「出来事」とは、何の前触れも無く突然にやってくるものだ。 * 「ねぇゆーいち。今日は早く帰ってくるの?」 「え? あぁ……」 出かけに後ろからそんな声をかけられ、考えながら振り返る。 「……別に用もないし、すぐ帰ってくると思うけど」 質問に対して機械的に返しただけのその一言。 それを受け取っただけだというのに、エリスの表情は陽の光のように明るくなった。 「よかった。じゃあ大人しく留守番してるから、早く帰ってきてね」 「なんか用でもあるのか?」 「え? ん……別にないけど」 垂れかかる前髪をそっと払って、上目遣いの視線を向ける。 「だって、一緒にいたいから」 「……」 そういうことか。 「約束だよ?」 「わかったわかった」 靴紐を縛りながら惰性で返事をする。エリスはいつだってこんな調子なのだから。 「それじゃあ行ってらっしゃい」 つま先を地面で叩きながら立ち上がると元気いい挨拶が聞こえてくる。 ──と思うと、背後の雰囲気が変化した。 「ん──うわっ!?」 ──ちゅっ 突然、頬にやわらかくて暖かくて湿った感触。 反射的に何かが触れた右頬の方向を向くと、エリスのものに間違いない、金色のつむじが見えた。 「えへへ。行ってらっしゃいの──だよ」 「い、いきなりなにすんだよ」 キスされた場所の処遇に困り、なんとなくそこを指でなぞる。 何故か自分の指の感触に、エリスの唇の感触が重なった。頬が赤くなるのを抑えられない。 「それじゃあ、今日も元気に行ってらっしゃーい!」 「……」 俺の口に蓋をするような、エリスの笑顔。 そんな顔されたら、大人しく家を出ないとダメみたいに思えてくるから始末が悪い。 「……行ってきます」 「はーい!」 ドアノブを掴む。同時に蝶番がきしんだ音を立てる。 やがて、閉まっていくドアがエリスの笑顔を段々と隠していった。 自分の足音を、いやに大きく聞きながら歩く。 「……」 道中、思う。 出かけに新婚の夫婦みたいなことをやられたせいか、どうもエリスの笑顔が頭から離れない。 「なんだってあんなことを……」 思い出すだに、頬に妙な感触が浮かび上がってくる。 しかもキスしたすぐ後のエリス、自分の頬まで桜色に染めてて……。 …… 「──んがっ!?」 またしても突然、前頭部に鈍い衝撃が走る。 「つー……で、電柱?」 目の前には電柱。頭のしびれるような痛みが、こいつとぶつかったのだと教えてくれている。 ぶつかった衝撃で、電柱の上空にぶら下がってる電線が揺れて……それはないか。 「なんのラブコメだ、こりゃ」 一人呟いてまた歩き出し、そんなことを自問する。 ──が、その答えはとっくに決まっていた。 これは、Half A Yearというラブコメだ。 * 頬と前頭部に衝撃的な出会いがあった日は、色づく落ち葉に目を惹かれ、踏みしめる枯葉に季節を感じる良い日だった。 今は放課後である。俺はエリスの笑顔を思い浮かべながら、紅葉を敷き詰められた敷石の上を歩いていた。 「祐一さん」 声をかけられ、振り返る。 俺の目の前には流れる黒髪の美しい、やわらかな立ち振る舞いが似合う美人が立っていた。 ──神楽坂さんだ。 「ちわ。授業終わりですか?」 「はい、先ほど。そちらもですよね?」 「えぇ、こっちも丁度」 眼前の笑顔に惹かれるように、俺も軽く頬を赤くしながら返す。 「俺の時間割、覚えててくれたんですか」 「あ……」 神楽坂さんは、俺が報告するまでも無くこちらの放課を把握していてくれたようだ。 目の前のきれいな先輩は、瞳を丸くすると、それに一瞬遅れて汗ばんだ声を上げた。 「いや、その、えと……ほら、よく一緒に授業受けたりしてるじゃないですか。いつの間にか、覚えちゃって」 そしてその言葉の後に、なんともぎこちない笑顔がついてきた。 「わざわざ覚えててくれてるなんて、ちょっと感激だなぁ」 「そ、そんな……別に他意はなくて、ただ単に習慣というかなんと言うか……!」 ときどき手をヒラヒラさせながら、そんな言い訳じみた言葉が続く。 「決して祐一さんの時間割を事前に把握しておいて、空いてる時間を狙ってスコープで……!」 「……スコープ?」 「……」 「……」 「な、なんでもありませんよ?」 「ないわけないでしょ!」 中途半端に天然だから困るな、この人も。 「そ、それよりねぇ祐一さん、聞いてください」 話の流れを180度へし曲げて、引きつった笑顔が俺を捕らえた。 「どうやら私、無事に卒業できそうなんです、この学校」 「あ、そうすか」 「なんでそんなに冷たい反応なんですか!?」 俺のそっけない返事に、神楽坂さんは目じりを下げて食いついてきた。 「だって神楽坂さんが成績いいのは周知の事実ですしねぇ」 「……」 「もうほとんど単位数は間に合ってるって聞いてましたし、俺なんかとは違って卒業に苦労はしないだろうなーと思ってましたから」 俺の言葉を聞き終える、いや聞きながらも、段々と神楽坂さんの表情はうつむき加減になっていく。 「だからまぁ、別に驚くこともなかったわけでして」 「……」 そして俺の言葉が終わる頃、多分神楽坂さんには、股から覗く逆さの風景しか見えていなかったろうと思う。 「……周りのお友達にこのこと話すと、みんなそういう風に言うんです」 「はぁ」 顔を大きめな胸に埋める程度に起こすと、そんな呟きが脂肪の隙間から聞こえてきた。 「せっかく難しい特別単位を取れて卒業が決まりそうだって言うのに、みんながみんな」 「……」 「入野さんに言っても、『単位!? そんなの関係ねぇー!』とか言いながら逃げちゃいましたし」 「……」 「でもあの入野さんのポーズはなんだったんでしょう? わざわざ半裸になりながら叫びだすから、びっくりしちゃいました」 それは俺の知り及ぶところではない。 「……」 チラリ、と下から神楽坂さんの視線が一瞬届く。 「……祐一さんなら、きっとみんなとは違うことを言ってくれるんじゃないかなぁ、なんて思ってたんですが……」 「う……」 なんと答えたらわからず閉口している俺に、また一瞬の視線。 「チラリ」 「口に出しちゃ駄目でしょう」 「はふぅ……」 そしてため息。 ……これは俺が間違っていたと言わざるを得ないようだ。 「はぁん……」 「あ、あの……」 「ふぅ……ん」 なんかため息が妙に艶かしいぞ! 「で、でもやっぱり凄いですよ神楽坂さん!」 「え?」 「噂には聞いてましたけど、あの単位を取ったんですってね? すげぇっすよ。俺尊敬しちゃいます!」 本当はなんの単位を取ったのかも知らんのだが、適当にまくし立てる。 落ち込んでる神楽坂さんはまさに負の連鎖で、見るに耐えないのだ。 「俺なんかじゃ全然無理でしょうし、いや、あんなので卒業に必要な単位が埋まるなんて、なんか劇的じゃないですか!」 「ほ、本当ですか!?」 と、突然ミラーボールが背後に出現したかのようにきらめく神楽坂さんの表情。 「ほんとうほんとう! さっきは、神楽坂さんの偉業の前に、ただ俺の口が素直な言葉を忘れちゃってただけです」 「そ、そうですか……そんなにベタ褒めされると……照れちゃいます」 天然な人で助かった、本当に。 「──」 神楽坂さんの視線が、今度はじいっと俺に集まる。 熱い視線。焦点から火が点きそうだ。 瞳の中には、きらめく涙のような星が光り輝いている。風に乗り空を渡りそうなくらいに鮮やかだ。 「──」 「そ……」 「──」 「それじゃあ、今夜は何かお祝いしましょうか! おごりますよ!」 「い、いいんですか!?」 多分素で「いいんですか?」と聞いてるんだろうけど、だから天然って困るんだよな。 * 「え? あぁうん。だから今日は帰りが遅く……ん? なんか言ったか? えっ? だから今日は帰りが……!」 プチッ、ツーツー 「……切れちまった」 「電波が悪いんでしょうか?」 「そうかもしれませんね。この辺、結構ビル多いし」 流れ的に神楽坂さんにご飯をご馳走することになって、とりあえずエリスに帰りが遅れることを連絡しようとした、というのが今までの状況だ。 ちなみに既に飲食店の暖簾はくぐり、席にも着いている。しかも何故か物凄いカップルシートに案内され、そこに鎮座せざるを得なくなっていた。 加えてちなみに。 「……なんだよ?」 「なんでお前が居るんだ?」 「いちゃ悪い?」 「悪いよ。お前飲めないだろ」 「悪いのはゆういちの頭だろ?」 「なっ……!」 「ぼくはもう二十歳越えてんだって、前にも言ったろ。見た目で判断するな、バカ」 「む……」 お察しの通り、二人用の席に無理やり三人目の男、壱が割り込んで入ってきていた。 どこから聞きつけたのか、風のように現れて山のように座り込んで、一向に動かない。 「そう言えば壱とお酒飲むの、初めてね。おねえちゃん楽しみ」 「──」 神楽坂さんの言葉を受けて、壱は「どうだ!?」と言わんばかりの表情をこちらに向ける。 いやまぁ、神楽坂さんの祝いの席なんだし、彼女か喜んでくれるならなんでもいいんだけどさ。 「と、とりあえず、乾杯」 とりあえず頼んでおいたビールを掲げ、俺が乾杯の音頭を取る。 「かんぱーい」 「かんぱい」 嬉しそうな笑顔と声色で応じる神楽坂さんと、立ち上る泡をしげしげを眺めながら答える壱。 そして三人とも、申し合わせたようにジョッキを傾けた。 「神楽坂さん、お酒は大丈夫なんですか?」 「そうですね……強くはないですけど、弱くもないかと」 「へぇ……」 口についた泡を拭きながら神楽坂さんを見る。 「でも……」 「はい?」 「あんまりお酒を飲む機会がないのでなんとも言いがたいんですが……」 神楽坂さんはいくらかの逡巡を身にまとってから、自信なさ気に言った。 「どうも私、お酒が入ると気が大きくなるみたいで……」 「はぁ」 「自分じゃ自覚が薄いので、人から聞いた印象なんですけど」 「へぇ……そうなんですか」 つまみを運びながら、頭に思い浮かべるのは気が大きくなった神楽坂さんの姿。 ・・・ 「……」 駄目だ、想像できん。 こんなトロくて温厚で天然な人が、どんな風に変化するのかは、普段の姿からはとても想像が結びつかない。 でもその分、すげぇ気になるな……。 「壱は?」 話の矛先を、チビチビと味わってビールを飲んでいる少年風の男に向ける。 つーかビールを味わってどうすんだ。のど越しで飲むもんだろそれは。 「どうなんだ?」 「知らん」 帰ってきたのは簡潔極まる一言。 「知らんって、なんでだよ」 「知らんものは知らん」 二の句を継がせる気がないな……。 俺が辟易した視線を壱に送り、返す刀で零に話しかけようとすると。 「飲んだことないから、どうなるかなんて知らん」 ボソリと、少なくとも機嫌良さ気には思えない声色で、壱が呟いた。 「さっきも言いましたけど、壱と飲むの、私も初めてですからね」 「あ、そっか」 零の付け足しに、頭の中でポンと手鼓を打つ。 「じゃあ、これからは見ものだな」 「なにがだよ?」 仏頂面の壱は、卓に肘をつきながら怪訝そうな瞳を見せる。 「姉は気が大きくなるんだろ? 弟はどうなるのか、気になるだろ」 「……」 「姉弟そろって気が大きくなるのか、それとも壱は逆にしぼむのか。どうだろうなー」 薄明るい飲み屋の中で見せた俺のニヤけ顔に、壱はフンッと鼻を鳴らしただけで答えた。 「じゃあほら零、今日は零の祝いなんだから、飲んだ飲んだ!」 「は、はい。それではご相伴に……!」 次々と運ばれてくる肴を前に、俺は零の杯にどんどん酒を注いだ。 もちろん壱が杯を空にしたら、そちらも忘れずに注ぐ。 かくいう俺も、きちんと自分の分は飲む。 そんなことを続けるうちに、次第にそれらしい雰囲気になっていく祝賀会だった。 * で、数時間後。 「ゆ、ゆういちくん……もう飲めませんから、そろそろ……!」 「おいゆういち、こっちがもう空だぞ。注げってば」 二人の声に板ばさみになっている俺がいた。 「う……ちょ、ちょっと気分が……」 「だ、大丈夫? 吐いてくるか?」 「聞こえてる? 酒がないんだってば、おいっ」 「聞こえてるよ。まだ追加が届かないんだからもう少し待てって」 解放とお酌、両方を同時にせがまれてるわけだが……。 ちなみに、気分が悪いほうが壱。酌しろとうるさいのが零だ。 「壱、トイレ行ってこい。なんなら面倒見てやるから……」 「だいじょうぶ……だから。平気、へいき、へいき……」 「平気そうにゃ見えんぞ、その顔は」 「だいじょうぶだって……」 気が弱くなっても強情なのは変わらないらしく、尻に根が生えたように席を立とうとしない。 「吐いてくれば楽になるから、ほら」 「行かないったら……」 「いいから行ってこい。気にすることなんかねぇぞ」 「いいですから……心配しないでください」 「そんな声で言われたら、余計心配になるぞ」 「ぼくは大丈夫だから、それより──」 「それより──?」 次の言葉を聞こうと壱の酒臭い顔を覗き込んだ、その瞬間。 「のわっ!?」 体全体がしびれるような衝撃が、椅子から伝わってきた。 思わずつんのめり、壱とキスしてしまいそうになるが、どうにかそれだけは避ける。 「な、なんだ?」 額に汗しながら後ろを振り返ると── 「酒」 「あ?」 零が、なにやら二文字の単語を口にする姿が目に映った。 「酒だ」 「さ、鮭?」 「ちげーよバカが! 酒だって言ってんだ!」 「あ、あぁ酒ね、さっき追加が来たから……」 「バカやろう、お前に言ってるんじゃねぇ! 壱に言ってるんだ!」 「は、壱に?」 「そうだ」 零は組んだ足を器用に動かして、ちょいちょいと壱を指す。 それに従うように、おずおずと零の顔に視線を注ぐ壱。 「注げ」 「は、はい……」 またしても二文字で命令すると、壱は何かに突き動かされるようにそれに応じる。 「とーとー……と、よし。それくらいでいい」 コップになみなみと注がれた──むしろ淵からこぼれるくらい──透明に光る液体を、かるーく口につけたかと思うと……。 「くいっ」 そんな擬音が聞こえてきそうなくらい景気良く、一息で飲み干した。 そしてまた、コップを壱の前に落とすような勢いで置く。 「注げ」 「は、はい」 注がれる酒。飲まれる酒。置かれるコップ。 ──そんな光景が、何度か俺の目の前で繰り返された。 「……」 この人誰? 本当にあの零なの? 人が変わるらしいとは本人の弁だが、まさかこれほどとは。 と、俺が開いた口を塞げないでいると……。 「注げ」 「……」 目の前の景色が、少し変化した。 「どうした?」 「こ、これ以上は……」 「あ?」 「これ以上は、その……体に……」 「あぁ!?」 どうも、壱が零の暴飲に難色を示し始めたようだ。 「いいから注げ」 「でも……!」 「でもじゃねぇ!」 と、次の瞬間。 「きゃあっ!」 パシンッ、と乾いた音が壱の頬から発せられた。 「私が飲むって言ってるんだから黙って注げ!」 「うぅ……」 激昂する零に、ついに壱は瞳に涙を湛える。 その涙が最後の抵抗だと言わんばかりに、必死の表情で零を見上げた。 が、零も動じない。もう完全にオオトラだ。 「自分の金で飲んでるんだ。壱に文句言われる筋合いはない!」 いや、俺のオゴリなんだけど今日は。 「注げ」 ドンッとテーブルをグーで叩くと、鬼のような視線で壱を射る。 「しくしく」 「注げ!」 「めそめそ」 「注げ!!」 「さめざめ」 さまざまな擬音を弄して泣き続ける壱。 「ったく……興が冷めちまう」 と、ふいに椅子を蹴って立ち上がる零。 「ど、どこ行くんだ?」 慌てて声をかけると、なんとも興味のなさげな視線が俺に降り注いだ。 「便所だ」 「あ、あぁ……トイレね。行ってらっしゃい」 「ふん」 零は行った。 「壱、大丈夫か?」 今度は、涙にむせぶ壱の肩を抱いた。 「え、えぇ……」 袖口でぐいっと涙を拭くと、ようやく伏せていた顔を上げた。 「おねえちゃんの言うことは絶対ですから」 「絶対?」 「ボクが我慢すればいいだけの話ですから、気にしないでください」 「……」 酒を飲んで横暴になる零と、逆にしおらしく従順になる壱、か……。 「……?」 どっかで見たことあるような状況に思えるんだけど……なんだろ。 「まぁいっか」 とりあえず、壱の面倒を見てやらないと。 いつもはウザったいガキだけど、今日はなんだか可哀想なキャラだからな。 * 「落ち着いたみたいだな」 「はい、おかげさまで」 夜風に当てたり水を飲ませたりしているうちに、壱の体調は良くなったようだ。 まぁまだ酒は抜けてないっぽいけど。俺に敬語使ってるし。 「──そう言えば、零は?」 「え?」 壱はきょとんとした瞳を、下方から俺に覗かせる。 ──普段からこうだったら、ホントにかわいい弟になってくれるんだろうけどな。 「おねえちゃんなら、まだトイレから帰ってませんけど」 「まだトイレか?」 「はい。……便秘が再発したんでしょうか」 壱はトイレのほうに一瞬視線を流してから── 「はっ!? い、いけない、こんなこと言うとまたおねえちゃんに叩かれる……!」 急に、チワワのように全身を細かく振るわせ始めた。 「お、おねがいです! 今のことはおねえちゃんにはナイショに……!」 そして、俺に懇願してくる。泣きそうな瞳と声で。 「別に言わな──ん?」 いや、待てよ。 「どうしよっかな。いいこと聞いちゃったし、零に言ったら面白いかも」 「そ、そんな……!」 せっかくだから、壱に意地悪するもの面白いかもしれん。 「言っちゃおうかな〜」 「や、止めてください! お願いします! 言われちゃうと、ボク、ボク……」 「どんな目に会っちゃうのかな?」 「よ、世にも恐ろしい辱めの数々を受けるんです……!」 「なんだそれ?」 「え、えと……」 壱は、封印していた恐怖体験を解き明かすように語り始めた。 「宿題終わらせてなかったからってお尻ぺんぺんされたり、ピーマン残したからって正座でお説教聴かされたり、障子破いたからって家中の掃除させられたり……」 「……」 零……子供のしつけが出来ない親だらけの時代に、なんて良心的な教育を……! 「っていうか、それくらい全然フツーじゃん」 「あっ、ま、間違えました!」 手のひらをワイパーのように左右させると、壱は顔を伏せる。 「それはおねえちゃんがしらふのときの話です」 「ほう、して?」 「お酒を飲んだときは……」 「……」 ゴクリ、と唾が喉を下っていく音が聞こえた。それは俺のものだったか壱のものだったか。 「お酒を飲んだときは……」 「……」 「五分寝坊した罰として……」 「罰として……?」 「春乃さんの家の前に置き去りにされました」 「……」 「……」 「ゴメン……」 「いいえ……」 「なんか俺、何もわかってなかったな。なのに下手にからかおうとして……」 「いえ、いいんです。ボクも……あの日のことは忘れました」 壱はゆっくりとかぶりを振った。 「あの日の夜、何があったかなんて……忘れましたから」 「そうか……」 「えぇ……」 壱の肩に手をかけた。小さな肩は、辛いだろうに、かすかに震えていた。 「ゆういちさん……」 「なんだ?」 「ゆういちさん、いい人ですね」 「えっ?」 「ボクの具合が悪いときは必死にめんどう見てくれますし、今も……」 壱の手が、肩にかかっている俺の手の上に、ふわりと降りてきた。 「こうして、励ましてくれてます」 「そんな高尚なもんじゃないって」 「でも、ボクはうれしいです」 俺の顔の正面に、壱の潤んだ瞳が移動してくる。 「それで、その……もし、もしゆういちさんが良かったらなんですけど……」 「ゆういちさんのこと……おにいちゃん、って、呼んでいいですか?」 * ジャー、ゴボゴボゴボ…… 「あー、ついうたた寝しちまった……」 トイレから出てきたのは、まだ酔いの覚めていない零だった。 「えーっと、席は……」 千鳥足で先ほどまでの席に戻ろうとするが、どこの席だったのか、いまいち記憶が確かではないらしい。 ふらふらとおぼつかない足取りで、あちこちの席を覗き込んでいる。 「壱とゆういちは……なにしてんだろ」 ふらり、ふらり 「ゆういち、もし壱をいじめてたら……」 ふらり 「ただじゃおかん……」 ふら 「……」 ぴた 足が止まった。 フロアの向こう側に、壱と祐一の姿が見える。 なにやら笑っている祐一にすがりつく壱の姿が見て取れた。 「言っちゃおうかな〜」 「や、止めてください! お願いします! 言われちゃうと、ボク、ボク……」 そんな声が聞こえる。 やっぱり祐一、壱をいじめて……! ──と、壱が顔を伏せた。 同時に何か呟く。 「春乃さんの家の前に置き去りにされました」 そう呟いたのだが、その声は小さく、零の耳には届かなかった。 だが── 「──!」 壱が泣いている。 ──本当は春乃との恐怖体験を思い出して泣いているのだが、傍から見るとそうとはわからない。 「っ!」 気がつけば、もう走り出していた。 「それで、その……もし、もしゆういちさんが良かったらなんですけど……」 壱の真剣な表情に、思わず息をするのも忘れそうになる。 「俺が、よければ──?」 ドドドド── 「ゆういちさんのこと……おにいちゃ──」 「壱をいじめるのはお前かああああああああ!!」 「ほんげぇ!?」 いきなり遠距離から飛んできた拳に、俺の頭部は大きく弾き飛ばされた。 吹き飛ばされた頭に引っ張られるように、胴体も宙を舞う。 「うっ、いきなり走ったから、気持ちわる……」 何か聞こえたが、それは意味を成す前に脳から消えていった。 いつしか、意識は闇の中へ滑り落ちていった。 * 「う……さぶ」 身を震わせると同時に、目が覚めた。 「気づいた?」 「ん……?」 隣に目をやると、壱が座っていた。 「いつまでも寝てるから、いい加減たたき起こしてやろうかと思ったところだよ」 「え? あ、あぁ、うん」 ついでに周囲に意識を回すと、ブランコ、滑り台、砂場。どうやら公園らしい。 俺と壱は、並んでベンチに腰掛けていた。 「あのまま店にいるわけにもいかないから、急いで出てきたんだよ」 「あぁ……そっか」 辺りを認識しているうちに、意識も徐々に自分のうちへ向いてきた。 俺、何故か零にいきなり殴り飛ばされたんだっけ……。 零……零? 「なぁ、零は?」 早口で壱にたずねると、壱は無言で視線を落とした。 「壱?」 「下」 「下?」 つられるように下を見る。 「わっ!」 いつの間にか俺のひざの上で、零がすやすやと寝息を立てていた。 「寝てるのか」 「ここに着いた途端、ゆういちを押し倒してばったりと」 「ははぁ……」 なんとなくその光景が目に浮かぶ。 「う、ん……」 ころりと寝返りを打つ零。 心地よい重さと感触が、俺のひざの上にかかっている。 時折髪の毛がくしゃくしゃになってしまうので、それを手串で直してやったりした。 「ところで、壱はもう酔い、覚めてんだな」 「ゆういちは倒れてるしおねえちゃんはお父さんだし、酔ってなんかいられないよ」 「そりゃそうか」 ……おねえちゃんはお父さん、ってどういう意味だ? 「……さむっ」 壱が肩を抱いた。夜風で落ち葉があちこちで踊り狂っている。 「ぼくは帰るよ。ゆういちはおねえちゃんが起きたら家まで送ってくれる?」 「ん、わかった」 「それじゃね」 スニーカーが砂を噛む音を響かせて、壱は公園に背を向けた。 「なぁ、ところで壱」 「ん?」 「おにいちゃんって呼ばないのか?」 「っ!? 聞こえてたのか!?」 「呼んでもいいんだぞ?」 「質問に答えろ!」 「まったく、恥ずかしがり屋さんだなぁ、壱は」 「誰がゆういちなんかに恥ずかしがるか!」 「ほらまた。遠慮せずにおにいちゃんって呼びなさい!」 「〜〜〜っ!」 「なんだいその手は。おにいちゃんに手、つないで欲しいのかい?」 「いい加減にしないと殴るぞ!」 「みずたまみずたまー!」 「関係ねぇだろ!」 「水の玉でみずたま」 「しつけぇ!」 「いいからほら、呼んでごらん? おにいちゃ──」 「あいでででっ!?」 太ももに電気が走った。 「ん、ふが……だいふく……」 「れ、零?」 零が寝ぼけて俺の脚に噛み付いたらしかった。 「俺の足は大福よりは硬いと思うんだけど……」 「見ろ。バカなこと言ってるからそういう目に会うんだ」 「タイミングいいよなぁ、さっきといい今度といい」 「ふんっ!」 壱はわかりやすく鼻を鳴らすと、半分背を向けながら俺を指差した。 「いいか、ぼくは寝るけど、ちゃんとおねえちゃんを家まで送れよ。変なことしたら承知しないからな!」 「はいはい、わかってるよ」 「『はい』は一回で十分だ!」 「うるさいガキだな……はいよ」 壱は鼻息も荒く、夜の公園を出て行った。 「ホント、酒が抜けた途端にアレだもんな壱は」 酔ってる間は『ボク、ゆういちさんのこと……』とか言っちゃって、かわいいことこの上なかったのに。 「で、だ」 問題は、こっちの酔ってる女の子がいつ起きるか、ってことなんだけど。 時折漏れる、鼻にかかったような寝息が俺を癒してくれそうである。 「ふぅ……」 頬に残る、零の拳の感触。 しかしまさか、この人にバーンナックルを浴びせられるとは夢にも思わなかった。 解説しよう。 バーンナックルとは、かの有名ゲーム「ThreePrimaryColors」のヒロイン、峰岸桐夏が編み出した必殺技である。 突進しながらオーラをまとった拳を見舞うその攻撃は、カウンターで相手を吹き飛ばしてKOするという恐ろしい性能を秘めている。 ちなみに世界的な格闘家、テリー・ボガードが同じ技を使用するが、彼女の技を真似しただけだと言われている。 またバスターウルフという技は、二連続で使用することによって「あゆおけあゆおけ」パワーを発揮するので、続けて使用するべきだというのが定説である。 民明書房刊、「世界の格闘技」より 「まだ痛いもんな」 軽く頬をなぞると、指先が触れた箇所からぴりぴりとした感覚が沸き起こる。 「ん……」 ころりと、寝返りを打つ感触がひざに伝わる。 ──やっぱり、きれいだしかわいい。この女の人は。 さっきは面食らったけど、起きる頃には酔いが覚めてて欲しいもんだ。 「──」 その瑞々しさに溢れる頬を、そっと撫でた。 やわらかい肌に指が吸い込まれるようで、ついついもっと触りたくなる。 小さなあくびが漏れて、目じりに涙が浮かぶ。まつ毛が塗れて、外灯に照らされてキラキラと輝いていた。 「お父──さん」 「ん……?」 「……くぅ」 「──」 空は漆黒の中に輝く星。ときどき流れ星すら見える、澄んだ空だ。 ──起きている零。寝ている零。酔っている零。 どれにしたって、神楽坂零本人だということには変わりない。 だけど……。 今日の、今ひざの上で寝ている女の人は……「誰」なんだろう? 俺は陽が昇るまで、零と一緒の時間を過ごし続けた。 * 「すっかり朝帰りだ……」 零が起きたのが、もう陽が昇り始めてるころ。 酔いは覚めていたらしく、色々なことについて頭を何度も下げられた。 あんだけ高速でお辞儀すると首の骨がえらい事になりそうだから、なんとか強制的に止めさせた。 やっぱり、ああいう律儀だったり礼儀正しかったり、天然だったりするところが「零」なんだよな。 「ふぁ……」 片手であくびを抑えながら、もう片方の手はポケットに突っ込んでおく。 早朝の空気は、秋ともなれば冷たさに満ちてくるものだ。 「ん」 ふと、コンビニの横に差し掛かる。 「……コーヒーでも買ってくか」 ついでに、エリスになんか買って帰ってやろう。 その前に、一応連絡入れて、と。 携帯を耳に当て、電子音の向こうのエリスを待つ。 三度ほどのコールで、がちゃりという音が耳朶を打った。 「もしもし、エリスか?」 『あ、ゆーいち。どうしたの?』 「いや、今コンビニにいるんだけどさ。なんか食いたいものとかあれば買ってくけど」 『ホント? ありがとう!』 電話越しなのに、エリスの大喜びしている様が目に浮かぶ。 『それじゃね、ビーフジャーキー買ってきて欲しいな』 「やっぱりか。そうだと思ったよ」 『だって好きなんだもん……』 「そうかいそうかい」 微妙に拗ねたような声がかわいくて、つい笑みが漏れる。 「じゃあもうじき帰るからさ」 『うんっ、お家の前までお出迎えするね!』 「いいってそんなの。それじゃな」 電子音と共に、エリスの声は聞こえなくなった。 「さてと、それじゃ……」 ちゃっちゃと買って、ちゃっちゃと帰ろう。 俺は少々急ぎ足で、コンビニのドアを潜っていった。 しかし、何の気なしに立ち寄ったこのコンビニが、まさか第二の悲劇の呼び水だなんて、誰が予想しただろう? 続く