愛らしく、ときに愚か 背中を向けて目を閉じて。 いつまでもこうしているわけにはいかない。 それは自来也にも明々白々に分かっていることではある。 雨が上がればいいものをと幾度か考えた。 自来也宅を辞去しようにも女は傘を持っていない。 かといって冬の雨に濡れて帰るほどの意気もまた この女は持ち合わせてはいない。 貸そうかと声をかければやたら人目を気にするは 「あんなの傘じゃない」だとか何とか文句をつけては 駄々をこねるだろうし、いや、まずどんな返答であるにしろ 返ってくれば問題はない。 だからずっと背中を向けて目を閉じて。 二人だんまりを決めている。 自来也は腹だけ膨らめて溜め息を吐いた。 拗ねた女が鼻をすすった。 と襖一枚へだてて背中合わせに座り、あぐらをかいた 自来也は、畳の目を数えるか瞑目するかしていた。 石地蔵になり始めてそろそろ一時間も経つ。 尖った神経は随分緩和され、気配を絶った溜め息も吐き尽くした。 何をしているのだとは、先ほどから何十回も繰り返した 自問で、繰り返すたびに己の出す答えの傾向は定まってきつつある。 喧嘩だ。 いうなれば喧嘩だ。 が怒鳴りだした原因は自来也にしてみれば実に些細な 部類のもので、なぜああまで怒るのかわからなかったし、 わからないから勝手に怒って勝手に拗ねて騒がしい騒がしいと 相手にしなかった。 真剣に取り合わない自来也の態度はますますをいきり立たせ、 怒り心頭のはしまいには何を言っても無駄だと叫んだ。 やっと収まったかと思えば、撫でてもさすっても今度は何も 言わない、自来也を見もしない。 どう見ても自来也が火に油を注いだのは明らかだった。 こりゃ喧嘩だわいなと音を立てずに笑う。 笑ったところで何も変わらない。 雨も止まない。 「………」 背中のうらのあの背中。 は膝を抱え、両の爪先を冷え性気味の手でぎゅっ と握って、顎を右の膝小僧に乗せ、畳の目を数えるか 瞑目するかしているのだろう。 泣いてはいない。 はじめから泣きそうではあったが、ついに泣きはしなかった。 変なところで意地を張る女だ。 時折鼻をすすっているから、目が(もしや鼻も)すこし 赤くなっているかもしれない。 こうも近くにいるのに寂しげな姿形ばかり目に浮かぶ。 まいったもんだと自来也は膝で拳を握った。 自分の歳をくった手でも、頬を包んでやったら猫のように 目を細くして、それを見て自来也も頬を緩めて、 なあ、。 後ろ向きの背中へ。 届きはしない。 「……寒かろう」 二人を隔てた襖の敷居にのコートが落ちている。 脱け殻のように横たわって、ふにゃけた右袖が自来也へと伸びている。 あれが鏡であったらが背を丸めているのが見えるはずだ。 自分の間抜けな顔も見えるだろう。 ただし冷え切っているのはお気に入りの一品。 細く息を吸うと唇が冷えた。 手を組んで、ほどいて、組んで、親指をつつき合わせる。 どうしたらいい。 どうしたらいいかは、きっと分かっている。 コートの右腕にすがらなくとも。 「すまなんだ」 なに、いや、に対してだ。 そう考えをめぐらせながら雨脚の具合を聞いていると、 「なにが」と、耳になった背中にくぐもった声が届いた。 きつく肩を抱いた腕に顔を伏せている様子が像を結ぶ。 かすかな反応が喜ばしくもあり、想起された姿が 苦々しくもあり、部分部分ゆがんでなんともひどい顔だ。 手のひらの付け根で、たしなめるように頬をこすった。 俺はおまえが何を言おうとしたのか欠片も解らないんだよ、 なぜならおまえの怒声をどれひとつまともに 受け取らなかったからだろうし、それがおまえを憤慨させている 原因の一部でもあるのだろう、だから、 「おまえが何を、」 「なんにも分かってないのに謝られても困る」 「そうだな」 「馬鹿みたい」 「……そうだ」 馬鹿みたい。 馬鹿みたいな自分。 それは的を射こそするが、みたいな安易な測定値より、 たいてい馬鹿は際立って馬鹿なのだ。 想像を凌駕するくらいけったいなことをするし言うし考えてもいる。 それをうまく伝えられなかったり隠したかったり気付かなかったりする。 ときには(奇跡的でないにしろ)偶発的な勘の良さで 気取って欲しかったり、望むことすら忘れて、同じ土俵に 立っていると頭から信じていたりする。 だけどそれはおまえもだろう? 自来也は畳に拳をついて、くるりと襖に向かい合った。 向こうを意識して背筋を伸ばすのも無駄だとは思わなかった。 「のォ、もういっぺん話を聞かせて欲しいんだが」 「……話したら謝るの?」 「そりゃ内容次第だのォ」 「ちゃんと聞く?」 「聞く」 腹に力を込めて誓う。 膝を掴んでいた手を襖にかけた。 引くと、襖が敷居に落ちたコートを引きずってゆく。 まずいと思ったが持ち主は背を向けていてそれどころではなかった。 膝を抱えて、肩を抱いて、腕に顔を押し付けたの背中は 拒絶するように、切望するように丸くなってそこにある。 「寒かろう」 手のひらを背骨に添わせて一撫でした。 それから胸でくるむように。 ちぢこまった背を抱きしめると、更にきゅうと小さくなる。 見え隠れする喉元がしゃっくりのように痙攣して、 嗚咽と悲鳴のあいのこみたいな鋭く、小さく、短い音がした。 「ぬくいな」 返事はない。 自来也は黙って冷たい髪に頬を、それから鼻先を押し付けた。 「なあ、」 「…ばぁか」 かすかな声はすこし震えて、つつみ込んだ胸をたどたどしく引っかく。 愛らしい傷痕が自来也の顔を情けなくする。 「まったくだ」 が顔を上げるまではこうしていよう。 手先足先は冷たいが、腕に抱いた体温は概ね心地好い。 ぎこちなく顔を上げたらこれでもかと甘い口付けをひとつしてやろう。 少々機嫌を損ねたところで、先日暖房器具を出したばかりの 居間へ通して、買っておいた干菓子を茶請けに暖をとろう。 襖に引っかかっているコートを拾うのも忘れずに。 2004.12.23 白木よう様 白木様、ありがとうございました! くり坊 ← |