蝶と鏡
秋も終わりだって言うのに、換気のために開けてた教室の窓。
「うわ、超寒ーっ」
そこから吹き込んできた冷たい風に身震いして、伸ばしかけてた腕をひっこめた。
掃除当番なんてかったるいコト、ホントはサボったってよかった。妙にマジメな稲葉や桐島たちに捕まったのが運のツキっていうか……まあ、どうせ今日はアイツらとの予定もあるし、なんて思ったから、素直に言う通りにしてやったのに。掃除が終わったら窓際の席のあたしに戸締りを押し付けてとっとと教室を出ていったアイツらに、あたしは少しばかり腹を立てていた。
一人きりの教室はさみしくて、イキナリ温度が下がったみたいに感じる。大げさに体を縮こませながら、もう一度開けっぱなしの窓に手を伸ばそうとした。
その時、あたしは思わず息をのんだ。頼りなげにひらひらと目の前を横切ろうとしていた黄色いそれは……蝶々。
掌にも足りないくらいの大きさの蝶が、あたしのいるちょうど正面に飛んで来た時だった。
狙いすましたみたいに、風が吹いた。
あおられるようにして教室の中に舞い込んできた蝶は、こんな季節だからか、あたしの真上で弱々しく羽を動かす。春のタンポポみたいな黄色と羽まわりの黒い縁取りの模様はすごく鮮やかで、くすんでるこの季節の景色には全然似合わない。似合わないけど、でも、やっぱりキレイだ。
蝶はあたしをからかうみたいに窓枠のあたりを飛んだ。しばらくして気がすんだように外へ出ると、風に乗ったのか、すぐに見えなくなった。あたしはただ、その様子を食い入るように見つめていた。蝶からこぼれる鱗粉まで目に焼き付ける勢いで。
それがいなくなった後、時間にしたら、ほんの数十秒かそこらだったんだと思う。だけどあたしの頭の中には、意識と無意識の狭間と、金色の蝶と、フィレモンと……あの時のいろんなコトが浮かんできていた。ビデオを再生するみたいに、ハッキリと。
我にかえったあたしがやっと窓を閉めてカギをかけたのは、寒さで腕に立ったトリハダに気づいたからだった。
あたしはあいにく、それを何かの暗示だとか思うほど、ロマンチストじゃない。
「……そういえば、アレ、蝶々結びっていうんだよね」
それでも蝶は栗色の髪に赤いリボンを結んでいた、ずっと明るくて前向きだったアイツの事を思い出させて、あたしは自然とそう口に出していた。
もしかして、不安だったワケ? あたし達がアンタとのこと忘れるとか…それとも、嫌うとか、思ってんの?
……あたし達、ちゃんとわかってるつもりだよ。アンタの、アンタ達の苦しさも、悲しさも、ひたむきさも。
締め切った教室で、小さく息を吸う。もしかしてさっきの蝶の鱗粉まで、吸い込んでしまったかもしれない。そう思って、わざと一回、それを呑み込むように喉をならす。左手をお腹に当てて、うつむいて呟いてみる。
「安心しなよ。あたしもみんなも、アンタのこと、忘れたわけじゃないし。ここに居るアンタが元気になるのだって、みんな待ってるんだから」
お腹の中の子供に話しかける妊婦みたいな気分になって、そんなことしてる自分がちょっと気持ち悪くて、ちょっとくすぐったくて、ちょっと可笑しかった。
「おい綾瀬、何してんだよ? みんな待ってんだぜ?」
教室の後ろのドアを開ける音と一緒に、稲葉の声がした。
「今行くってば。ていうか、アヤセ一人にシゴト押し付けようとした稲葉達が悪いんじゃん?」
イキナリで驚いたのがばれないように、ワザと怒った顔をして振り向く。
「たかが窓閉めるっていうののどこが仕事なんだよ」
「あ、安心していーよ。病院の後でピースダイナー行くでしょ? オゴリってコトで手え打つから」
「なんでそうなるんだよ?」
あたしはいーからいーから、とひらひらと手を振る。まだ何か言いたそうな稲葉に向かって、わざとらしく腕時計に目をやりながら言った。
「どうでもいいけどさあ。早く行かないと面会時間、終わっちゃうよ? 会えなくなってもいいワケ?」
これで、あたしの勝ちだ。
「と、とにかく急げよ!」
稲葉は派手に足音を立てて、教室を出ていった。少し顔が赤かったのは、あたしの気のせいじゃないハズだ。
自分の席に戻って机の上に座ると、制服のポケットの中から鏡をとりだして、自分の顔を映してみた。鏡の中のあたしは笑うでもなく、怒るでもなく、ただまっすぐあたしを見つめている。
ほら、言った通りでしょ? あたし達忘れてないし、待ってるよ。
なんてゆーか、仲間じゃん? ……もしわかんなくなったら、振り返りなよ。思い出しなよ。みんなそこにいるから。
それは、アイツへの言葉かもしれないし、あたし自身への言葉かもしれない。そんなセリフ、らしくないとは思うけど、気分はいい。鏡の中のあたしも、自然と笑っていた。
それじゃ、あたし達今からアンタのとこ行くからね、……園村。
あ、食べ放題がうらやましかったら、アンタも早く元気になりなよ?
髪を軽く整えて、鏡をポケットにしまう。一呼吸置いて、机の中の荷物−−ペンケースと化粧ポーチ、薄っぺらいノート一冊−−をバッグの中に放り込み肩にかける。
ピースダイナー、ピースダイナーとヘンな鼻歌を歌いながら、あたしは教室を後にした。