やおい仮考、その後
ずいぶんかかったものの、何とか先日、「やおい仮考」をあげることができた。
何より、これを書くのには苦労した。前回の「萌え考」では自分自身をモデルケースとすればよい例が多かったために比較的書きやすかったのだが、今回は完全に他者を観察して、論考を進めていかなければならない。論考対象が自己なのか他者なのかは想像以上に勝手が違い、結果、夏の終わり、夏コミあけくらいに書き上げるつもりだったのが、結局二ヶ月もずれる事になってしまった訳である。途中一月ほど放り出していたのも含めて、遅筆を極めたといっても過言ではないだろう。
このテキストを書き上げるにあたり、いろいろな人に意見を聞いたり質問をしたりしたものだが、その過程でわかってきたのは、自分が考えていた以上に、人の創作根源……欲望本質が多様であるという、当たり前の事実だった。
論考対象を「ヲタク」と限定していたため、限定されたものであるがために、その根源も同じではないかと考えていたのだがそんな事は無く、最深部はそうだとしても、その表面上に現れる欲望本質は非常に多様であるということを、改めて突きつけられた格好となった。
これは「やおい仮考」の最初のほうの項目、萌えとやおいを比較したところで顕著に現れている。欲望の対象に対し、萌えは主に単体として、やおいは対として現れるということを論じているが、この点は両者の欲望本質が根本的にずれている可能性を示唆していると思われる。具体的な論考は避けるが、私の印象では、欲望本質が前者はSexに、後者はジェンダーに軸足を置いているように感じる。
最もこの比較も、現在においては意味をなさないような気もする。というのも、私が論考対象としていた「やおい」が、実は古い形であったようであると最近気付いたからである。古い(というと語弊がありそうだが)タイプのやおいと新種のやおいは、萌えと同じように95年あたりから断絶している、という話を一部から聞く。前者は「やおい」に対し、引っ掛かりを感じながら、それゆえにやおうのだが、後者はそれに引っ掛かりなど感じずに素直にやおう、と。そして後者は前者に対し、メッセージ性と作家性が薄いとされる。
この辺は中島梓の「タナトスの子供たち」後書きにもあった話なのだが、最近これに説得力を感じるようになった。というのも、これは男性ヲタクの「萌え」への移行と時期的に重なるからである。ヲタクというトライブの変化に男女の違いを超えて影響されているのかもしれない。さらにはこれは社会状況の変化にも影響を受けてのことかもしれない、と拡大的に思考が広がる。
ジェンダーというのは、ある意味において「大きな物語」の産物であるので、社会状況の変化(モダンからポストモダンへの移行期という意味で)に対応したのかという気もしないでもない。まぁ、単なる拡散現象だというほうが説得力はありそうだが。
他方で、「萌え」だが、これもテキストを書いている最中におもしろいテキストを読み、考えさせられた物である。件のテキストはこのサイトでもリンクしている東浩紀のHPに掲載された物だが、要約すると、「萌え」の快楽機能は性シンボル(要するに生殖器)では無く、皮膚のような感覚器に近いのではないか、というものである。
私の「萌え論」では一貫して、萌えの欲望根源は自身のコンプレックスであり、それが顕在化したものが属性少女あるいは戦闘美少女(=自身のファルス)であるとしてきた。これ自体はそれほど間違っているとは思わない。だが、前出文にあるとおり、萌え対象は実はけっこうな確立で増えるのである。あるヲタクが何かのきっかけで、突然メイド萌えになったり、ビバ猫耳になったりする話はよく聞く。
東は、これらの「増える萌え対象」の快楽機能は、愛撫によって快楽に目覚める、皮膚のような感覚器に近いのではないかと述べている。萌え(燃え対象物たる属性少女)を単純に消費物として捉えるなら、これはこれで説得力のある仮説であると思う。確かに、萌えにこの二種があるということも感覚的に理解できるからだ。
ヲタクの欲望構造は多様を極め、新たな構造が増えつづけている。眺めていくのに飽きはまだ着そうに来ない。
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