最果て
わたしはバス停のベンチに座っていた。
持っているのはわたしの上半身くらいの大きさのキャンバスだけで、それをベンチの背に立てかけていた。制服のスカートの下からのぞく膝をそろえて、その上に置いた両手の指を絡ませて。わたしはひとり、バスを待っていた。
目の前の道路も歩道も、とにかく人気がなくがらんとしていた。わたしの視界は道の向こう側に並ぶ建物の白い壁でさえぎられている。斜め向かいのビルの屋上に取り付けてある看板はチョコレートのCMで、「新製品」の文字には、もう何度も目を通していた。薄曇りの空もねずみ色のアスファルトも、見ていてあまり楽しいものじゃない。わたしはバスがいつ来るのかも知らなかった。
小さくため息をついてキャンバスを手にとると、膝の上に乗せる。両手で支えてにらめっこを始めたその絵を、わたしはいつまでも完成させることができずにいた。
「どうして完成しないですか?」
いつからそこにいたのか、ベンチの脇には小さな女の子が立っていた。
「完成したはずなんだけど、何かが足りない気がするの」
わたしが答えると、白いワンピースを着たその子は、不思議そうに首をかしげる。わたしの顔は絵のほうに向けたままだったけれど、座っているわたしの頭の位置よりも女の子の身長はちょっと低いくらいだったから、そういう気配はよくわかった。女の子は茶色に近いベージュの何かを両手で抱えていた。
視界の隅で、女の子のワンピースの裾を飾るレースが風に揺れる。わたしが右手で自分の髪と頭のリボンを押さえた時には、もう風は止んでしまっていた。リボンをなおしながら、何の話だっけ、と考えてしまう。
「おねえちゃんの絵のお話です」
そっか、そうだったね、とわたしは笑った。
「ほら、この絵」
わたしは腕を伸ばして、女の子にも見えるようにしながら続けた。
「『楽園の扉』っていうの。コンクールで賞ももらってるのに、今見ると、何か物たりなくて」
「なにか、ですか……」
「それがわかれば完成なのにね」
わたしたちはそのまま黙り込んだ。女の子がベージュの塊を抱えなおすのがわかった。
「座らないの?」
沈黙はやっぱり居心地が悪かったし、こんな小さな子が立っていることにちょっと罪悪感も感じていたから、わたしは尋ねてみる。視線は絵のほうに向けたまま。
「ここでいいです」
きっぱりと、女の子は言う。よく通る声だな、なんてぼんやり思った。声量があるわけじゃないし、話し方もどこか頼りなげなのに。
「でも、バスはいつ来るのかわからないよ?」
「バスに乗るわけじゃないです」
じゃあどうして、と聞こうとして気がついた。ううん、本当はずっと、気づかないふりをしていただけだった。
声が響くのは、まわりがこんなにも静かだから。そしてどうして静かなのか、わたしは知ってる。
まるで閉館間近の図書館や、放課後の教室や、
みたいに静かな、
ここがどこなのか、わたしは知ってる。
「まいちゃんは、おねえちゃんが」
ベージュの塊が女の子の腕の中でまた動いた。見なくてもわかる、あれはクマのぬいぐるみ。中の綿が多いのか少し重みがあって、抱きしめたり頬擦りしたりするときには安心できた。布の触りごこちも良くって、小さい頃からわたしのお気に入り。大きくなった今も、ずっと側に置いているくらいの。
手のひらが冷たい。そう感じただけかもしれない。
「おねえちゃんがもとの世界へかえるから、お見送りにきたんです」
靴音が二つ近づいてきた。ひとつは歩幅の小さな子供。きっと真っ黒のワンピースを着てる。もう一人はわたしと同じエルミン学園の制服を着て、髪にはリボンを結んで、わたしと同じ革のローファーを履いているはず。二人の足音はベンチの横、女の子のうしろあたりで止まった。
「終わったよ」
さっきの女の子とは違う、少し大人びた声がそう言った。わたしとおんなじ声。頭の奥がくらくらした。
「うん」
言葉は短くても、わたしにはちゃんとその意味がわかっていた。ここはわたしが作り上げた世界で、終わった、っていうのはパンドラとの戦いの事で、
「みんな、帰っていったよ」
「……うん」
みんなはわたしを救ってくれて、もとの世界へ帰っていって、
「あなたも戻らなきゃ」
今度はわたしが帰る番で。
へんじができない。
三人のほうを振り向くことができずに、わたしは膝に乗せたキャンバスをただ見つめていた。
その時、わたしは思わず顔を上げた。道路の対向車線を左から右へ、蝶が飛んだ。
それはトラックだった。目の前に来るまで全然気づかなかったし、走っているのはそれ一台きりだからあっという間のことだったけれど、とにかくトラックには草原……らしい緑の背景……を飛ぶ、一匹の黄色い蝶が描かれていた。
わたしはキャンバスに目を落とす。それが偶然だとか、運命か何かだとか、そういうことはどうでもよかった。
絵は、やっと完成した。わたしにはそれで充分だった。
「おねえちゃん、バスが来ました」
道路の向こうから、バスが近づいてくる。わたしは立ちあがり、初めて声のするほうを振り返った。
白い服のまいちゃんはぬいぐるみを抱えて不安そうにわたしを見上げていた。
黒い服のあきちゃんは泣きそうな顔をして俯いていた。
理想のわたし、園村麻紀はあきちゃんと手をつないで、もう片方の手をまいちゃんの頭の上に置いて、わたしを見ていた。
バスはゆっくり減速すると、わたしたちの前で止まった。
音もなくドアが開く。
「ありがとう」。「ごめんね」。
言いたいことも言わなきゃいけないことも、たくさんあった。
「……これ」
でもわたしの口をついて出た言葉は、そのどれでもなかった。
「この絵、もらってくれる?」
驚いたような顔をしている『理想のわたし』に、わたしは持っていたキャンバスを差し出す。
「いいの?」
「うん。でも……いつでもいいから、描き足しておいてほしいの。ここに」
わたしはキャンバスの真ん中を指差した。
いつでもいい、何を使ってもいい。なんならクレヨンや、マジックでだって構わない。
わたしを意識と無意識の狭間に導いた、あなたたちに出会わせてくれた、
蝶をここに。
「うん、わかった」
理想のわたしは、キャンバスをとても大事なもののように受け取ってくれた。
「あきはあんたたちも、マイも、大っキライ」
あきちゃんはずっと俯いていた。しゃがんで目の高さを合せてみる。あきちゃんはわたしを見てくれない。わたしが両腕を広げると、あきちゃんは誰かに叱られるときのように、びくっと体を震わせた。
「あんたなんか、はやくどっかに行っちゃえ……!」
あきちゃんを抱きしめながら、わたしはその言葉を耳元で聞いた。あきちゃんはわたしを拒まないでいてくれて、何よりもその肩はとても小さくて、わたしは泣きたくなるのを一生懸命がまんした。
顔を上げると、まいちゃんが微笑んでいた。立ちあがりながらぬいぐるみの頭を撫でる。
全ての元凶はわたしだったんだもの。
帰った後、みんながわたしを受け入れてくれるのかを考えると、本当はこわい。
でも、バスに乗るのはわたしだけ。
バスに乗れるのはわたしだけ。
だから、そろそろ行くね。
「……さよなら」
いつのまにかパジャマ姿になっていたわたしはバスに乗りこむ。同時に、扉が閉まった。
車内には他に乗客はいない。わたしは一番後ろの窓側の席に腰を下ろした。
重力なんかまるで感じさせず、滑るようにバスは発進する。わたしはずっと、遠くなっていく三人の姿を窓から見ている。バスはどんどんスピードを上げていって、
それからのわたしは、日を追うごとに回復に向かっていった。
……みんなに会うまでは、やっぱり不安だった。
でもお見舞に来てくれたみんなは、拍子抜けしてしまうほど以前どおりで。
「退院したら、ピースダイナーでおごってもらう約束したんです」
今日はにぎやかだったわね、と言う看護婦さんにそう答えると、看護婦さんは楽しそうに笑った。
消灯時間を過ぎた病室に、備え付けのヒーターが温風を送り出す音がやけに響く。
『楽園の扉』が掛けてあるはずの、向かって右の壁のほうへ首をひねってみた。キャンバスの輪郭がぼんやり闇に浮かんでいる。しばらく目をこらしてがんばってみたけれど、それ以上は無理だった。腕の中には、クマのぬいぐるみ。定位置はベッドから少し離れたヒーターの上だけど、部屋を出て行こうとしていた看護婦さんにお願いして渡してもらった。
仰向けの姿勢で、ぬいぐるみを頭の上まで掲げてみた。ぬいぐるみは、思っていたよりもずっと軽い。置いていた場所が悪かったのか、両足とお尻、しっぽの下半分があたたかくなってしまっていた。
頭をひと撫でして、まるい耳を指でなぞって。ぬいぐるみの体を布団の中にもぐりこませる。
小さな子供みたいに、今夜は一緒に眠ることに決めた。