あの街を遠く離れて
このテキストを書いている夜は引越しからちょうど七日目の夜にあたる。ようやく生活が普段通りに戻りつつあり、動静が沈静化しつつもまだ慣れている訳ではない微妙な時期だ。
新しい環境に完全に慣れきっていないのには生活の不備、特にネット環境の接続が出来ない事と、また主には金銭的な問題が大きいとは思うものの、それだけでは説明できない何かが確かに胸の一隅を占めている。
不安定による不安、とでも言えばいいのだろうか? 「ここ」が自分の居場所ではないという感覚、また自分がずいぶんと限定されているような気分が身に迫っている。新たな環境における不適応だと言えばそれまでなのだが、ひとつ、知識として身に付いていたものが経験として身に染みた事がある。
「己」は「個人」に限定されているものではなく、完結していないと言う事実だ。
我々は通常「自分」と言った場合、その範囲はたいてい自分の肉体の事を指す。つまり肉体と言う限定された領域が「己」だと考えている訳である。だが、これには大きな誤りがある。
既に言い古されている事ではあるが、人とは関係性の中で育まれる存在概念である。かつてある哲学者のグループは「人間とは人との間にあるもの」と定義したが、それは単なる言葉遊び以上の真理を含んでいると言えるだろう。すなわち、人は他者の存在無しでは「己」さえも形成する事が困難なのである。
「己」という概念が存在するとして、その中心軸に肉体があることには異論はない。だが、我々の「己」は肉体に完結している訳ではない。我々は他者からのレスポンスにより外面を形成するように、「己」という内面を包み込むように様々な形で殻を作る。それは例えば力であり、知識であり、金銭であったりする。そしてその殻、自分を包み込む「領域」の代表的なものは「所有物」と「ホーム」であろう。
この上記二つは、いわば「外付けの自分」というに相応しい。これらはある意味において、「己」の分身ですらある。自分の所属と嗜好を一身に見せるこれらは所有者のアイデンティティーを計る上でも重要だろう。
近代というのはパラノ的な精神病理を抱えていると言われている。パラノとは偏執型の事。一定の十分な蓄積があるにもかかわらず、それ以上を求める事がパラノの典型だという。「近代」に当てはめるなら、十分な進歩と富の蓄積があるにもかかわらず、より前に進もうとするその姿勢が非常にパラノイアックだと批評される。
上記の二つ、「所有物」と「ホーム」は言うまでもなく非常にパラノ的な所産である。この点において私は自分を良くも悪くも近代人であると自覚せざるを得ない。何故ならその二つは私を形作る「外面」として機能していると認識しているからだ。
転居と言う作業はこの二つを一旦リセットする行為である。「ホーム」においては言うまでも無く、「所有物」もまた多くが処分され、また一旦は箱詰めにされて見えなくなる。それは自分の「外面」の一部が剥ぎ取られ、自分を構成する「領域」が確実に狭まったような錯覚を覚えさせる。
不安定の不安とは、おそらくその程度の事なのだ。そしてそれは錯覚に過ぎないことも多分わかっている。確かに「外面」がその人間を形作る上で必要不可欠であり、重要である事に異論はない。だが他方で、私はそれでも「己」というものに対する絶対性への信仰を有していると考えている。例え「領域」が狭まったとしても、その核たる「己」が失われる訳ではない。この核たる「己」がいかなるものかは個々人によって大きく変化するだろうが、それが傷つくか否かはまさに個人の資質によるものと考える。
その点からか、私は(ヲタクのわりには)以外に物欲が薄いと思っている。少なくともマニアではないし、「物」による「外面」をそれほど重要視している訳でもない。私にとって何より重要な「外面」とはおそらく私の「スタイル」であり、「物」はその「スタイル」の一部を構成しているに過ぎないのだろう。
私にとってはむしろ「所有物」より「ホーム」のほうが重要度が高いかもしれない。「ホーム」を「私が居る空間」と捉えるなら、その度合はさらに増す。だがそれもまた私の「スタイル」に引きずられているにすぎない。そして私が居る「空間」こそが「ホーム」であり、それはおそらくいかなる空間でも交換可能なものだろう。
それでも、あの街を懐かしく思うことはまだあるだろう。田舎から出てきた私にとっては、森の近くの丘の上にある家は、住みやすくは無くとも安らげる場所ではあった。何より自分をこれ以上なく見つめなおした大学生活を過ごした場所なのだから。
あの街を遠く離れて。僕は今、「ここ」にいる。それでもあの街で手に入れた多くのモノを失わないように、ここにただ記録を残す。
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