ガーネットはいくらか緊張しながら、ぐるりと部屋の中を見渡した。
 ちらちらと炎の揺れる暖炉、天蓋つきのベッド――部屋には、彼女以外には誰もいない。当然だ、ここは彼女の私室で、人払いをしておいたのだから。廊下まで付き添ってくれたベアトリクスも、今ごろは詰所に戻る途中だろう。

 やっぱりいないのね。

 しかしガーネットの口からは、自然に溜息がこぼれた。窓に背を向けているのは、射しこむ西日を見たくないせいだ。陽が沈めば、一日が終わる。それを思うと、寂しさが襲った。

 ずっと待っていたの。

 約束はしていなかった。もともとはリンドブルムの習慣であり、アレクサンドリアではあまり一般的ではなかった。けれども彼ならきっと、今日ここに来てくれるのだと思っていた。彼が訪ねてきてくれることを、楽しみにしていたのだ、密かに。
 朝の会議で、家臣達の報告を聞いていた時。書類に目を通していた時。

 ずっと待っていたのよ。一日中、ずっとよ。

 城を訪れたエーコと、彼女お手製のチョコレートを頂いたお茶の時間。「ジタンったら、まだダガーに会いに来てないの?」と、少しあきれたように言う彼女に、あいまいに笑ってみせた時。

 ねえ、もう日が暮れてしまうわよ?

「これも、渡せなくなってしまうのかしら?」
 今日、会いたいと思っていたのは、わたしのほうだけだったのかしら。ガーネットはドレッサーの上に置かれたものに視線を落とし、呟いた。いつもと違う香りとか、特別時間をかけた髪とか、訪ねてきてくれた時には一番いい笑顔で迎えようと思ってたこととか、あなたは知らないのね。わたしがこんなに想っているってこと、会えないことでこんなに悲しんでいるってこと、きっと伝わっていないのね。
 ガーネットの口からふたつ目の溜息が漏れた時、バルコニーに続く窓をたたく音が、部屋の中に響いた。

 来てくれた。

 背中ごしに聞こえる音に、体中にざわりと鳥肌がたったような気がした。
 二回、……三回。
 遠慮がちなノックが誰によるものなのか、ガーネットにはわかっている。しかしガーネットは、右手を胸のあたりに持ってきたまま、なかなか振り向くことができなかった。その音を、一日中、待ちつづけたガーネットだ。こつこつと響くノックを、耳に、体に染みこんでいくのを感じていたいとすら思われた。
 けれどもガーネットが本当に望んでいたのはやはり、分厚いガラスを叩く音ではなかったのだから。
「ダガー?」
 彼の声を聞いたガーネットは反射的に振り返り、窓に向かって駆け出していた。



 ジタンがガーネットのもとを訪れたのは、空が茜色に染まる夕暮れどきのことだった。



 勢い良く窓をあけたガーネットの目の前が突然、真っ赤になった。間近に迫った花束へ、ひざまずいてそれを差し出すジタンへ。順に視線を移したガーネットを、ジタンは照れたように笑いながら見守っていた。
「来るのがちょっと遅くなったかな。だけど、ダガーも昼間は忙しいだろうとも思ったからさ。やっぱりこういうのは、2人だけの時にやりたいだろ?」
 片膝をついた姿勢はそのままに、ジタンは一呼吸おくと、咳払いして続けた。
「それにさ、実は悩んでたんだ、何を贈ったらいいのか。あっと驚くようなお宝がいいだろうか。君が喜んでくれるものって何だろう、ってさ。いろいろ考えたわりにはありきたりなものだけど、大切なひとへのオレの気持ち。受け取ってくれるか?」
「ありがとう。うれしいわ。とってもうれしい」
 彼女が花束を受けとると、ジタンはほっとしたように微笑んで立ちあがった。しかしそっと頬に触れた彼の指があまりに冷たいことに、ガーネットは驚いて言った。
「ジタン、この手――」
「え?」
「ごめんなさい、寒かったでしょう?」
 ガーネットがジタンの手に自分のそれを重ねると、ジタンはおかしそうに答えた。
「手が冷たいのは、緊張してたからさ。でも、そうだな。ここにいたらダガーも寒いだろ? オレ、部屋に入ってもいいのかな?」



 部屋に入ると、ジタンはガーネットに、いろいろなことを話して聞かせた。タンタラスの近況。今、稽古中の芝居。今日、彼のもとを訪れたエーコのこと。
「んもう、ジタンったら、まだリンドブルムにいるのっ? エーコなんて、とっくにダガーのところへいったのよ」
 タンタラスのメンバー全員にチョコレートを配りながら、エーコはなじるように言ったらしい。「オンナノコの気持ちがわかってないんだから。ジタンってほんと、ニブチンなのよね」。ガーネットは昼間のエーコの言葉を思い浮かべ、微笑んだ。
「遅れたのは、悪かったと思ってるって。それからさ、ミコトも来たんだ。クジャからの伝言だ、って言って。あいつ……」
 ジタンは言いかけて、片手で口を覆った。
「……いや、今度、ミコトを連れてくるよ」
「それ、エーコも言ってたわ。今度ミコトをつれて遊びに来るから、って。いったいどうしたの?」
「会えばわかるさ。きっとダガーも驚くぜ?」
 嬉しそうな彼にそれ以上訊ねることはせず、ガーネットは楽しみにしてるわとだけ答えた。
「そうだわ、驚くと言えば」
 少々そらぞらしいかとも思ったが、ガーネットは立ちあがった。ジタンにはテーブルに座っているように目で合図すると、ドレッサーの上に置いてあった、リボンのかかった小さな箱を取りあげた。
 振り返ると、ジタンがじっと見つめていた。早鐘のように打つ自身の心臓の音を振り切るように少し勢いをつけて、ガーネットはジタンの前に立った。
「わたしに勇気をくれるあなたに、わたしの大切なひとに、受けとって欲しいの」
 一日が始まった時から、用意していた言葉だった。ジタンの元へ歩み寄ったガーネットは、小箱を彼の前へと差し出す。両手でそれを受け取ったジタンは大きく息をつき、ガーネットを見上げていった。
「ありがとう。オレ、君のほうからももらえるなんて思ってなかったよ。開けてみても?」
「もちろんだわ」
 ジタンはゆっくりとした手つきでリボンをほどき、箱を開けた。中に入っていたアクアマリンのピアスを手にとって、部屋の灯りにかざした後、ジタンはガーネットに視線を移した。
「わたし達、旅が終わってから、みんなで持っていた装備品を分けあったの。その時もらったアクアマリンがこれ」
 宝石類を分ける段になり、貰えるのならアクアマリンがいいと仲間達に頼んだのはガーネットだ。ジタンの瞳と同じ色の宝石を傍に置きたかった。イーファの樹で彼と別れて以来、それでもアレクサンドリアの復興のため気丈に振る舞わざるを得なかった日々、共に過ごした旅の思い出の品は、ガーネットにどれだけの勇気を与えてくれたことだろう。きっとまた会えると信じて肌身離さず持ち歩いていた石を、ベアトリクスがピアスに細工してくれたのだった。正確には、スタイナーやベアトリクスら、彼女の家臣が職人に依頼してくれたらしいが。
「でも、いいのかい? 思い出の品だろ?」
「ええ、大切な旅の思い出。それからお守り」
「それじゃ、オレがもらったりしたら……」
 ジタンの口に自分の人差し指を当て、ガーネットは彼の言葉を遮った。
「わたしね、ジタンのことを考えているの。あなたのいない時も、いつも。ジタンがわたしのこと思ってくれているのもわかっているわ。だけど、それでも不安になることもあるの。わからなくなってしまうこともあるの。だからジタン、離れているときも、一緒に居させて? それをつけていて……時々でいいの、わたしのこと、思い出して。わたしのこと、考えて」
 ガーネットはジタンを見つめ、ジタンはガーネットを見つめていた。
「まいったな」
 何かを考えるような沈黙の後、ジタンは笑顔で言った。
「時々どころか、オレ、ダガーの事をいつも考えてしまってるんだ。タンタラスのみんなと一緒に居る時も、眠る前に目を閉じた時だって、いつもダガーのこと想ってる」
 ジタンはドレッサーの前まで歩いていくと、小箱からピアスを取りだし、慎重に耳につけた。鏡ごしにガーネットと目が合うと、彼女のほうを振り向いた。
 耳で光る青い石を見せるため、ジタンは少し首をかしげた。さらさらと揺れる金髪と、石と同じ青い瞳が眩しくて、ガーネットは目を細めた。
「……これじゃ、ますます頭から離れなくなっちまう」
 おかしそうに低く笑って頭をかく彼を見ながら、この人に伝えられたらどんなにいいか、とガーネットは思った。
「ジタン」
 名前を呼ぶ声で。
「ありがとう」
 言葉で。
 包み込むようなまなざしが、触れる指先の温もりが、ゆっくりと閉じる瞼の動きが、長い睫が頬に落とす影が、重なる唇が、こんなにも幸せをくれることを。
 暖炉にくべた薪が、ぱきんと音を立てる。ガーネットにはまるで、それがどこか遠い場所のできごとのように思われた。



 翌日、早朝から開かれた会議は、正午を過ぎるまで続いた。ようやく昼食となり、ガーネットはテーブルについた。窓際の花瓶に活けてあるのは、ジタンから贈られた花だった。侍女に言って、自室から何輪か、持ち出してもらったものだ。
『やっぱりこの花で正解だったんだよな』。
 料理を口に運びながら、ガーネットはジタンの言葉を思い出していた。昨夜、別れ際に抱擁をかわしながら、彼は彼女に言った。ダガーはこの花、気に入るだろうと思ったんだ、と。
 いつものやつも好きなんだけど、こっちも君に似合ってたから。合ってて良かった、って言ったのよね、ジタンは。
 そう心の中で呟いて、花に目をやった瞬間、
「……あ」
 思わず、ガーネットは声に出してしまった。

 わたし、どうして気づかなかったのかしら?

 ジタンがくれた花の優しく甘い香りは、彼との再会を果たした日に、彼女がつけていた香水のそれと同じものだった。

 あの時わたし、花の名前を言ったかしら。いいえ、言わなかったはずだわ。ジタンだって、つけている香りのことなんて、今まで話題に出したことはなかった。ということは、探してくれたのかしら。

「ガーネット様、どうなさいました? お口に合いませんでしたか?」
 食事の手を止めたガーネットに、給仕をしていた侍女が慌てて走り寄ってきた。
「ごめんなさい、そうではないの。少し会議で疲れてしまって」
 赤くなったりしてはいないかと心配しながらも、ガーネットは言った。平静を装っても頬が緩むのだけは止められなかったので、口元だけは、手で隠して。

 わかってくれていたの? あなたに会う時の特別の香りも、時間をかけた髪も、訪ねてきてくれた時には一番いい笑顔で迎えようと思ってたことも?

 口元を手で覆ったまま、ガーネットは一輪挿しをいたずらっぽいまなざしで見つめた。

 じゃあ、これもあなたに伝わっていたわよね?
 いつもあなたを想っていること。
 わたしのことを想って欲しいって望んでいること。
 ……こんなに、あなたに恋しているってこと。