奴隷商人の家と呼ばれる場所は、南エスタミルのはずれにある。さほど広くもない室内には、見ているだけで陰気になる巨大な鉄製の檻が、幾つも放置されていた。海を越えて買われていく人間達を収容していた、どれも正真正銘、本物もホンモノの檻だ。奴隷達のほとんどが、貧しい家から口減らしとして売られていく若い女性だったらしい。窓もなく昼でも薄暗い部屋の壁には、彼女達の涙がしみこんでいるような気がする。その証拠に、今でも空気はじっとりとして湿っぽく、息苦しい。
知らないうちに空気を求めてか、手近にあった鉄格子にもたれかかり、ふう、とため息をついていた。海沿いの街らしい潮のにおいとうすっぺらい壁の木のにおい、カビのにおいが、いっぺんに鼻孔に流れ込む。頭がくらくらした。
立ち去ろうと何度も思うのに、足が石になったように動かない。こんな所にいつまでもいたら、気がめいるのはわかりきっていることなのに。
ジャミル
薄ぼんやりしていた頭にその名がよぎった時、急激に意識が覚醒した。
部屋をぐるりと見渡してみる。扉のほうへ目を向けて、耳を澄ます。聞こえるのは、ざあん、ざあん、と規則的に寄せる遠い波の音だけだった。
ジャミルがいなくて、さみしいよ
鉄格子に背中をもたせたまま、ずるずると腰を落としながら、何度目とも知れないため息をついた。息といっしょに声に出して呟いていたかもしれない。ずいぶんと一人きりでいるので、外の世界とのバランスが、上手く保てていない気がする。とうの昔に街を出て行った相棒が、今にも扉を開け、ひょっこり顔を出しそうな錯覚に襲われる。
ジャミルと別れたときから、ずっと願い続けてきたことだった。
またいっしょに仕事をして、貴族の屋敷の警備兵に追われ、鼻の曲がりそうなエスタミルの下水道を全力で駆け抜けて――。ケチでつつましやかで、けれども二人で心から笑いあえた日々を、もう一度取り戻したかった。
ぎぎぃっと古びた扉のきしむ音に、思わず肩を震わせた。逆光でにじんだ輪郭からは、入り口に立っているのが誰なのかわからない。
「ジャミ――」
「ダウド! ここにいたんだね、探しちゃったよ」
張りのある高音の明るい声が、部屋の中の重い空気を一気に拭い去ってしまったように思われた。
「なんだ、ファラか。びっくりさせるなあ」
同時に、自分の心も現実に引き戻され、胸のうちで安堵の息をつく。たん、たん、と軽い足取りのファラは、いたずらっぽい笑みを浮かべながら小首をかしげた。
「驚いたのはこっちだよ。どういうつもりでこんな所にいるの? まったく、趣味が悪いったら」
笑ったまま腰に手を当てて、ファラが軽くにらみつけてくる。責めているんじゃない。じゃれているのだ。もちろん、ファラにしてみれば、自分が商品として捕らえられていた場所に足を踏み入れるのは、気持ちのいいものではないのだろうけれど。
「どうしてだろう。おいらにもよくわかんないけど、なんとなく足が向いてたんだ。ジャミルの面影を探していたのかな」
「感傷的ねえ、ダウドは。あたしよりもよっぽど繊細だよね」
けらけらとおかしそうに笑ったファラは、両手をうしろで組んで言った。
「ジャミルったら、どこで何してるんだろうね。こんなにあんたが恋しがってるっていうのに」
「それはファラだって同じだろ」
「そりゃあ、幼なじみが心配じゃないやつなんていないよ」
ジャミルがいなくなってから挨拶代わりに何度となく交わされいる会話をくりかえし、ファラは軽く肩をすくめた。下を向いてしまったので、どんな目をしているのかわからない。だけど、寂しがっている、と、それだけはわかる。なにしろ、ずっとそばにいて見守っているのだ。ファラのことは、誰よりもよく理解しているつもりだった。
「……それにしてもさ、ダウド。あたし、ちょっと意外だったよ。あんたとジャミルはいつもいっしょだったから、あたし、てっきりあんたもこの街を出て、ジャミルと旅立つと思ってた。それにウハンジに立てついちゃったんだもん、ここには居づらいでしょ?」
「エスタミルを出たくなかったんだ」
「そんなに好きなの、ここが」
「ファラがいるからね」
はじかれたように顔をあげたファラの目は、驚いたように見開かれていた。泣きそうな瞳だった。もちろん、嬉し涙なんかじゃない。
貧民街で生まれ育ったくせに、曲がったところのない、まっすぐな心の動きは、手に取るようにわかってしまう。ファラの気持ちを改めて確認させられて、こっちは苦笑するほかなかった。
「だってさ、ファラ。おいらとジャミルとファラは、小さい頃からずっといっしょだったじゃないか。ジャミルとおいらの仕事は、幼なじみのファラを守ることなんだよ。いちおう、男なんだからね。二人とも南エスタミルからいなくなったら、ファラを守る人がいなくなっちゃうよ。ジャミルはデステニィストーンを探しに旅をしたいんだったら、代わりにおいらが残らなくちゃ。だろ?」
「もう、てっきり、愛の告白かと思っちゃったじゃない! ドッキリして損したよ」
緊張のほどけた表情のファラは、もう一度、確かめるように言った。
「あたしじゃなくて、ジャミルのためなんだね?」
「そう。なにしろおいら達は、一心同体なんだよ。もちろん、おいらはウハンジに見つからないように、こっそり隠れてなけりゃならないけどね」
「一心同体ねえ。男同士の友情ってやつ? なんだか妬けちゃうな」
うーんと伸びをしたファラは、ぽつりと言った。
「あんた達を見てるとね、あたし時どき、男に生まれたかったなあって思うよ。そしたら、あたしとあんたとジャミルとで、マルディアス中、どこへでも冒険に行けるのになってね。あたし達三人いれば、怖いものなしって気がしない?」
ファラが開け放しにしてきた扉の向こうから、弱い風が吹き込んできた。塩気がきつく生ぬるい風は、ほおにわずかに感じる程度で、すぐに部屋のよどんだ空気の中にとりこまれて消えてしまった。前髪を揺らす力すらなかった。
ファラはそれきり黙りこんだ。ジャミルといっしょに旅をしている姿でも、頭の中に思い描いているんだろうか。
「そうだね。ファラがもし男だったら――」
子供の時のまま、いつまでも屈託なく笑いあい、いつまでも三人一緒にいられたはずなのに。ファラを見るたび、ジャミルと笑うたび、こんな辛い気持ちを味わわずにすんだのだろうに。
途切れた言葉の続きを、ファラが不安げな顔をして待ち続けている。
胸が痛んだ。
「ファラ……」
「――さ、そろそろ行こっか! 今夜はうちに夕ご飯を食べにおいでよ。腕をふるうからさ。ジャミルのやつ気の毒だよね、あたしの手料理をたべられないんだから!」
伸ばしかけた手をかわすように、体をよじらせて扉のほうを向いたファラは、わざとらしいほど明るい声で言った。
ごめん。ファラを追いつめたいわけじゃないんだ。ジャミルを裏切りたいわけでもないよ。おいら、ファラもジャミルも、二人とも好きなんだから――。
言い訳すればするほど、ファラを困らせることになるに違いない。行き場を失った間抜けな腕を引っ込めて、曖昧に笑うことしかできなかった。
来た時と変わらない軽い足取りで、ファラは出口へと向かった。
波の騒ぐ音と足音が、耳の奥で一つになる。戸口から射しこむ光が、部屋に舞う小さな塵や埃を白く浮き上がらせていた。ちらちらと光を浴びて、またたいているようだった。どうして塵なんかが、こんなに綺麗に見えるんだろう。まぶしさのあまり目を細めた拍子に、もたれていた鉄格子の一本を後ろ手で強く握りしめていた。ひやりとして硬く無機質な感触に、なぜか背筋がぞっとなった。
「ダウド?」
逆光の中で、ファラが振り向く気配がした。まぶしくて見えないけど。
「なんでもないよ」
暗闇に慣れきったおいらの目には、この光は刺激が強すぎる。顔を手で覆いながら言うと、ますます心配そうなファラの声が返ってきた。
「ね、ほんとに大丈夫なの? どっか悪いんじゃないの、ダウド?」
とん、とん、と、ファラが気遣わしげにこちらに向かってくる音がした。
「平気だよ。光に目が慣れてないだけだ。ファラ、先に外に出ててくれるかい? おいらもすぐ行くから」
ファラはそれでも少し迷っているようだったが、じゃあ後でね、と言い残し、部屋を出て行った。一人になりたいおいらの気持ちを察してくれたのかもしれない。ファラが触れたのだろう扉のたてた、ぎいという不快な音が耳を離れなかった。
悲しむことはない。何を悲しむことがあるんだろう?
ファラに必要なのは、おいらじゃない。そんなこと、とっくの昔にわかっていたはずだ。ジャミルの気持ちだって、もちろん知ってる。友達二人が心を通わせあってるんだ。喜ぶべきことじゃないか。
手を顔に当てた格好のまま、いつまでも動くことができずにいた。早く行かないと、ファラに変に思われる。頭では理解しているのに、足が前に出てくれない。気がつくと、顔にやった手で握りこぶしをつくっていたらしかった。爪の食いこんだ掌の肉が、熱く、痺れる。
――どうしてだろう。
同じ幼なじみなのに、どうしておいらじゃだめなんだろう――?
劣等感、嫉妬、絶望。醜い感情の渦まく心に直面するくらいなら、痛みに身を任せていたほうが救われる気がした。
どのくらいそうしていたのか、今振り返ってみてもよくわからない。外はまだ夕暮れ前だったから、それほど経っていたわけではなかったはずだ。時どきうめいていた気もするし、ずっと泣いていたような気もする。このあたりの記憶は霧がかかったようにはっきりしない。ただ、不意に聞こえてきた声だけは、鮮明に記憶している。
風が唸るような、金属を引っかくような、低くもあり高くもある怖ろしい声だった。同時に、脳天をとろかすような甘い響きも持っていた。
声は言った。
(――何ゆえに、世界は人々にこうも苦しみを与えるのだろう)
確かに、声はそう言った。そこでやっと我に返った。
「……誰かいるのかい?」
部屋の中には、相変わらずおいら一人で、あとは鉄格子が幾つもごろりと転がっているきりだった。
確かに聞こえたはずなのに。いぶかしんで首をひねってみても、誰もいないことにかわりはない。
と、急に目が眩んで、倒れそうになる足を踏ん張った。反射的にかたく閉じていたまぶたの向こうに、ファラとジャミルの笑顔と、美しい花々が咲き乱れる、果てしない草原が見えた気がした。
やっとめまいが治まると、不思議と頭がすっきりしていた。長い眠りから覚めた後のようだった。それからは一度も振り返らず外へ出て、ファラの家で夕飯をご馳走になった。おいらは他愛無い話でファラやファラの母さんと笑いあい、二人の料理の腕前を褒めた。夜が更ける前にファラの家を後にして向かったのは、いつも寝泊りしている空き家の屋根裏ではなかった。吸い寄せられるように、南エスタミルを出て、タルミッタの西へ。初めての道でも迷わなかった。歩いている間じゅう、ファラとジャミルのことを考えていた。ずっと。
暗がりのなかに、ひと際濃い闇を見つけた時、ここだ、と直感した。そして、
暗転