まずは冥福を祈ろう。
NY‐ワシントンで起こったテロ事件に巻き込まれ、死亡した死者たちに。
テロの話
さて、9月の宵月閑話はFF10を素材とするキャラクター表現の方法論についての話にしようとしていたのだが、9/11におこったNYでの貿易センター特攻テロについての話に急遽変更する事とする。
実はちょうどこの時期、私は大学で平和学の夏季講義を受けている最中であった。担当教授は私の以前のゼミ担当の教授でもある人であり、専門は日米安保と核抑止と平和学。講義そのものは近代ヨーロッパにおける国際秩序の確立だが、そのエッセンスは「いかに戦争をなくすのか」という平和学の根本を貫く物である。(注1)
一年間、他の方面の勉強をしていて本来の場所に戻ったようなものなのだが、おかげで今まで見えてこなかった側面を眺められるような気がする。今回は少し趣向を変え、私が目指すネクシャリストとしてのテキスト実験をしてみよう。
>政治視点から
言ってみれば、今回の事件は現在の国際秩序に対する大きな挑戦ということができるであろう。というのも、現在の国際法では「テロ」を十分に括る事ができないからである。まずテログループは「正規軍」ではありえない。だから、政府を伴はない(本来は順序が逆だが)。だから、「戦争」はできない。「戦争」はあくまでも外交手段であり、「外交」とは国家間の関係行為を示す物だからだ。
現在の国際秩序……国連を中心とする多国間関係の特徴は、それがアメリカとイギリス・ソ連を中心にして作った、「戦時下における戦後体制」であり、アメリカが主張する基本国家間関係を如実に示した物だ。戦時下、というのも国連の基本憲章が作られたのは’45年の4月から6月にかけてでまだWW2の最中である(西欧にとっては終わったような物だが)。現在も残る国連の敵国条項はそれに由来する物である。
アメリカの基本姿勢。それは有名な孤立(モンロー)主義である。元々は欧州から両アメリカ大陸にたいしての進出を警戒する内容の物であったが、これは本質的にアメリカの基本姿勢として建国時から残る物である。すなわち、アメリカは「欧州から逃れてきた人々」の国であり、同時に「欧州を捨ててきた人々」の国でもある。それゆえに、本拠である欧州の影響を受ける事を嫌い、自治独立した事もあり、独立心が高い。さらに開拓民の国であることもあり、非常に自衛意識が強い。つまり、協調外交の基本精神が実はない。国連以前の国際組織である国際連盟に署名していながら議会の反対で決議できなかった事は有名である。
言ってみればアメリカは巨大な島国である。自衛・独立はある意味当然の帰結といえるだろう。戦後、アメリカを中心とする国連は、だからある意味「国際組織」として国際連盟よりもその主義……すなわち国家協調という点で劣っているのは当然である。とはいえ、国家の調停場としての国連の価値はやはり重要であり、これからも機能していくだろう。
問題は、テロに代表されるような、国家をもたない武装組織の問題である。
私が最も懸念しているのは、米軍(多国籍軍)が今回の事件の首謀者といわれているタリバーンの本拠・アフガニスタンへ大規模な地上戦を仕掛ける事態に陥る事である。それは、おそらく近代以後、事実上初めての国家が対さない戦争となるだろう。
アメリカ政府は、どうやらこれを一種の総力戦と捉えているようだ。相手が国家でない以上、対国家において制約をかける戦時国際法は通用しない。アメリカはアフガンに対する特殊部隊の派遣はもちろん、CIAにたいして暗殺部隊の組織を進めるという不穏な情報まで入ってきている。これはおよそ、まともな近代国家のする沙汰ではない。(注2)
アメリカを止めることはできないだろう。テロの抑止は先進国のみならず、いやむしろ途上国を中心として世界全体の関心事である。だが、それを武力を使い、さらには相手と同様の手段を用いて止める事にどれだけの正当性があるというのだろうか?
私はけして、アメリカという国が嫌いなわけではない。むしろその若さを好みたい。だが、アメリカは日本とは違う意味において外交におき、幼いのだ。この問題は「文明の衝突」でも「宗教対立」でもなく、特にテロ主義者を育てたという点においてアメリカの自爆ですらある。
アメリカに真摯な自制(それは武力行使を止める、という意味ではなく)を求めるのは不可能な事なのだろうか?
>思想視点から
今回のテロは、あるいは大きなターニングポイントを示す事件となるかもしれない。それは単に、時代が「冷戦後」から次の時代(レジーム)に移ったというだけの意味ではなく、中世(近世)が近代へと変わったパラダイムシフトに匹敵するような変化を穿つ点となるのかもしれない。ここでは便宜上「脱近代(ポストモダン)」と呼ぶ。
近代とは何か。それは一言で言えば「大きな物語」の時代である。一つの「国家」を枠組みとしてみた場合、国は「近代国家」そして「国民国家」となる事により、内部に一つの物語を形成する。それはナチズムであったり、孤立主義であったり、コミュニズムであったり、帝国主義であったり、高度経済成長神話であったりするが、ある頂点に達するための物語という点では同一である。それは、そういった「一つの大きな物語」を基礎とさせる時代という意味で、近代もまた一つの物語と言えるだろう。
近代国家は、だからその構成員たる国民に対し、同質性と自身の絶対性の支持を求める。近代国家の要件についてこういう言葉がある。「国家とは、ある領域において正当な暴力を継続的に所有し続けようとする社会的集団である」と。暴力…暴力装置。軍隊と警察という国家の統制を目的とする暴力装置は、国家を国家たらしめる重要要件である。(注3)
では脱近代とは何か。それは「個々がそれぞれに物語を所有する時代」ではないかといわれている。ここに物語を所有した個人がいかに外部と友好に接する事ができるかは大きな興味のあるところだが、「大きな物語」という巨大な統制からは、我々は既に離れようとしている。それは何より情報の統制から。今我々が面しているこのWWWという情報ツールは双方向性と「小さな物語」からできているという意味で、優れて脱近代的である。(注4)
先も言ったように、近代国家の重要要件は「正当な暴力」を所有する事。そして近代国家は言うまでもなく、近代という時代の産物である。では、テロとは何か。個人、あるいは個人レベル。タリバーンのように巨大な組織であれば文字通りにインターナショナルな、国家が意味を持たない存在。それはまた、優れて脱近代的である。
テロが脱近代の所産であるならば、我々が生きるこのパラダイムは既に脱近代なのではないのか?
このテロという行いを容認する事は私は、無論しない。だが、ある意味においてこれは「近代」と「脱近代」の激しい交代劇を見ているのかもしれない。近代は、あるいはとっくに終わっていたのかもしれない。
注1:「近代」といっているが、普通に言えば「近現代」。近代・現代の両者は英語で「Modern」となり、時代的に分かれているわけではない。これは日本では明治維新とWW2での敗北により国内のレジーム(歴史境界)が分けられた事による影響である。本稿では特に区別することなく、「近代」で通すこととする。
注2:私としては、イスラエルの暗殺行為もまた同様に正気の沙汰ではないと考える。
注3:エリクソン……だったかな?
注4:私は実はだからこそ、「個々が小さな物語を強固に持つ」ヲタクというトライブに注目するのである。
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