ! こんな面白そうな事、滅多にないもんね!」
「ノヴェルちゃん、そんな気楽に云えたものじゃないんだよ…?」
「良いの、あたしゾンビとか幽霊とか全然怖くないから!」
止めに入ったのであろう研究員の言葉を明るく流して、ノヴェルは再び満面の笑みを浮かべた。
狭い階段を下りながら、スタディは研究員に訊いた。
「して、その棺桶とやらは一体何処から?」
「先程東棟の研究員たちが運んできましてね、『後はよろしく頼む』って言い残して帰っていって
しまって…」
「…ならゾンビなどいないのではないか?」
「何故です」
「東棟はここ中央棟への荷物検査棟だろう。もう中身は検査済みの筈だ。ゾンビなどいたなら
ここには来ぬわ」
「……あ」
「阿呆かお主、玖瑠にも勝るやも知れぬぞ!」
「す、すみません〜!」
しかし、ここまで降りてきてしまったのだ、今更引き返すのも癪というもの。
歩みは止めずにそのまま階段を下りていく。
ノヴェルもその事実を聞いていたのかいないのか、未だ嬉しそうに鼻歌など歌って駆け足で
階下へ降りていった。
研究所の玄関部分に辿り着くと、センサーが認知したのか、すう、とガラスの扉が開いた。
そこには、確かに白い棺桶らしきものが置き去ってある。
「ふむ、これか…」
読めない文字の陳列されたその蓋は、指を掛け上に引いても、カタ、と僅かな音を立てるだけであった。
如何やら、何か仕掛けがされているらしい。
「この文字…確か、何処かで…?」
近くでまじまじとその文字を観察していると、突然目の前を突風が走った。緑の髪が
不自然に巻き上がる。
「スタディ!! あ、危ない!!」
ノヴェルの声がそう響いたとほぼ同時に、目の前を影が走った。
避ける間もない。
そのまま凄まじい音を立てて、スタディは後ろへと吹き飛ばされた。土煙が濛々と辺りに立ち込める。
カン、と軽い音が小さく木霊するように幾つも響いては消えた。スタディは何事かと驚きながら
瞳を開け、そして更にその光景に驚いた。
「な、何じゃこれは…!?」
目の前には、先程其処にあった筈の棺桶の欠片が散らばって、路を白く染めている。
同じように吹き飛ばされたらしい、ノヴェルと研究員の姿も眼に映ったが、それよりも
人影がもう一人増えている事に、スタディの眼は釘付けにされていた。
ふは〜、と額を腕でぬぐう、茶色の髪の青年の姿。頭には赤いバンダナが巻かれ、
同じ色の布切れが左腕に巻きつけられている。風にその赤い布が舞う。
左手に握られた短剣は、未だ僅かな光を放っていた。まるで、風をより集めたかのような、光。
どうやらこの棺桶の爆発は、あの短剣が起こしたと見て間違いないようだった。
「おっし、開いたな!」
嬉しそうに笑うその顔に、スタディの怒りは頂点に達した。
気になっていた棺桶の文字も、今となっては其処にないのだ。
研究者としてここまで腹立たしいことは、無い。
「……こんの…阿呆玖瑠めがああああ!!!」
バコン、と良い音がして、玖瑠亜の頭に巨大な本が打ち付けられる。
「いっ…てえぇ!!」
「おのれお前のような阿呆の所為で棺桶が木っ端微塵ではないか!」
「ぁあ?! 開けたかったんだろ、なら良いじゃねえか!」
「黙れ阿呆が! 開け方というものがあるに決まっておろう!」
「阿呆阿呆云うな、偉っそうに…このミニガキ!!」
ぎゃあぎゃあと、白い世界の中で口論が続く。ノヴェルは何が起こったのか未だ良く理解できぬまま、
その口論を見守る。止める気も起こらないらしい。
その白い世界の中に、一際白く輝くものを彼女が見つけたのは、その直後。
「……何、あれ」
その声に口論がピタリと止まる。ノヴェルが指差した先を、スタディと玖瑠亜と、そして研究員の
眼が追った。
そこには、棺桶と同じ色を想像させる人間が横たわっていた。
取り巻くもの全てが平和だと思っていた、不穏な雲の一欠片も無い晴れた日だった。
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