「世界の果ての小さな町で」






誰もいなかった。

さっき覗いた職員室にも、今立っている二階

の廊下にも、その窓から見下ろす校庭にも。

人がいないのはこの学校だけではなかった。

町中どこを探しても人影一つ見あたらなかっ

た。

駅、デパート、マンション、公衆便所、全て

の家屋の全ての寝室。この町で俺が入りこん

でいないような場所はどこにもなかった。

だから、それを見つけたとき、俺の息は止ま

りそうになった。

日はすでに暮れかけていた。

俺はもうあきらめかけていた。

憂鬱と疲労に俺の心が淀み始めたとき、その

光景は目前の教室のドアの僅かに開かれてい

た隙間から、濁り始めた俺の脳髄を突き刺す

様に飛び込んできた。

その光景の中心にあるのは一人の女の姿だっ

た。

誰もいない静まりかえった教室の中心に女は

立っていた。

窓から差しこむ夕日に一糸まとわぬその肢体

を晒して。

俺は呆然とした。

その光景はあまりに現実離れして感じられた

逆光に女の表情は伺えない。しかし、そのく

っきり浮かび上がった肢体のシルエットは、

15、6の少女の清純なものにも、30を前にし

た成熟した女の艶かしさをたたえたものにも

見え、そして熟れきった果実の腐臭をただよ

わす狂女のおぞましさと崇高を具現化したも

のにも見えた。

これは狂った俺の心が作りあげた幻覚なので

はないだろうか?

俺はそう疑わずにいられなかった。

いや、疑うのではない。それは願望だった。

このとき俺はこの光景が現実でないことを、

それはあくまで幻覚であり、白昼夢の類であ

ることを強く望んでいたのだ。

血を浴びたように夕日に赤く染めあげられた

女の肢体は、余りに強烈だった。それは苦痛

の叫びをあげたくなるほどの悲しみと恐怖で

俺の胸をえぐらずにはすまさなかった。

そして、その心臓に釘をねじこまれるような

肉体的苦痛は、これが夢でも幻覚でもなく、

苦痛を感じているその肉体とともに、俺の心

はまだ現実につなぎ止められていることを告

げていた。

俺は認めざるを得なかった。これが現実であ

ることを。

日はゆっくりとだが確実に落ち続けていた。

どんなに幻覚じみていようと、彫像のように

氷ついて見えるその女の肢体にも血が流れて

いるのは間違いなかった。

そして、日と女の微かな動きが重なる瞬間が

訪れた。

「誰?」

小さな声が教室に響き、女の顔が沈む日の光

線に浮かびあがった。

そこにあったのは無。何も映しだしていない

ような闇の瞳と、人形のようになんの表情も

浮かべていない顔だった。

いや、違う。そこにあったのは無などではな

い。そこにあったのはこの世の全てだった。

俺にとって、この世の全てを売り払ってでも

手に入れ、踏みにじらずにはいられなくなる

何かだった。

色彩が重なり白光が浮かびあがるように、そ

こではあらゆる表情と感情が重なり、無と見

紛う静寂が形づくられていた。

自身の抱える過剰さに痙攣する清明な狂気。

俺が彼女の顔に見つけたのはそれだった。

そして、俺の小さな心はそれに耐えることは

できなかった。

彼女の影がこちらに近づいた時、俺の恐怖は

限界に達した。気がつけば俺はその場を逃げ

出していた。



視界いっぱいに青空が広がっている。
俺は今、アスファルトの上で大の字になって

いる。

昨晩、日がとっぷりと暮れても、構わず闇の

中を必死に走り続けていた俺は、途中なにか

にけつまずきぶっ倒れたときに頭を打って、

そのまま気を失ってしまったらしい。

そして、目覚めたときはこの空。

雲一つ見あたらない、清々しいほどなにもな

い青空だった。

昨日の夢はもう去った。

あの魅惑と恐怖は一眠りしている間に霧散し

今、俺の心はこの空のように晴れやかで、屑

のように空っぽだった。。

世界はもう終わっていたんだ。

自分の心を覗くように、その空を見て俺は思

った。

そう、ここが世界の果てだった。

ここが俺の旅の終着駅。この先にはなにもな

い、世界自身の生成の終着点だった。

旅路の果てに辿りついた場所、そこにあった

のはなんてことはない、昔と変わらず空っぽ

な、このただの青空だった。

俺は笑わずにはいられなかった。

こんなことを知るために俺は一人、誰もいな

い町から町へ、どこへ行っても変わりばえの

しない景色の中を必死になってかけずり回っ

ていったのだ。

俺は大声で腹のそこから笑い続けた。

自分が今までに辿ってきた道程の全てを。

自分が今までに流してきた涙の全てを。

俺をここまで導いた幾つもの希望と恐怖を。

そして、いつしか声も枯れ、疲れ果てた涙に

滲む俺の視界を一つの小さな影がよぎった。

なんだろう? 俺は涙を拭い、影の正体に瞳

を凝らした。

それは空を飛ぶ一羽の鳥だった。

俺は驚かずにはいられなかった。

今まで、どこを探しても小鳥はおろか虫一匹

見つけ出すこともできなかったというのに。



世界はまだ終わっていなかった。

大地はひそやかに、あの頃と変わらず、今も

新たな生命を育み続けていたのだ。

俺は訳も解らず、額を、頬を、唇を暑く焼け

るアスファルトに構わずこすりつけ涙を流し

た。

「こんにちは」

声が響いた。

アスファルトの上に、うずくまる俺の影の隣

にもう一つの影があった。

見上げるとそこには、物珍しそうに俺の顔を

覗きこむ少女の姿があった。

好奇心にキラキラと輝く二つの瞳。

俺は驚きに声も出せず惚けたように、その瞳

を見つめ続けた。

少女は微笑んでいた。
その微笑みにつられるように、いつのまにか

俺も自然と微笑んでいた。

世界が急速に色づき始めた。



空には大地に出会ったばかり二人を焼き尽そ

うとするかのように太陽がギラギラと輝いて

いる。

彼女がそっと手を俺に差し出した。

俺はその手を取った。

触れた少女の手は暖かく、その温もりを通し

て何かが虚ろだった俺の身体を充たすように

入りこんできた。

立ち上がることもできず、彼女の手を握った

まま俺は目を閉じた。

暑い風が俺の頬を撫でた。乾いた涙のあとが

強烈な日差しにヒリついた。

始まったばかりのばかりの新たな世界。

俺は憂鬱だった。とっとと、幕をおろしてし

まいたかった。

このまま死んでしまった方がマシだった。














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