暑中見舞い(前)
拝啓
お元気ですか。暑い日が続きますが、お変わりありませんか?
口慣れた『いらっしゃいませ』の言葉にためらいを感じたのなんて、いつぶりの事だろう。自動ドアが開いた時、厚志は思わず息を呑んだ。
アルバイトを始めたばかりの頃こそ、ミスすることなく注文を受けたりレジで金銭を扱うことに、それなりの緊張を感じて厚志だ。何より『いらっしゃいませ』『ありがとうございました』が妙に照れくさいんだよなと仕事の帰り道、同じ新米アルバイトの女の子と笑いあったこともあった。ファーストフード店では2年と9ヶ月の間働き、このコンビニエンスストアでのアルバイトもすでに3ヶ月めに突入していた今となっては、遠い思い出だが。
しかし今、厚志が挨拶に躊躇する理由は、数年前とは全く違うところにある。ゆっくりと店内に踏み入れる客は四本足で、その体は純白の体毛に覆われているのだ。
平たく言えば、その客は、ヤギだった。
誰かのイタズラか? でもヤギなんかわざわざどこかから借りてきて、なんてヒマなことする奴、いるんだろうか? それじゃTVのドッキリか?
少なくとも、この辺りに山羊を放牧している牧場があるという話は聞いた事が無い。
厚志は自分の左手の腕時計に目をやった。深夜12時を少し廻っている。普段なら夏休みで浮かれ気味の青年達がペットボトルのコーナーの扉を開け閉めしていたり、スーツ姿の疲れた顔をしたサラリーマンが雑誌を立ち読みしたりしている時刻だった。しかし今日に限って、客はこのヤギだけだった。それを客と呼べるなら、の話だが。店長はパソコンへの商品受注の入力作業で奥に引っ込んだまま、もうしばらくは出てこない。バイト仲間は帰省の為に休みを取っているから、レジにいるのは厚志のみだ。
途切れた客足か、自分だけを売り場に残した店長か、バイト仲間か。誰かを逆恨みするべきか迷いながら、厚志はレジの前に突っ立っていた。
ドアとレジの間、入り口から見てすぐ右手には、コピー機が設置してある。自動ドアの閉まる音に一度後ろを振り返った後、通路のややコピー機寄りを、ヤギはまっすぐレジへと向かって歩いてきた。スポーツ新聞を並べたラックの前を通りすぎた時の、まさか食ったりしないだろうな、という厚志の不安は、幸い杞憂に終わってくれた。
このとき店内の有線では、サザンを流していた。厚志はその曲を、おそらく一生忘れないだろう。
レジの正面、つまり厚志の目の前までやってくると、ねえ、とヤギは言った。
メエの間違いだろ?
厚志が心の中で誰にともつかない突っ込みを入れていると、
「ねえねえ。あの、えーと、すみません」
ヤギは首を伸ばし気味にして厚志を見上げ、もう一度言った。
「あのね、探してるものがあるんです」
店長を呼びに行くにも、このヤギの隣を通らねばならない。それは避けたい、と厚志は思った。ヤギは草食だった筈だが、こいつはどうだか。何しろしゃべるし、得体が知れない。それともやはりドッキリなのか?
「こんびにって、なんでもあるのでしょ?」
混乱する厚志をまったく気になどしないふうに、ヤギは続けた。
「……まあ、たいていは」
やっとの事で声を搾り出して答えると、ヤギは心なし嬉しそうな顔になった。
「お手紙を書きたいんです。遠くにいるお友達に。でも僕、お手紙って何に書いたらいいのかわからないんです」
ヤギが手紙。そんな歌があったような気がする。
「手紙だったら、便箋と封筒かな。レターセットとか」
「ありますか?」
「あんまり趣味のいいヤツじゃないけど」
店長が聞いたら怒り出しそうな科白を、厚志はぼそぼそと口にした。毛並みといい動きといい、しゃべる所を除けば、どう考えても本物の白山羊だとしか思えない。例え悪戯やドッキリだとしても、うろたえている姿を誰かに笑われるのは癪に障る。ひとまず厚志は、ヤギに話を合わせることにした。
「わあい。れたーせっと。それください」
黄色い目を細めるヤギは、それでなかなか愛らしいものがあった。どこにありますか、と聞かれてヤギの傍まで行かなければならなかった時には、さすがに腰が引けてしまったが。どうやら肉食でも何でもないらしいヤギは、物珍しげに左右を見まわしながら、文房具の置いてある棚までおとなしく厚志の後をついて来た。
「便箋と封筒は別々にも売ってるけど、両方買うならレターセットのほうが便利だと思う。便箋に模様ついてるけど、友達に出すんなら問題ないだろ」
厚志が商品棚から取り上げたレターセットを、ヤギはしばらく眺めていた。セロファンで包まれた便箋と封筒はクリーム色で、便箋のほうには太目の罫線のおしまいに向日葵の花と、how are you? の文字。
「おいしそうな色だなあ」
そう言ったヤギに、厚志は一抹の不安を覚えなかった訳ではない。
「でも、ぼくがこれでお手紙書いたらへんじゃないですか?」
細い首を上げてヤギが尋ねた。
「どうして」
「お花もよう、かわいいけど、ぼく男の子です。お友達は女の子ですけど」
いいんじゃないかな、と厚志は答えた。もちろん本当にそう思ったのも事実だが、どうでも良いから早くこのおかしなヤギにご退場願いたい、というのが正直なところだった。
「相手が女の子ならこっちの方が喜ぶだろ」
厚志はヤギの返事を待たず、レターセットをレジまで持っていった。重要な事を思い出したのは、バーコードを読み取ってしまった後だ。
「なあ、お前、金……」
小首を傾げるヤギに、厚志は諦めの溜め息をついた。
自分のジーンズのポケットに手を突っ込むと剥き出しの500円玉を掴みとり、レジのキーを操った。入金500。開いたトレイの中から釣銭分を取り出し、レシートと一緒に再びポケットにしまう。
「ほら。持てるか?」
レターセットを入れてやったビニール袋を差し出すと、ヤギは袋の持ち手の輪になったところを口で挟んだ。白い臼歯を見せながら顎を突き出すヤギの表情は、厚志の目にはどこか間が抜けたものにうつった。慣れというのは恐ろしい。噛み付かれやしないかという心配以前に、込み上げてくる笑いを厚志は必死に堪えていた。
口を開いて荷物を落としてしまうのを避けてのことだろう。ありがとうと言うように首をひょこりと下げ、ヤギは来た時と同じようなゆったりとした足取りで店を出て行った。
自動ドアが開き、生ぬるい外気とアスファルトの匂いが店内に入りこむ。ヤギの後ろ姿はすぐに闇の中に消えた。誘蛾灯に引き寄せられた虫が焼けるバチバチという音も、ドアが閉まると同時に遠くなった。
厚志はその後、いつも通りに仕事をこなした。
バイトのひける時間になるまでには、何人かの客に応対もした。もちろん全員が人間だったが、厚志はそれを確認するたび、こっそりと胸をなでおろしたのだった。
ヤギの事は誰にも言う気は無かった。『しゃべるヤギが来てました』と言ったところで、笑われるか、暑さにやられたと思われるのが関の山だ。厚志自身にも信じられないくらいなのだから。
知らないうちに居眠りして、夢でも見ていたのかもしれない。淡い期待を抱きつつポケットを探り、皺だらけのレシートを発見しては溜め息を吐いた。しかしなぜだか、それを捨てようとは思わなかった。
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