02/3/18 UP

「KEY考」再考



3〜4ヶ月に一回、自分がサイトに置いてあるテキストを読み返すようにしている。時間経過によって当然内容に劣化が生じるようなノートやこの「宵月閑話」はともかくとして、置いたら基本的に引っ込めるつもりがないテキストも、その時々において再考の対象になったりするからである。ちなみにそれが理由で「私的ゲーム論」は引っ込めたのだが。


さて、そんなこんなで久しぶりに「欲望境界の章」においてあるテキストを読んでみた。この章に置いてあるものは副題が「Otaku Studies」とあるように、私のオタク研究の略考察なのだが、一つ気になるものがあった。


「欲望境界」の中では一番新しい「key考」の中のテクストなのだが、このテキスト内における私の「AIR」に対する批評が、ほぼ私がニーチェに対する批評と重なっているのに気がついたのである。


如実にそれが表れているのはこんなテクストだ。


それはとてつもなく重い諦観の念である。回帰する日常を剥奪され、向かう先には孤独を約束されている。そして始まりは何度でも来てしまう。何度でも孤独と悲しみを経験せざるを得ないというやるせなさを「AIR」は執拗に語りつづける。


この「AIR」に特徴的な世界観はニーチェの「永遠回帰思想」に非常に似ている。永遠回帰思想における「世界観」は「非神学的な状態で、世界が形而上学的・物理的・機械的に全てが何もかも巻き戻る」世界観である。比喩的に言うなら、輪廻転生を思い浮かべて欲しい。何度も何度も転生を重ね、なおかつ同じ人生を同じように同じ状態で繰り返す。これが「永遠回帰」である(本当はぜんぜん違うのだが、感覚としては近い)。


ニーチェはこのような状態が我々の自然世界であり、それでもなおこの繰り返される世界の中で感じられる「快楽(エロス)」があるのならば、それを糧に生きよ、と言う。そしてこの「エロス」を感じ取れる人間を育てる思想を「超人思想」と呼び、これは本質的に不分割である。


さて、私は「永遠回帰」はともかくとして、ニーチェのこの「超人思想」が大嫌いだったりする。「超人」とは要するに生きることのエリートであり、ニーチェの思想を知る人全てが「超人」足り得る訳ではないからだ(これはニーチェ自身も認めてることではあるのだが)。


また、エロスの肯定をニーチェは「生きること」の肯定として勧めているが、これにも私は否定的である。それで生きられる人はそれで生きればよい。が、ルサンチマンを糧として生きている者は、それが自身のルサンチマンとして認められるのならば、それを肯定しても良いのではないかと思う。ニーチェがルサンチマンを執拗に否定した理由も、近代思想やキリスト教思想(特にプロテスタンティズム)を考慮すれば分からないでもないのだが。


自身と世界を知り、それらを選択的に現すのが哲学の作用の一つだと考えているが、エロスとタナトスという二つの「意思」(かなり強引な分け方だが)を明示するのが私のニーチェ哲学の使い方のつもりである。


話がずれた。


とりあえず、AIRの世界観が「永遠回帰」に近い事は上記した通りである。AIRは作中において作品そのもののテーマを明示的に語るタイプの作品ではないので以下は私の感想になるのだが、以上のような「永遠回帰」の世界の中で、ある種の「諦め」を持って生きることをAIRは語っているように思う。それに対する私の批評は以下のような物だ。


世界の認識が間違っているとは思わない。だがそれは―――あるいは正し過ぎるがゆえに、押しつぶされるほどに巨大になろうとしている。そしてその巨大な諦観の中で転輪した後に「また始める」事ができるとは正直私には思えないのだ。それほどの絶望を、ときにAIRはユーザーに与えてしまう。


この「諦観」を「ニヒリズム」と言い換えれば、ほぼ私のニーチェへの批評と同一となる。この辺に私の哲学感と言うか、人生哲学とゆーかが滲み出ていて、少し恥ずかしい。


東浩紀風に言うのなら、「AIR」は動物化に向かって突き進むギャルゲーユーザー(「萌え」の先行者)に対し、「諦観」というニヒリズムを基軸とした日本的スノビズムを前面に出し抵抗する作品、という風に批評できるようにも思える。


「永遠回帰」はニーチェ思想の基盤である「力への意思」を前提として構築されている。「力への意思」の発露の結果がエロス的生であったり、スノビズムであったりするわけだが、ヲタクたる私の前には既にエロス的生を生きる選択は示されない。そのなかでAIRはごく簡単な二者択一を迫る。すなわち、「動物化」か、あるいは「スノビズム」か。


その中で、自らを鑑みれない「動物化」ではなく、「スノビズム」を「選ぶ」のが、私が取った抵抗の印なのかもしれない。
BACK NEXT