――ガーネットや、いいものを見せてあげよう。
夜明けがくる少し前、母は寝室で眠っていたわたしを優しくゆり起こした。わたしが六つか、七つの頃だったろうか。どこへいくのおかあさま、と尋ねても、母はにっこりと笑うだけだった。
さあ、ガーネット、これを着なさい。雨が上がったばかりで少し冷えるからね。風邪などひいたら大変だ。
目をこすりながら夜着を羽織り、わたしは導かれるまま、部屋の外へ出た。
わたしの手を引く母はいったん城を出て、右塔の螺旋階段をのぼった。石造りの塔の中の空気はまだひんやりと冷たく、湿っていた。
ねえ、おかあさま。いいものってなあに? とうのうえにあるものなの?
そうだよガーネット。私達の宝物だ。
穏やかな父と優しい母の愛で幾重にもくるまれ、傷つくことなど知らずに育った。その時も、顔をあげると頬をなでてくれる暖かい手があって、くすぐったさと嬉しさで笑い声をあげた。
夜間に降りつづいた雨のにおいを感じながら、わたし達は上を目指した。
幼いわたしにあわせた母の歩みはとてもゆったりとしたものだった。宝物ってなあに、はやく見せてとせがむわたしは、繋いでくれた手をぐいとひっぱってみせたりする。その度に握り返してくれる力加減が心地よくて、けらけらと大きな笑い声を塔の中に響かせながら、何度も何度も繰り返した。
もう二度と戻らない、遠い記憶――。
あたたかな水が頬を伝う感触で目を覚ますと、すぐ前に、心配そうなジタンの顔があった。
「どうしたんだダガー、悪い夢でも見てたのか?」
薄暗い部屋の中、少しかすれた声でジタンが訊ねる。窓の外からは、さらさらとかすかな雨音が聞こえてきた。ああ、だからあんな夢を見たのだとひとり合点し、わたしの額の上を滑らせる彼の指に、自分の指をからませた。
「とても幸せな夢だったから、きっと嬉し泣きしてしまったのね」
「良かった。どうかしたのかと心配したよ」
繋いだ手とは反対の腕で、彼はわたしの体を引き寄せた。ほうっと吐かれた息が髪にかかる。
「子供の時の夢だったの。わたしは出会った頃のエーコくらいの歳で、お母さまがいて」
「へえ?」
「お母さまもこうして、わたしの頭をなでてくれたものよ」
髪をすいていたジタンの手の動きが止まったので、わたしは顔をあげた。
口元は笑って、けれども眉間に寄せられたしわは、どう見ても困り顔だ。複雑微妙な表情の彼は、なんだかこちらまで悲しくなってしまいそうな声で呟いた。
「ダガー。オレは君の『お母さま』じゃないんだぜ」
「もちろんだわ。ジタンはジタン、お母さまはお母さまだもの」
わかっててくれるなら、オレからは何も言うことはないけどさ。まったく、君って時どき、本当に驚かせてくれるよな。
再び収められた胸の中で、わたしは彼が笑うのを聞いていた。
「……ダガー」
ひとしきり笑った後、すう、と息を吸ったジタンは、ひどく落ち着いた声で言った。
「お母さまに会いたいかい?」
わたしの記憶のなかの母は、誰よりも国を愛し、民を愛する女王だった。今ここに母がいてくれたなら、瓦礫の山と化してしまった街が少しずつ復興するさまを、おそらくいちばん喜んでくれたのではないかと思う。
「ダガー?」
返事の無いことで、彼の声が心配そうに曇る。
「わたしは平気。思い出が痛いのは、わたしが幸福だ
ったあかしなの。……ねえジタン」
表情がよく見えるよう、わたしは彼から少し体をはなした。
「雨」
「え?」
「上がるかしら」
ジタンが顔をあげ、窓のほうを見た。
「さあ、あまりひどく降ってはいないようだけど。どうして?」
「いいえ、なんでもないの」
ジタンは、わからない、というように、わたしの頭をなでた。
タンタラス団で仕事を言いつかる時をのぞけば、彼は世界をまわる旅をして日々を過ごしている。ガイアを巡って、宝探しをしたり、シドおじさまからの依頼でさまざまな調査をしたり。その合間にアレクサンドリアを訪れ、そしてまた旅立っていく。わたしのもとに数日いてくれることもあれば、半日とどまるだけのときもある。お別れにも、ちゃんと見送らせてくれるとき、夜中に黙って去ってしまうとき、いろいろだった。
ねえ、ジタン。わたしが泣いているのに気づいたのはどうして?
またわたしにないしょで、行ってしまうつもりだったのではないの?
彼を困らせる質問ならいくらでも出てきそうだったけれども、わたしはそのどれもをのみこんで続けた。
「わたしは、お母さまのような女王でありたいわ」
この国を愛している。命を賭して守りたいと思う。
けれども、自由に生きなさい、という母の言葉が、今になって鮮やかに蘇る。日が昇ったあと、ぬけがらになったベッドの隣を見た時に決まって訪れる、ひどくもの悲しく、さみしい気持ちも。自由でまっすぐで、どんな時も迷いなく道を貫ける彼の背中をずっと追いかけていたかった。わたしを求めてくれることが何より嬉しく、自分も彼に見合うだけの人間になりたかった。
「お母さまのように、立派な女王になりたい」
この人を縛る枷にはなるまいと、旅立つ背中を、じっと見送る夜もあった。
「大丈夫。ダガーはいい女王様だよ。アレクサンドリアの人達は、みんなダガーのことが大好きじゃないか」
ざわめく心を悟ってか、なだめるような声で彼は言った。ありがとう、とわたしは返し、すぐ近くにあるジタンの顔を見上げた。
「雨が止むまで」
「うん?」
「わたしの話を聞いてくれる?」
「もちろん」
「その頃には、きっと夜も明けているわ。わたしも、雨に濡れたあなたが旅先で病気になってやしないか、心配しなくてすむもの」
「ダガー……」
「謝らないでね、ジタン」
何か言いかけた彼の言葉をさえぎって、わたしは言った。
「そばにいられなくて辛いのは、わたしがあなたを思っている証拠なの。あなたが気にする必要はないのよ。だけど、もう少しこうして、わたしの夢の続きを聞いて」
憧れるからこそ、彼にふさわしい人間になりたかった。強くて公平で泣きたくなるくらいに優しくて、そんな人にわたしはまだ胸を張れない。ただ寄りかかって導かれるのではだめだった。だから、彼の旅については行かない。わたしの愛する国で、わたしの愛する人を待つのだ。その人が帰ってきた時に、彼が誇れるだけの女王でいられるために。豊かな作物と美しい街並と民の笑顔で、長旅を終えて戻る彼を迎えられるように。
「ジタンと、いつまでも一緒にいたい。だけど、わたしはここで待っているわ。だから、きっと帰ってきてね」
母に連れられて登った塔の頂上からは、夜明けのアレクサンドリアが一望できた。雨つゆが朝日を反射してきらきらと輝くさまに、幼いわたしは大きな声をあげた。
わあ……! きれいね、おかあさま、きれいね!
そうだろうとも、ガーネット。私達の国の美しさには、どんな宝玉も敵いはしない。
眩しく光るアレクサンドリアの街並を前にして、微笑む母の横顔と、優しく髪を梳いてくれる指を、今でもはっきりと覚えている。
「そうして朝になったら、お母さまとわたし、二人の宝物を一緒に見てね」
あたたかい胸の中で、わたしは祈った。少しでも夜が長く続きますように。けれども早く夜が明けますように、と。
「離れていても、願うのは、あなたの幸せ」
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