南京事件の謎


南京事件の謎

 未だに結論が出ていない南京事件の被害者数。今回はその被害者数に迫りたいと思います。
 なお、被害者数にだけ的をしぼって行くつもりです。
 でも、政治的な問題を多々含んでおりますので、文句がある方は当然いると思います。( ゜Д゜)ゴルァ!っていう方はどしどしメール下さい。
 また、以下の文章はサークル関連で提出した論文の一部です。そのため、所々抜粋した個所との不整合があるかと思います。その上、サークル関連という事で、文章は幼稚です。ご容赦下さい。




『南京事件を基本から再検証する』


 南京事件は、東京裁判でその存在がおおやけになってから何人もの人々が研究し、そして本・論文も多数出版された。一例を紹介すると『南京事件』『南京大虐殺』というそのままなものから、『南京事件の研究』『南京大虐殺はこうして作られた』『南京事件の徹底検証』『ザ・レイプ・オブ・南京』というもの、果ては『南京事件の徹底検証を徹底検証する』とか『ザ・レイプ・オブ・南京の研究』『南京大虐殺否定論13のウソ』等まで出されている。要するに堂々巡りに入ってしまっているのである。互いに自分の学説に固執し、自分の学説と違う説を唱える人々は徹底的に攻撃される。

 私は今回の論文の題名を考える際に非常に悩んだ。考えられる単語はすべて出尽くしているためである。そこで、今回の論文のコンセプトに沿って題名を決定する事にした。すなわち、基本に戻ってもう一度南京事件を振り返ってみるという事、である。

 このままでは、あと半世紀、いや一世紀ぐらいは南京事件について揉めつづける事になってしまうだろう。もう一度、基本から南京事件について再検証してみる事によって、新たな発見が出来ないか挑戦してみたいと思う。

 なお、極力私自信の思想に基づく考えというものは入れないつもりで進めて行きたいが、どうしても自分の思想というものが入ってしまうものである。そこでは、大きな見落としや間違いがあるかもしれない。もしその様な点が認められた場合には、是非とも御指摘して頂きたい。そうする事によって、より真相に近づく事になるからである。

 序論の最後に、論文の先取りではあるが、誤解・偏見等を防ぐためにも私自信の結論を述べておきたいと思う。私自信の結論としては、南京事件における「戦闘員と思われる者の虐殺者数が、確認できる最大範囲で約5,500名+(戦闘員か非戦闘員か区別不可能)6,670+(戦時国際法違反の名目で処刑された者)α、『個人的見解は12,000程度』」「非戦闘員と思われる者の虐殺者数が、確認できる最大範囲で1795名+(戦闘員か非戦闘員か区別不可能)6,670、『個人的見解はほぼ0』」である。この一文を加えて、南京事件を再検証していきたい。

 ではまず初めに、南京事件の概略について説明してみたい。南京事件とは、昭和十二年(1937)12月13日、松井岩根中支那方面軍司令官の上海派遣軍と第十軍が、当時の中華民国の首都南京を占領した際に発生したとされている事件であり、東京裁判(正式名称は極東国際軍事裁判)法廷で検察側が、「日本軍の南京占領後約六週間の間に、日本軍が南京で中国の一般民衆及び中国人捕虜、計三十万人を虐殺し、中国人婦女子二万人を強姦し、その他略奪、放火等を繰り返した」と立証した事件である。そしてこれが、今日まで論争が続いている問題でもある。

 論争されている点とは何か。すなわち、本当に日本軍は南京において30万人を虐殺したのか。もし30万人を虐殺していないのならば、一体何人を虐殺せしめたのか。これである。以下、進めて行きたい。

 まず、30万人虐殺が本当に行われたのか、という事について検証したい。これを調べるには、当時の南京の人口を算出してみるのが一番手っ取り早い。何故なら、もし南京の人口が30万人未満であった場合、そもそも30万人虐殺する事は不可能となるからである。東京大学の藤岡信勝教授の言を借りるならば「幽霊でも殺さねばならない」という事になってしまう。

 最初に、「(甲)南京陥落前の人口」について進めたい。南京陥落前の人口については、比較的信用できる資料が残っているので、特に問題は無かろうと思う。一つ目は、昭和11年(1936)六月に行われた『南京市政府調査』というものだ。これによると、当時の南京の人口が約97万人であったと記されている。そして二つ目の資料は、同年に行われた『中華民国内政部発表』というものである。これには、南京の人口が約102万人という事が記されている。5万人の差は存在するが、陥落前の南京の人口はおおむね100万人前後であったという事が言えるのではなかろうか。

 次に、「(乙)南京陥落直前の人口」について進めたい。この直前の数字が一番の問題である。もちろん、これから戦争が始まるという時に人口調査など行うはずが無いので当然なわけではあるが。陥落直前の人口については一等資料が残されておらず証言に頼るしか方法が無い。一つ目の証言は、王固磐警察庁長がラーベ(ドイツ人、近年発表された『ラーベの日記』は話題になった)に語った「ここ南京には未だ20万人が住んでいる」という数字だ。もう一つは、リリ−・アベック「フランクフルタア・ツァイトゥンク」記者が書き残した「先週およそ20万の人々が南京を去った。かつての100万都市南京は、既にそれまでに35万人に減少していたから、今ではせいぜい15万人だ」という数字で、三つ目は、米南京副領事のエスピーが本国アメリカに報告した「南京の人口は20万人」という数字である。正確な数字は分からないが、三人の証言を合わせると、おおむね15万人から20万人という事が言えるのではなかろうか。

 最後に「(丙)南京陥落後の人口」に進みたい。一つ目の資料は、国際委員会(後で説明)の『日本大使館宛て九号文書(12月17日)』である。これによると、南京の人口は約20万人であったと記されている。二つ目は、翌年1月18日の『日本大使館宛て四十一号文書』である。これには、南京の人口が25万人であると記されている。なお、四十一号文書の作成に当たっては、南京占領後日本軍が調査した人口の記録が使われている。また、(乙)及び(丙)の南京の人口とは、南京城内の安全地帯(後で説明)の人口を示すものである。

 ここで不思議に思うのは、陥落直前までに何故南京の人口が激減していたのかである。この人口激減の直接の原因は二つあると考えられる。一つは言わずもがな、日本軍が侵攻して来たからである。これから戦場になろうという場所に、そのまま残っている人はあまりいないだろう。逃げる事が可能なら即座に逃げ出す所である。二つ目の理由として考えられるのは、1937年に宣言された、蒋介石の『最後の関頭演説』であろう。演説の内容を以下、抜粋して載せてみたい。

 「すでに最後の関頭に至れば、(中略)中国人の一人も、一塊の土をも灰燼にせしめて、敵の手に渡さぬ決意である。(中略)大小都市の区別なく、これを灰燼にせしめねばならぬ。(中略)一物をも日本軍に得させてはならない。」

 これは「堅壁清野作戦」とも呼ばれるものである。演説の内容をご覧頂ければ分かる通り、日本軍の前には食料・家はもちろん人っ子一人残さない所存であると演説では述べている。言ってみれば、前には日本軍、後ろには国民党軍がいて、双方から何されるか分からない状況なのである。当然ながら、逃げ出す事が可能なら逃げるだろう。

 このため、日本軍が南京城外に到達した際の南京の人口は、南京大学ベイツ教授の語る所によると「脱出するだけの路銀の無い、住民の中で最も貧しい人たち」だけが残っているだけであったのである。

 ここで、今日まで論争が続いている「安全地帯」について説明したい。ベイツ教授の語るように、日本軍が南京城外に到達しても、脱出出来ない貧しい民衆が南京場内に残っていた。このため、戦火が城内に及んでも民衆が避難できる場所を設けるために、南京残留欧米人の間で「安全地帯」を作ろうという動きが出たのである。管理運営には、在留欧米人が中心となって同時に発足した南京安全区国際委員会(以降国際委員会)があたる事になった。

 「安全地帯」とは、全兵士の立ち入り禁止及び一切の軍事施設を撤去した、難民保護のための非武装中立地帯の事である。しかし、安全地帯内において軍事行動が発生してもそれを止める手段は何も無かった。当然であろう、安全地帯の管理運営にあたった国際委員会には警察力が皆無であったからである。事実、『ラーベの日記(後で説明)』12月3日には「安全区内の三ヶ所に新たな塹壕や高射砲台を配置する場が設けられている」と記されている。また、南京陥落と同時に多数の兵士が安全地帯内に逃げ込み、そして今日まで論争が続いている問題も、この安全地帯内で起こる事になるのである。

 本題に戻って、では南京の人口は一体何人であったのかという事である。陥落直前の南京の正確な人口は今の所分かっていない。しかし、前述の証言等を合わせて考えると、おおむね15万人から20万人程度であった事が推測出来る。

 また、上記の数字は安全地帯内の人口である事は前述した。これが果たして南京の人口とイコールになるのかという事であるが、これは、蒋介石によって南京防衛軍総司令官に任命された唐生智が南京に残留している一般民衆に対して、即刻安全地帯内に避難するようにとの命令を下している事から、ほぼイコールになると考えられる。ほぼという表記にしたのは、中には命令に従わずに自分の家に残った者もいたかもしれないからである。

 つまり、陥落直前の南京の人口は、15〜20万人の一般民衆及び南京城内に存在した南京防衛軍兵士の総数であると考える事が出来る。

 南京防衛軍兵士が、南京陥落と同時に多数安全地帯内に逃げ込んだという事はすでに述べた。では一体何人の防衛軍兵士が逃げ込んだのかという事になるが、これも正確な数字は分かっていない。

 NYタイムズのダーディン記者の証言を借りると「数千人」の南京防衛軍兵士が安全地帯内に逃げ込んだという事になる。『台湾公式戦史』によると、この時の南京防衛軍の総数は約10万人である。このうち、南京城外の要塞陣地にも多数の兵を割いている。後で詳述するが、後の攻防戦において万単位の捕虜が城外において発生している事実と、城内を脱出しようとした兵士の多数が戦死している事を合わせて考えると、このダーディン証言はある程度信用できる数字の様に思われる。

 また、米南京副領事のエスピーは本国アメリカにこう報告している。「市民の大部分は南京国際委員会の計画設定するいわゆる安全地帯に避難しおり、相当数の中国兵を巧みに捕捉するはずなりしが、比較的少数なりしなり。実際に残留せり中国兵の数は不明なれども、数千の者はその軍服を脱ぎ捨て常民の服を着て、常民に混ざり市内のどこか都合よき所に隠れたるに相違なきなり」少なくとも万を越える兵士が安全地帯内に逃げ込んだという事は無いのではなかろうか。

 さて、30万人虐殺説の結論に移りたい。以上述べた様に、日本軍が南京を占領した際の南京の人口は、15〜20万人の一般民衆及び、数千人程度の安全地帯逃走南京防衛軍兵士を加えた数である。そして、陥落翌年の1月18日の『日本大使館宛て四十一号文書』に、南京の人口が25万人であると記されている事から考えると、結論として、30万人虐殺説は成立し得ない事になる。

 最近では、宇都宮大学の笠原十九司教授が「30万人という数字は南京城内だけでなく、近郊の六県を合わせた行政区としての南京全域においてである」『日本軍の中国人20万人大虐殺を否定したがる論者たちへ!』と新説を展開しているが、近年アメリカにおいて出版され話題になったアイリス・チャン著の『ザ・レイプ・オブ・南京』においてでさえも「日本軍が安全地帯内において虐殺・強姦・略奪を繰り返し、26万人から37万人を殺害した」と述べているように、南京事件は南京城内と、それに加えて城外における南京攻防戦が舞台であろう。中国側の主張も、南京城内外の数キロに留まっているのである。

 余談ではあるが一言私事を。来年度の教科書の中には40万人虐殺説というものまで掲載されるという事である。いくら両論併記が望ましいと言っても、物事には限度というものがある。このままでは将来、我が国の教科書は妄想のみになってしまうのではないか。非常に憂慮せずにはいられない。また、東京大学の教授なのであるが、100万人虐殺説などというものを展開している学者もいる。100万人を殺すためには、日本軍数万が国民党軍にまったく知られる事なく中国大陸を進撃し、隠密裏に100万都市南京を包囲する事が必要になる。そんな事が出来れば何も苦労はしない。もう一つは、南京を一瞬で消滅させる新型爆弾があれば良いのだが、しかしそんなものがあればそもそも戦争にはならなかっただろう。以上、余談。

 さてここからが本題である。では、一体何人が虐殺されたのであろうか。はたまた、虐殺はそもそも存在しなかったのか。 まずは南京城内について進めて行きたい。

 12月13日の南京陥落直後から、日本軍は南京城内に入城した。アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』によると、この時の日本軍は「安全地帯内に殺到し虐殺・強姦・略奪を繰り返し、26万人から37万人を殺害した」という風に描かれている。アイリス・チャンの主張は正しいのだろうか。アイリス・チャンがどの資料を元にこういう事を主張しているのか、出展は明らかにされていない。しかし、国際委員会の『日本大使館宛て第一号文書(12月14日)』には日本軍の行動が、「貴軍の兵隊が安全地帯を攻撃しなかった見事なやり方に感謝するため、我々は筆を取っております」とういう風に表現されている。少なくとも、南京陥落と同時に日本軍が安全地帯内に殺到し、虐殺・強姦・略奪を繰り返したというのは間違いではなかろうか。26万人から37万人という数字は言うまでもないであろう。

 歩兵第7連隊の場合

 日本軍が南京城内に入城すると、安全地帯外には人っ子一人存在せず、ゴースト・タウンとなった南京に遭遇する事になった。また、安全地帯外には大量の軍服が脱ぎ捨てられていた。これは何を意味するのか。もし、南京防衛軍兵士が城外に脱出するつもりであったのならば、服を着替えるなどという、時間を無駄にする行動は取らないだろう。さらには、脱出したくても出来にくかった現実がある。多数の防衛軍兵士が城外に脱出しようとは試みたが、城門の外に待ち伏せていた日本軍兵士により、30万人大虐殺を唱える学者達の意見を借りるならば、「ほとんど虐殺に近いものだった」という様な現実だったからである。もちろん、彼らは白旗を掲げるという様な降伏行為は行っておらず、上手く待ち伏せた日本軍の作戦の勝利であったのは言うまでもないだろう。つまり、安全地帯外に多数の軍服が脱ぎ捨てられてあった上に、安全地帯外がゴースト・タウンであった事を合わせて考えると、南京城外への脱出をあきらめた防衛軍兵士が安全地帯内へと逃げ込んだと推測出来るのではないだろうか。このため、日本軍は安全地帯内にいる兵士を摘発する事が不可欠となり、陥落翌日の十四日から、歩兵第七連隊がその任に着く事になったのである。

 歩兵第七連隊は掃討作戦の後、報告書を提出している。その『南京城内掃討成果表(十二月十三日から二十四日まで)』によると、項目二の中において、「刺射殺数6,670」という表記がある。虐殺あった派・無かった派の論争が続く所であるが、論点は「戦時国際法に照らして合法か否か」という一点である。第7連隊の「刺射殺数6,670」を検証する前に、戦時国際法とは何かという事について説明したい。

 解釈について論争が続いている戦時国際法とは、通称ハーグ陸戦法規と呼ばれるものである。以下はその条文である。

 「陸戦の法規慣例に関する条約(1907年調印)」
 「陸戦の法規慣例に関する規則(ハーグ陸戦法規)」
 「陸戦の法規慣例に関する規則・第一条」
 戦争の法規及び権利義務は、単に之を軍に適用するのみならず、左の条件を具備する民兵及び義勇兵団にも之を適用す

 交戦者の資格
 1,部下の為に責任を負う者、其の頭に存する事
 2,遠方より認識し得べき固著の特殊徽章を有する事
 3,公然兵器を携行する事
 4,其の動作に付戦争の法規慣例を遵守する事

 以上が、通称ハーグ陸戦法規と呼ばれるものの条文である。 亜細亜大学の東中野修道教授によると、中国兵は「南京防衛軍司令官唐生智の逃亡により無統制の集団になった(第一項違反)、軍服を脱いで難民区に潜伏した(第二項違反)、武器を難民区内に隠匿した(第三項違反)、以上の行為により国際法に違反した(第四項違反)、従って彼らは交戦者の資格を満たしておらず、捕虜となる資格が無かった。捕虜となる資格が無ければ、第四条における、捕虜は人道をもって取り扱うべしという条項も適用されない」と述べている。

 が、果たして本当にそうなのであろうか。確かに、ハーグ陸戦法規の成文の内容だけを見るならば、東中野教授の説も同意出来る部分もある。しかし、東中野教授はある点を忘れているのではないだろうか。つまり、国際法はすべて成文法では無いという点である。国際法には成文法だけでなく慣習法も多々含まれているのである。国際法学者の立作太郎『戦時国際法論』(日本評論社、1931年)によると、「凡そ戦時重罪人は、軍事裁判所又はその他の交戦国の任意に定むる裁判所において審問すべきものである。然れども全然審問を行わずして処罰を為す事は、現時の国際慣習法規上禁ぜらるる所と認めねばならぬ」と述べている。つまり、国際慣習法上においては、戦時重罪人の処罰は軍事裁判その他において審問を行ってから処罰を行わなければならないというのである。

 国際慣習法を解釈して見る限り、東中野教授の説である捕虜の資格が無ければ即座に処刑してもよいとするのは、いささか無理であると考えられないだろうか。以上の戦時国際法の解釈を、歩兵第7連隊の『南京城内掃討成果表』内の「刺射殺数6,670」という表記に当てはめて考えてみると、虐殺という他無いのではなかろうか。

 さて、序論において、私は自分なりの結論を先取りして述べておいたわけであるが、その中において、「(戦闘員か非戦闘員か区別不可能)6,670」という数字をあげておいた。この数字は、第7連隊の「刺射殺数6,670」という数字の事である。なぜ区別不可能なのかという事について進めて行きたい。第7連隊が安全地帯内の防衛軍兵士を摘発した事はすでに述べた。そして、何人の防衛軍兵士が安全地帯内に逃げ込んだのか正確にはわからないという事もすでに述べた。一体誰が、一体何人が安全地帯内に逃げ込んだのかわからないのである。第7連隊はどのようにして安全地帯内の防衛軍兵士を摘発したのだろうか。その方法は、「軍人は軍帽をかぶっていたため、額と顔の日焼けの仕方が違う。軍人は何十キロという背嚢を背負っていたため、肩から背中にかけて背嚢の跡が残る。軍人は銃を打つ際に銃の引き金を引くため、人差し指に独特のタコが出来る」『日本大学秦郁彦教授の談話』等の方法であったという。この方法でおおよその断定は出来るのかもしれない。また、ダーディン記者の「数千人の防衛軍兵士が安全地帯内に逃げ込んだ」という証言や、米南京副領事エスピーの「(中略)数千の者は(中略)隠れたるに相違なきなり」という報告ともおおむね一致する。私もおおよそ区別出来たのではないかと推測している。しかし、100%確実な方法でない事も確かである。故に「戦闘員か非戦闘員か区別不可能6,670」という風に表記しながら、個人的見解においては戦闘員の虐殺者数に加えておいた次第である。

 次に、南京城外における虐殺者数に進んで行きたい。今日まで論争が続いている問題として、歩兵第66連隊第一大隊及び、歩兵第103旅団第65連隊の捕虜の処遇がある。まずは歩兵第66連隊第一大隊について進めていきたいと思う。

 歩兵第66連隊第一大隊の場合

 歩兵第66連隊第一大隊は、十二月十日から十三日まで中華門付近に進撃し、戦闘を行っていた。その戦闘の過程において大量の捕虜を得る事になる。当時その戦闘を経験した小宅小隊長代理が後日、戦闘を振り返り語った所によると「十二月十二日、(中略)それでも中国兵は三々五々降伏してきたので、私の所で検問して後ろに送った。(中略)どのくらい捕虜がいたのか正確にはわからない。あとで1,200の捕虜がいて、他の隊が捕まえた捕虜2、300を合わせると1,500になると聞いた記憶がある。しかし、(中略)とても1,500人もいたとは思えない」という状況だったようである。捕虜の数は、多くて1,500名と考えられるだろう。

 そして、捕虜を得た歩兵第66連隊第一大隊に問題の命令が届いた。第一大隊の『戦闘詳報』はこう記している。

 八、午後二時零分(十三日)連隊長より左の命令を受く
 左記
 イ、旅団命令により捕虜は全部殺すべし
   其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何
 ロ、兵器は集積の上、別に指示する迄、監視を置くべし
 ハ、連隊は旅団命令により主力をもって城内を掃討中なり
   貴大隊の任務は前通り

 そして、捕虜は全部殺すべしという命令は実行された。しかし、東中野教授は日本軍の組織的な虐殺を否定する。『南京大虐殺の徹底検証』(展転社1998)によると、次の様な主張となる。「軍隊において「如何」などという相談口調の命令はありえない。実際、第一大隊の上、第66連隊及び第127旅団の命令の記録にも上記の様な命令が出された形跡が無い」そして、東中野教授は第一大隊の独断での処刑という結論付けを行っている。

 本当に独断での処刑だったのであろうか。東中野教授は、「軍隊において相談口調の命令はありえない」と述べている。では仮に、相談口調ではない命令口調の命令書を作成してみるとどうなるか。この様になる。

 イ、旅団命令により捕虜は全部殺すべし
   其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺すべし

 そして、この命令を実行するとどうなるか。まず、数名又は二十数名を捕縛した場合、即座に命令違反になってしまう。また、逐次銃殺ではなく一斉に銃殺した場合も命令違反という事になる。まったくもって、摩訶不思議な命令となってしまうのである。

 軍隊においては、絶対にやらなければならない行動は命令口調で出される。この場合は、「捕虜は全部殺すべし」及び「兵器は集積の上、別に指示する迄、監視を置くべし」という行動である。逆に、絶対にやらなくてもいい行動であれば命令口調としては出されない。「其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何」という行動である。

 また、第66連隊及び第127旅団の記録に残されていない。すなわち第一大隊の独断での処刑である、と主張しているが、現実問題として『戦闘詳報』のすべてが今日まで残されているわけではないのである。一橋大学の藤原彰教授の言を借りるならば「現在まで残されている戦闘詳報は、およそ三分の一程度」というのが現状である。

 結論を述べると、多くて1,500名、実数はそれよりも少ないであろう南京防衛軍兵士の捕虜が、虐殺されたという事になるのではないだろうか。

 次は、歩兵第103旅団第65連隊の捕虜の処遇について進めて行きたい。

 歩兵第103旅団第65連隊の場合

 十二月十三日歩兵第103旅団第65連隊は、幕府山砲台を占領するため進撃し、これを占領した。その際大量の捕虜が発生し、その数は14,777名(『両角業作手記』によると、15,300余)にも上った。この中には多くの女性兵・少年兵・老人兵が混じっていたため、戦闘員と非戦闘員に分ける事になり、非戦闘員は開放され、残ったのは8,000名程度となった。そして、捕虜の処遇について上層部の命令を待つことになったのである。この様な状況の中、十六日に捕虜を収容していたバラックから火災が発生し、連隊長両角業作大佐によると「少なくとも4,000名が逃げ去った」という。つまり、残った捕虜の数は多くて4,000名程度になったと考えられる。

 そして、問題の命令が第65連隊に届いた。旅団長山田栴二少将の『山田栴二日記』はこう記す。

 捕虜の始末その他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
 皆殺せとの事なり
 各隊食料なく困却す

 そして、17日深夜に処刑が実行されたわけである。東中野教授は『南京大虐殺の徹底検証』の中で、皆殺せという命令は存在したが、山田少将は頑固としてこの命令を否定し、捕虜を釈放しようと努めたと述べている。東中野教授がその論拠としている『両角業作手記』の中に次の様な内容がある。「(中略)山田少将に督促が来る。山田少将は頑としてはねつけ、軍に収容するように逆襲していた。私もまた、丸腰の者を何もそこまでしなくてもよいと、大いに山田少将を力づける。処刑などまっぴらごめんである。しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施をせまったのである。ここにおいて山田少将、涙を飲んで私の隊に因果を含めたのである。」

 東中野教授は『両角業作手記』を虐殺否定の論拠にしているが、逆にこれこそが虐殺の証拠とはならないだろうか。手記の中には紛れも無く、「軍は強引にも命令をもって、その実施をせまった」と書いてあるのである。確かに、山田栴二少将は虐殺に反対したのかもしれない。両角業作大佐も虐殺に反対していたのは言うまでもない。しかしながら、それが虐殺否定論にはならないのではないだろうか。軍の上層部は、捕虜を処刑せよという命令を下していたのである。これが逆の場合を考えてみたい。「軍の上層部は、捕虜を解放せよと命令していたが、部隊は捕虜の処刑を行った」という場合である。この場合は、軍命令では捕虜を解放せよと命令していたわけであるから、捕虜の処刑は部隊の単独行為である。部隊長に虐殺の責任があると言えるだろう。日本軍そのものが虐殺の責任を問われる事は無い。しかし今回の場合は、軍の上層部が捕虜を処刑せよと命令したわけであるから、責任は日本軍そのものにあるのではないだろうか。

 東中野教授は他にもこう述べている。「『山田栴二日記』にある、「各隊食料なく困却す」という表現はおかしい。処刑するつもりなら食料の心配はしなくていいのではないだろうか。捕虜に食料を供給するためだからこそ、「食料無く困却す」ではないのだろうか。さらに、深夜に処刑が実行されたのもおかしい。処刑をするつもりならば、深夜などという極めて実行しづらい環境では行わないだろう。」という。確かに、実際深夜に処刑を行ったがために、日本軍にも数名の死者が発生している。東中野教授の『山田栴二日記』の解釈は以下の通りである。

 捕虜の始末その他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
 皆殺せとの事なり
 (しかし私としては出来ないから、何とか戦場から追放する処置にしたい。ただ追放の時まで連隊に留め置くためには)
 各隊食料無く困却す

 東中野教授は、深夜の処刑がおかしいと述べているが、「(山田)支隊兵ほぼ総出で十七日の朝早くから捕虜を後ろ手に縛り数珠繋ぎにした」『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』(大月書店1996)という事から考えるに、思いのほか時間がかかり深夜に及んでしまったと考えるのが普通ではなかろうか。「食料無く困却す」の表現がおかしいというのも、当時前線で戦っていた日本軍全体において、後方からの食料支援が滞っていた現実を考えると、さほど深い意味は無いのではなかろうか。

 結論として、多くて4,000名程度の捕虜が虐殺されたと考えられるのではないだろうか。

 以上、第7連隊が行った南京城内の掃討作戦及び、歩兵第66連隊・同65連隊の虐殺者数を単純に足し算してみると、最大に見積もって12,170名という数字が浮かび上がる。この他、虐殺なかった派の研究者でも「戦時国際法違反」という名目で処刑が実行されていたとされるので、それらの数も加えた12,170+αが戦闘員の虐殺者数という事になるのではなかろうか。もっとも、南京城内掃討作戦の際の6,670名は、おおむね戦闘員であったと言えるのではなかろうか、程度ではある。

 では次に、非戦闘員の虐殺者数は何人か、という問題であるが、非戦闘員の虐殺者数に進む前に、南京周辺での埋葬者数について述べてみたいと思う。何故ならば、南京攻防戦において亡くなった人の遺体は、日本軍将兵の場合は日本軍によって埋葬され、中国軍将兵(及び民衆)の場合は現地の慈善団体によって埋葬された。つまり、現地の慈善団体が埋葬した数そのものが中国軍将兵(及び民衆)の数となるのである。しかし、なんらかの理由で埋葬されなかった遺体の数も考慮に入れなければならないだろう。

 「慈善団体が埋葬した数+何らかの理由で埋葬されなかった遺体β」から「戦闘員の戦死者+虐殺された捕虜の数+戦時国際法違反の名目で処刑された数α」を引けば、それが非戦闘員の死者の数となるのではないだろうか。そして、「非戦闘員の死者の数」から「病死その他自然死の数+南京防衛軍兵士に殺害された非戦闘員の数」を引く事が出来れば、すなわち日本軍によって殺害された一般民衆の数となると考えられるのではないだろうか。 以下、慈善団体が行った埋葬者数について検証して行きたい。

 埋葬に携わったとされる慈善団体は「崇善堂」と「紅卍字会」の二つがある。その埋葬者数は「崇善堂の112,266体」と「紅卍字会の43,071体」である。

 紅卍字会については、日本軍南京特務機関が埋葬者一体当たり0.3円の手数料を、国際委員会が0.4ドルの手数料を払っていたという記録があるので、水増しを行っていた可能性は否定出来ないのであるが、埋葬を行っていたという事実は確かである。水増しを行っていた可能性は否定出来ないと書いた。何故ならば、当時南京の警察官の月給が4〜6円であり、埋葬という事業は非常に有望なビジネス足りえたからである。さらには、手数料を支払う際の埋葬者数も慈善団体の申告に基づくものであったからである。それはともかくも、紅卍字会が埋葬を行っていたのは確実である。

 では崇善堂はどうか。崇善堂については、南京特務機関及び国際委員会の資料を参照しても、崇善堂についての記述が一切無いのである。つまり、どちらの組織にも崇善堂の埋葬事業が認知されていなかった事になる。 駿河台大学の井上久士助教授は、「崇善堂の記録には埋葬を行っていたとする証拠がある」と主張している。確かに崇善堂の記録には埋葬を行っていたらしい項目はある。しかし、南京特務機関及び国際委員会の資料に認知されていない所から見ると、これらの組織からの資金援助は一切無かった事になり、まったくの慈善事業であった事になる。まったくの慈善事業の団体が、資金援助を受け大量の人夫を雇って埋葬を行っていた紅卍字会の埋葬者数を、倍以上も上回るという事が果たしてあるのだろうか。そもそも、この崇善堂の記録を信じるならば、十二月から埋葬を行っていたという事になるが、当時南京においては二月末まで、安全地帯内の一般民衆はもとより、日本軍将兵でさえも勝手に出入りする事は厳禁されていたのである。南京特務機関及び国際委員会に認知されていない崇善堂が、勝手に埋葬を行う事は不可能なのである。

 さらに一歩譲って、崇善堂の記録を信用してみると、埋葬記録の中で全埋葬者数の93%を占めているのは四月の105,000体である。これなら二月末まで埋葬活動をまったく行わないでも埋葬する事は可能である。しかし、一月に10万体埋葬するには、延べ人数で9万人程必要になるのである。紅卍字会の例を取ってみたい。国際委員会中心メンバーのベイツは『南京救済国際委員会報告書』の中で「一日平均170人を動員した」と記録している。では、一日の埋葬者数はどうなのか。南京特務機関の丸山進氏は「二月は多くて200体、普通は180体であった」と回想している。また、ラーベはドイツにおける講演で、「一日200体は無理だった」と話している。このように、おおむね一人一日一体という公式が成り立つのである。崇善堂が一月に10万体埋葬するためには、一日当たり約3,000人を動員しなければならない。現在の日本で考えるならば、一人一日5,000円で雇っても、一日に1,500万円の出費である。もちろん、南京特務機関及び国際委員会からの援助は一切無い状況においてである。

 結論として、崇善堂が埋葬事業を行っていたとするのは無理であろう。魯ソ証言等のように、東京裁判の際に提出された信用できない資料の一つに過ぎないのではなかろうか。

 以上の点をふまえると、「紅卍字会の43,071体(水増しは否定出来ない)」+「なんらかの理由で埋葬されなかった遺体β」を合わせた数が、中国軍将兵(及び民衆)の遺体の数となるのではないだろうか。

 余談ではあるが、紅卍字会の説明を少しだけ行いたい。紅卍字会とは、「世界の代表的五大宗教(仏、基、回、道、儒)を生かして、至聖先天老祖(わが古神道にいう天之御中主大神、キリスト教のエホバ、仏教の真如等)の名を以って大同世界への道を宣言したのが、道院、紅卍字会である」紅卍字会HPより抜粋

 関東大震災が起こった際には、その救援物資ならびに救援金第一号として紅卍字会の名が記帳された。また、紅卍字会の会員で日本人としては、笹川良一(日本船舶振興会創始者で初代会長)や五井昌久が有名である。よく神社等で見かける「世界人類が平和でありますように」というこのフレーズは、五井昌久が提唱したものである。

 何故余談に入ったかと言うと、日本中のどこに旅行しても「世界人類が平和でありますように」というこのフレーズに出会うため、長年の謎だったからである。まさか南京事件の研究を行っていて、この謎が解けるとは思ってもみなかった。以上、余談。

 最後の項目である。では一体、非戦闘員の虐殺者数は何人であったのか。今日まで論争されている一番の問題点はここである。そして、まったく結論が出ていない問題でもあり、もはや正確な数字を求める事は不可能と言ってよい問題である。

 理論的には、「紅卍字会の埋葬者数(水増し分を引いた)+何らかの理由で埋葬されなかった遺体β」から「戦闘員の戦死者+虐殺された捕虜の数+戦時国際法違反の名目で処刑された数α」を引く事が出来れば、非戦闘員の死者の数が浮かび上がるのであろうが、その「戦闘員の戦死者の数」がまったくわからないのである。

 日本大学の秦郁彦教授はこう述べている。「私の計算を紹介すると、『台湾公式戦史』の守兵10万をベースに、内訳を脱出0,6万、戦死5,4万、捕虜の生存者1万、捕虜の虐殺者3万としている。これも腰だめの推計には違いない」『諸君!』(98年2月号)秦郁彦『南京大虐殺、「ラーベ効果」を測定する』

 秦教授は戦死者5,4万人としているが、これは多すぎるだろう。何故ならば、当時の新聞などのマスコミを資料の根拠にしているからである。当然ながら、各種マスコミは軍の統制下にあるという事もあって、戦果を過大に報道する傾向があったのである。そのため、秦教授の説では脱出0,6万人と過小な数字が導きだされてしまっている。また、「これも腰だめの推計には違いない」という一文も忘れてはならない。

 戦死者の正確な数が分からない以上、直接非戦闘員の虐殺者数にアプローチするしか方法がないだろう。

 非戦闘員の虐殺があったとする各種証言はどうだろうか。これらの証言で一番有名だと思われるものは、近年発表され話題になった『ラーベの日記』があげられるだろう。『ラーベの日記』の著者ジョン・ラーベとは、ジーメンス社支社長として当時南京におり、国際委員会の委員長も勤めた人物である。

 では、この『ラーベの日記』について検証してみたい。『ラーベの日記』には日本軍が虐殺・強姦・略奪を繰り返したと述べられているが、この本には多数の伝聞及び推測が記載されており、これら伝聞及び推測を削除すると、ラーベ自身が目撃した虐殺は一件も記されていないのである。さらに、『ラーベの日記』の中には矛盾している点も多々見受けられる。従って、この本を信用する事は出来ないと言ってよいだろう。

 また、ラーベと共に国際委員会の一員として活動し、『ラーベの日記』にも登場する宣教師ジョン・マギー牧師は、東京裁判において証言を行っている。この際の証言において、マギー牧師は日本軍の虐殺・強姦・略奪を証言しているが、ブルックス弁護人に「マギー牧師自身が目撃したものはどれだけあったのか」と尋ねられると、「殺人一件・強姦二件・略奪一件を目撃した」と答えているのである。このうち殺人に関しては、日本兵が職務質問した際に逃げ出した中国人を射殺したと答え、略奪に関しては日本兵がアイスボックスを一つ盗んで行ったと答えている。二件の強姦については、虐殺無かった派の研究者は売春かどうかはっきりしていないと主張している。

 また、「マンチェスター・ガーディアン」の記者ティンパーリーが書いた『戦争とは何か』という本がある。この本にも、日本軍が虐殺・強姦・略奪を行ったと記されているのであるが、当時ティンパーリー自身は上海におり、南京からの情報を元に本を執筆したという経緯があるのである。当然ながら、伝聞及び推測で本を執筆したという事になる。

 このように、日本軍が一般民衆を虐殺したとされる証拠のほとんどは、伝聞及び推測である。南京の日本大使館で外交官補を勤めていた福田篤泰氏(後に吉田茂の秘書官を務め、防衛庁長官、行政管理庁長官、郵政大臣を歴任)はこう証言している。「当時私は、役目がら毎日のように外国人が組織した国際委員会の事務所に出かけた。出かけてみると中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。その訴えをマギー神父とフィッチなど3〜4人が私の目の前で、どんどんタイプしているのだ。「検証もせずにタイプされても困る」と私は何度も注意した。(中略)時に私は、彼らを連れて強姦や略奪の現場に駆けつけてみると、何も無い、住んでる者もいない、そんな形跡も無い。そういう事が幾度かあった。(中略)ある朝、アメリカの領事館から私に抗議があった。下関(シャーカン)にある米国所有の木材を日本軍がトラックで運び出している、というのだ。それはいかんと思い、司令部に電話して本郷参謀にも同行をお願いし、副領事と3人で雪の中を駆けつけた。朝の9時ごろである。現場に駆けつけてみると、人の子一人おらず倉庫も鍵がかかっており、盗難の形跡も無い。とにかくこんな訴えが連日山のように来てた」

 そして、このような連日山のように来ていた訴えを、検証しないで作成した国際委員会の最終報告書が残っている。それによると、「殺人49件、傷害44件、強姦361件、略奪他170件、連行390件」となっている。例え全部信用したとしても、殺人は49件だったという事になる。さらには、このすべてが日本軍による犯罪とも言い切れないのである。

 結論として、南京事件における非戦闘員の虐殺者数を直接算出するのは不可能であると言えるのではないだろうか。当時南京にいた人物が証言しても、その多くが検証無しの伝聞と推測だからである。

 では、非戦闘員の虐殺者数は謎のままであるのか。これを、前述した紅卍字会の埋葬者数からこれを導き出してみたいと思う。といっても、戦死者の数が不明である以上、埋葬者数からの引き算ではこれを求める事は出来ない。しかし、紅卍字会の資料には幸いな事に、南京城内での埋葬者数と南京城外の埋葬者数が残されているのである。以下がそれである。

 「最近までに城内で1,793体(計算間違いで実際は1,795体)、城外で30,311体を片付けた」『大阪朝日新聞北支版(1938年4月16日)』

 これによると、城内での埋葬者数は1,793体という事になる。なお、実際は個々の埋葬者数の足し算の計算間違いのため、1,795体である。 もし、日本軍将兵が単独犯あるいは少数での、軍命令によらない非戦闘員の虐殺を行った場合、わざわざ南京城外に運び出すだろうか。そのまま殺害した現場に放置するのが普通ではなかろうか。前述したように、安全地帯内外の移動は2月末まで日本軍将兵といえども命令によらなければ禁止されていたのである。殺害した遺体を、わざわざ城外に運び出している途中に憲兵にでも見つかろうものなら厳罰に処されるのである。故に、そのまま放置するのが自然だろう。

 では、日本軍が組織的に非戦闘員を虐殺した場合はどうであろうか。この場合は、第7連隊の例をとってみれば分かるように、南京城外での虐殺という事になる。しかし、日本軍の組織的な虐殺であったのならば、何らかの命令書又は、命令を下した・下されたという証言が残っていて当然ではないだろうか。ましてや、中華民国の首都南京において一般民衆を虐殺するわけである。大本営当たりの命令書又は、戦争指導者達の証言というものがあってしかるべきではないだろうか。

 では一体、1,795体という遺体の数は何を表すのであろうか。二つほど考えられる。一つ目は、前述した通り日本軍将兵の単独犯行説である。しかしこの場合は、軍命令では非戦闘員を虐殺せよなどという命令は下していないわけであるから、殺人を行った日本軍将兵が殺人罪に問われるだけである。軍、つまり日本軍そのものが殺人罪を問われる事はないのではないだろうか。

 しかし、1,795体すべてが日本軍将兵による単独殺人だとすると、説明出来ない事が一つ残る。二つ目の理由であるが、挹洪門等での南京防衛軍兵士の同士討ちである。陥落間際の南京から多数の防衛軍兵士が脱出を試みたという事は前述したが、その際防衛軍の中の督戦隊によって多数の防衛軍兵士が敵前逃亡を理由に射殺されているのである。その数は正確にはわからない。NYタイムズのダーディン記者はこう記している。「(中略)逃げようと殺到してくる味方の中国兵を銃撃して、追い返そうとした。撃たれたり、押されて圧死したり、城壁から転落死したりで死体の山ができた。中国兵の死体は高いところで6フィートにも達していた」

 私個人の見解としては、1,795体のおおよそは防衛軍兵士の同士討ちであったのではないかと考えている。非戦闘員の虐殺はあったとしても、日本軍将兵の単独犯であると考えられる。つまり、日本軍そのものの責任を追及する事は出来ないのではないだろうか。 以上で、今回の論文を終わりたいと思う。そして最後に、総結論を述べたい。

 まず、戦闘員及び戦闘員と思われる者の虐殺者数は、「第7連隊が行った南京城内掃討作戦における虐殺者数6,670名」及び「歩兵第66連隊第一大隊が虐殺した捕虜、最大で約1,500名」そして「歩兵第103旅団第65連隊が虐殺した捕虜、最大で約4,000名」及び「戦時国際法違反の名目で処刑された捕虜α」を足した数であると考えている。そして、個人的見解は約12,000名である。

 また、非戦闘員の虐殺者数は、「第7連隊の城内掃討作戦の際に、戦闘員に間違われて虐殺された者」及び「南京城内安全地帯において、日本軍将兵に殺害された者」を足した数であると考えている。そして、個人的見解はほぼ0である。なお、「南京城内安全地帯内において殺害された者」は、日本軍将兵単独での殺害であると考えている。

 以上をもって、『南京事件を基本から再検証する』を終わりたい。 本来なら、ここから南京事件を取り巻く政治問題及びその解決法等を進めていくべきなのであろう。しかし、私は今回の論文では、南京事件そのものの再検証のみを行うつもりであったので、ここで筆を置きたいと思う。末筆ながら、最後まで稚拙な論文にお付き合い頂いた皆様に感謝したい。

 以上

主な参考文献
秦郁彦著『南京事件』中公新書1986
秦郁彦著『現代史の争点』文春文庫2001
『諸君!』(1998年2月号)秦郁彦『南京大虐殺、「ラーベ効果」を測定する』
冨士信夫著『南京大虐殺はこうして作られた』展転社1995
東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』展転社1998
藤岡信勝、東中野修道著『ザ・レイプ・オブ・南京の研究』祥伝社1999
立作太郎著『戦時国際法論』日本評論社1931年
偕行社『南京戦史資料集』偕行社1989
洞富雄、藤原彰、本多勝一編『南京大虐殺の研究』晩聲社1992
南京事件調査研究会編『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房1999
本多勝一・藤原彰編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』大月書店1996
『SAPIO』(1998年12月23日号)笠原十九司『日本軍の中国人20万人大虐殺を否定したがる論者たちへ!』





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