夜の帳の下りたアレクサンドリア高原は静寂に包まれていた。

 有り合わせの携帯食で腹を満たすと、ラニは焚火の前で膝を抱えて座り、自分の靴先を見つめていた。ラニと、焚火を挟んでラニの正面に腰を下ろすサラマンダーの他には、辺りに人の気配はない。
 どこか遠くで獣が吠える。火にくべた薪が爆ぜる。
 ラニもサラマンダーも一言も発することなく、時折聞こえるそれらの音に耳を傾ける。眼前で焚かれた炎の暖かさに、ラニは陶然として目を閉じた。瞼の裏には数刻前のアレクサンドリアでの一幕が、まるで夢を見ているように鮮やかに蘇る。

 ――会わせてくれ、愛しのダガーに!!

 『君の小鳥になりたい』の上演中、大観衆の見守る舞台の上で被っていたマントを脱ぎ捨てて叫んだジタンの声と共に。



 ガイア全土を巻き込んだ先の大戦以来、アレクサンドリアがこれほど沸いた日は無かっただろう。
 かたく抱きしめ合う舞台上のジタンとガーネットに、割れんばかりの拍手が送られた。仲間達もラニもアレクサンドリアの国民達も、星を救った英雄と若き女王との再会を心から祝福した。総立ちとなった人々の歓声はいつしか彼らを讃える歌へと変わり――。



「眠ったのか」
「寝てないわ。余韻に浸ってたのよ、昼間の」
 サラマンダーの声で意識を現実に引き戻されたラニは、小さく笑って目を開ける。
「お気遣い、ありがとう」
 顔を上げて言うと、サラマンダーは返事の代わりに肩をすくめて見せた。
 アレクサンドリアの街を出てからというもの、二人の間で交わされた言葉はごくわずかだった。やっぱり日が暮れるまでにトレノまで行くのは無理だったじゃないの、今日はここで野宿するしかないわねだの、自分のぶんばっかりじゃなくてこっちのテント張るのも手伝ってよだの、その殆どがラニによるものである。サラマンダーはそれに短く答えるのがせいぜいで、およそ会話が弾むということがない。相手がダンナじゃ無理もないけど、とラニは苦笑する。
 マダイン・サリでのモーグリ達との騒がしくも楽しい生活は、今やラニにとって何にも変えがたいものとなっていた。
 だけど沈黙もこれはこれで、なかなか心地よいものなのね、なあんて。
「それにしたって、せっかくだからアレクサンドリアでもっとゆっくりするつもりだったのに。予定外だったわよ、これは」
 ラニは腕を伸ばして傍らの鍋を引き寄せ、前もって汲んでおいた水を注ぎ入れる。
「てっきりダンナもお城に行ってジタン達に会うものだと思ってたのに、街を出ちゃうんだもの。アレクサンドリアにいれば、盛大な晩餐会が開かれてたわよ」
 鍋を火にかけると今度は道具袋の口を灯りにかざし、飾り文字で銘柄が記された紅茶の缶と木製の茶匙を取り出した。
「別に、そんなもんに興味はねえよ」
「そうかもね。ダンナはジタンが生きてるんだってことがわかればそれで充分。皆で再会を喜び合うなんて照れくさくて性に合わないから、さっさと街をでてきちゃったってわけなんだわ」
「ずいぶん知ったような口ぶりだな」
「だってそんなとこでしょう、どうせ」
 笑って答えると、サラマンダーは暫く押し黙った後、言った。
「おまえは、晩餐会とやらが惜しくなかったのかよ」
「え?」
 匙の柄を弄んでいたラニはその手を止めて視線を上げた。

 おまえこそどうして出てきたんだと問われ、ダンナが席を立つからじゃないのと返す。

 鍋の中の湯が沸騰を始めた。ゆらり立ち上る白い湯気で、サラマンダーの顔がぼやける。
「し、仕方ないじゃない。ダンナが舞台の跳ねる前に劇場を抜け出したりするから、びっくりして思わず追っかけてきちゃったのよ。待ってって言っても待ってなんてくれなかったし」

 ジタンとガーネットを祝福する人々の拍手と歓声がいつしか歌に変わる頃、サラマンダーはひとり席を立った。それを見咎めたラニはサラマンダーに声をかけたが、どうしたのと訊いてもどこへ行く気よと訊ねても、男は振り返らなかった。慌ててラニはサラマンダーの後を追い、男が街を出るつもりだと悟った時には、すでに劇場を大分離れてしまっていた。
 ラニはアレクサンドリア城下町の大通りで立ち止まり、前を行く男の背中を見つめながら、逡巡した。
 ジタン達のことが気にかかりはした。しかしそこでサラマンダーの姿を見失えば、ガイアを当て所なく旅する男に、再び会える確証はなかった。
 ラニは一度だけちらりとアレクサンドリア城のほうを振り返ると、再びサラマンダーを追って駆けだした。

「なりゆきよ、そう、なりゆき」
 ラニは溜息に見せかけた深呼吸をひとつして、ついでに咳払いまでしてみせる。今ひとつごまかしきれていない気もするけど、ダンナならどうせわかっていないでしょう。それはそれで悔しいんだけどなどと考えながら、ラニは掌を上にした右手をサラマンダーに向かって差し出した。
「ほら、カップ貸してよ、ダンナの」
 飲むでしょう、と視線を紅茶の缶の上に落とし、再びサラマンダーを見て小首を傾げる。
 サラマンダーの投げてよこしてきたカップを両手で受け取り、自分の分の隣に並べた。
「お酒じゃないのが残念ね。ここからだとトレノかダリまで行くか、後はマダイン・サリまで戻るかすればあるんだけど」
「モーグリでも酒なんぞ飲むのかよ」
「もちろん、たくさんじゃないわ。でもクポの実を砂糖と一緒に漬けたのをつくってやると、あいつらも喜ぶから」
 しかし一度、チモモが飲みすぎて大暴れして、取り押さえるのにずいぶん手を焼いたことがあった。おかげでチモモは他のモーグリ達から罰としてひと月間の召還壁掃除を言い渡されて落ち込んでいたことを思い出し、ラニは口元をほころばせる。
「いつかダンナがマダイン・サリに来た時には振舞ってあげるわ」
「結構だ。クポの実の酒じゃ、酒のうちに入らねえ」
「つれないのね。いつか、って言ってみただけじゃないの」
 ラニは缶の蓋を開けると茶匙で茶葉をポットに入れ、湯を注ぐ。紅茶は芝居が始まる前に城下町を散策していたラニが、モーグリ達への土産にとマーケットで購入していたものである。アレクサンドリアの有名なメーカーが売り出しているこの銘柄は、霧の大陸全土で人気が高い。
「この缶が一番小さいやつなんだけど、これだけでいくらしたと思う? でも、先に買っておいて良かったわ。外側の大陸じゃ、ほとんど手に入らないのよね、これ。帰り際にと思ってたら、手に入らないまま街を出ることになってたもの。やっぱり欲しいものがあったら、後まわしになんてしちゃ駄目よねえ」
「そりゃ厭味のつもりかよ」
「そんなことないわ」
「思ったよりもしつこい女だな」
「失礼よね。せっかくおめでたい日だから、お土産をわざわざ下ろしたって言うのに」
 ラニは大袈裟に驚いて、おどけた瞳をサラマンダーに向けて笑った。





 両手に紅茶を注いだカップを持ったラニは、立ち上がり空を仰ぐ。
 中天よりやや東の位置には、冴え冴えと輝く青白い月と、ぼんやりと赤い光を放つ月がのぼっている。視界いっぱいに散らばる星もそれらの月もいつもに増して美しい、そう思われるのは、今日が特別な日だからだろうか。
「ダンナが劇場からいなくなった時、皆が何て言ったかわかる? クイナはね、『サラマンダーはワタシの料理を食べて行かないアルか。残念アル。でも、今度きっと食べに来てほしいアルよ』って」
 中身をこぼさないようにと注意してサラマンダーのもとへカップを運びながら、ラニはクイナの口調を真似て言った。
「エーコもフライヤも呆れてたわ。せっかくジタンに会えたと思ったら、もう行っちゃうなんてせっかちだ、なんて。皆よくわかってるのね、ダンナのこと」
 私は街のほうまで追いかけていって、やっと信じられたっていうのに。エーコ達が少し羨ましいわ、とは口に出さない。
「はい」
「ああ」
 サラマンダーがカップを口元に運びかけるその腕を、ラニはそっと押さえた。
「ちょっと待ってよ、ダンナ」
 訝しげに顔を上げた男に笑いかけると、ラニはその場に腰を下ろす。
「今夜はこういうのが必要でしょ」
 自分のカップをさし上げてサラマンダーを促すと、ややあって男のカップも面倒くさそうに持ち上げられた。
「良かったわね、ジタンに会えて」
「まったく奴らしい、勿体つけた登場だったがな」
 素直でないのはお互い様なので、皮肉も肯定と受け取ることにしているラニである。
「ジタン、嬉しそうだったわ。女王様も幸せそうだったし、ダンナもすごく優しい顔してた」
 ラニはそこで言葉を切り、サラマンダーの顔を覗きこむようにして言った。
「自分で気づいてた?」
 サラマンダーからの返事はない。眉一つ動きもしない。
「ねえダンナ。明日、どこへ向かうつもりなの?」
「まだ決めてねえ」
「また会いに来てくれるでしょ、マダイン・サリに」
「さあな」
「私は真面目に訊いてるんだけど」
「いちいち確認するまでもねえだろう、そんなことは」
 不意をつかれてあやうくカップを取り落としそうになったラニに、サラマンダーは顎でカップを示して続ける。
「早くしねえと冷めるんじゃねえのか」
 お祝いのためのとっておきのお茶なのだと、そう言ったのはラニのほうだ。
「好きよ、サラマンダー」
 呟くように言って、ラニは視線をカップへと移す。そして今度は朗々と、詠うように。
「それじゃ、ジタンの帰還に。それからみんなの幸せに」

 ジタンの、ガーネット様の、エーコのスタイナーのフライヤのクイナの、黒魔道士の村の子達のマダイン・サリのモーグリの、もちろんダンナの私の幸せに、未来に!

「――乾杯!」
 焚火の灯りに照らされた二つの器が、かつんと静かな音をたてた。





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