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果たして本当の事なのだろうか? ここではそれを検証して行きたいと思います。 なお、情報源はほとんど2ちゃんねるの三国・戦国時代板及び日本史板です。 信用できねーよ!っていう方は流して読んで下さい。 まじかよ!っていう方は、専門書を読んでさらに研究してみて下さい。 日本人でこの名前を聞いた事の無い人はいないだろう。もし知らない人は授業中寝ていたに違いない。それほど有名な合戦が、この桶狭間合戦である。ご存知の通り教科書などには、上洛を意図した今川義元の大軍を織田信長が寡兵で奇襲し、見事今川義元を打ち破った合戦として記述してある。そして織田信長はこの合戦を機に天下人の階段を上って行くのである。 まず一つ目の問題は、今川義元が上洛を意図していたのか?という事である。後に上洛する織田信長は、愛知・岐阜・三重・滋賀に勢力を伸ばし、後は京に上洛するだけという状況になって、初めて上洛を果たしている。では今川義元の場合はどうか?今川義元の場合は、愛知の織田信長を下してもさらに岐阜・滋賀と下して行かなければ上洛出来ないのである。さらには勢力範囲である愛知東部は、未だに今川家に心服してはいなかったため、油断の出来ない地方であったのである。この状況で上洛を果たすのはあまりにもリスキーだ。このため現在の研究では、今川義元が愛知東部の今川家完全勢力圏化、そして愛知西部への勢力の拡大という目的を持って、愛知西部へ侵入したと考えられている。 では二つ目に、今川の大軍VS織田の寡兵という図式を考えてみたい。一つ目に述べたように、今川義元が単に愛知西部への勢力拡大を狙っていただけであるならば、何も4万とも4万5千とも伝えられている大軍を動かす必要はこれっぽっちも無い。当時の軍隊では、行軍中や合戦の最中などは、主家(この場合は今川家)が食料補給その他を受け持つ。無駄に大軍を動かすのは資金の浪費である。では織田の寡兵はどうだろうか。常識では織田の兵力は、2千ないし4千と伝えられている。しかし、仮にも濃尾平野の尾を支配している織田家の動員兵力がこれだけとはとても思えない。織田家が大半を支配していた尾張の石高は安政年間の検知表で約40万石である。1万石当たり300人の動員能力だとすると1万2千人の動員が可能である。もっとも、戦国時代中期に40万石開墾されていたわけではない。が、いちおうの目安にはなるだろう。今川家の石高も書いておくと、駿河・遠江・三河でおよそ70万石である。これだと2万1千人の動員能力しか無い事になる。だいたい、そのような兵力差であったと考えた方が自然ではないだろうか。話に尾ひれがつくという言葉はまさにこれである。講談によって伝えられてきた事柄には往々にしてこういう事がよくあるので注意したい。 では最後三つ目に、織田信長の見事な奇襲作戦である。常識では、雷雨の中を織田の寡兵が突撃し、見事今川義元を討ち取った。という事になっている。果たして本当にそうなのだろうか?ここまで読んで頂いた方にはお分かりだろうが、この話、信用出来ないのである。この話が初めて表舞台に出てきたのは、慶長16年に出版された小瀬甫庵の『信長記』である。おそらくこの本が今日までの常識を形作って来たのであろうが、注意しておきたいのは、小瀬甫庵は小説家という事である。小説家は、話を大きく見せたがるものだ。なぜならそうしなければ売れないからである。ここに、小瀬甫庵が参考にしたと思われる本がある。織田信長の家臣太田牛一が書いた『信長公記』だ。これには信長が奇襲したという事は一切書かれていない。むしろ、織田軍は今川軍に対し正面から突撃し、突撃した結果運良く今川義元の本陣に突き当たる事が出来、今川義元を討ち取る事が出来たと記述されているのである。さらには、不思議な事にこの小瀬甫庵の『信長記』、太田牛一が死んだとされる慶長15年の翌年に出版されているのだ。なにやら意図的なものを感じずにはいられない。 結論 常識:上洛を意図した今川義元の4万5千の大軍を、織田信長率いる2千の寡兵が雷雨の中を義元本陣めがけて突撃し、見事義元を討ち取った。これを機に信長は天下人の階段を駆け上がった。 新説:三河の完全勢力圏化及び尾張への勢力浸透を目指した今川家と、尾張を支配していた織田家が正面から衝突し、正面を突破した信長の軍が義元本陣を突く事が出来、義元を討ち取る事に成功した。東からの脅威が無くなった信長は美濃への勢力浸透を画策するようになった。 日本の国技は相撲である。サッカーでは無い。では何故相撲が国技になったのか?ずばり織田信長が相撲好きだったからに他ならないだろう。信長の相撲好きは有名で、暇さえあれば、いや、合戦の最中でも相撲をしていたそうだ。 では、日本がサッカー大国になる要素はあったのか?はっきり断言しよう、あった。桶狭間合戦がその契機であったと言えるだろう。桶狭間合戦では今川義元が討たれ、その後今川家は歴史の表舞台から消え去る事になったのであるが、もし(歴史にifは意味を成さないとも言えるが)ここで、織田の軍が正面突破出来ずに、数で今川軍に押される展開になったとしたらどうであろうか。石高ベースで倍近い差がある今川家と織田家である。織田家が今川家に従属する形も容易に想像できるだろう。 では織田家が今川家に従属し、今川家が歴史の表舞台から消え去らなかったら、日本の国技はどうなるのか?その答えは、今川義元の子である今川氏真が導き出してくれるだろう。この今川氏真、史実では義元の後を継いだ後、父親の仇を討つでも無く四六時中蹴鞠をやっていたのである。信長の相撲に対する情熱、氏真の蹴鞠に対する情熱、あまり違いは無いだろう。余談だが、かの徳川家康も最初は氏真に、父親の仇を討つべく織田家に対し合戦を挑むべきだと再三に渡り言上したが聞き入れられず、逆に織田家とよしみを通じるようになるのである。 もし今川家が織田家を従属させ、変わりに歴史の表舞台に台頭していたのなら、義元の後継者氏真の趣味がそのまま今日の日本の国技となっていた可能性は非常に高い。これは、今日静岡のサッカー人口を考えてみると分かりやすいだろう。今川家が天下を取ったら、日本全国が静岡と同じサッカー人口となる。仮に近畿地方と東海地方だけだとしても、十分国技になりうるサッカー人口が確保出来るのではないだろうか。 結論 史実:織田信長が天下人になり、相撲が国技になった。 If:今川氏真が天下人になり、サッカーが国技になった。 こう考えてみると、歴史は非常におもしろいものである。最後に、一言申し上げておきたいのだが、私は何も日本の国技が相撲だからどうのと言うつもりはこれっぽっちも無い。そこだけ申し上げておきたい。 |