矛盾螺旋に思うとき
何故、作品を描くのか? 何故、表現をしようとするのか? あるいは、せざるを得ないのか?
そう問われたとき、言葉に詰まる自分がいる。間違いない自己矛盾がそこに存在しているからである。
表現とは……一言でいえば「自己」の肯定作業である。わたしの感覚では、人は基本的に生き難い。その生の中に溜まっていく様々な種類の澱を外部/他者的(世界の側)なものに転換する作業のことを「表現」と呼ぶのだと私は考える。音楽、絵画、文章といった「創作的なもの」に留まらず、単なる雑談をもそういった意味においては「表現」である。
だから、多かれ少なかれ、「表現」には必ずそれを現した「表現者」の影がつく。そして表現は他者に介される事を目的として存在する。例え表現者以外の人間に触れられないようなもの(例えば、独白や日記)も、それが表現となった時点で表現者は表現にとって他者であり、それは介される存在として在る事となる。
表現とは表現者の一部の発露であり、介されることを目的とした存在。つまり表現とは誰か(この場合は表現者自身を含む)にたいして向けられた叫びであり、そしてそれは表現を、そして表現に代弁された表現者自身を誰かに知ってもらいたい、認めてもらいたいという欲望だと言えるだろう。
人という存在は世界が存在して初めて成立する存在である。そうである以上、表現が外部に対し開かれているというのは正常な事である。だから、私は表現を自己の肯定作業であると考える。
だが、私は思う。もし、自己の中に他者を存在できるのならば、他者=世界=外部は本来的に必要なくなるのではないか。少なくとも個人の中におけるヒエラルキーはひどく低くなるのではないか、と。それは常に世界に対し違和を持つ私にとっては魅力的な発想だった。
世界を「自分が認知しているもの」とする実存論や(日常)世界と想像とを限りなく同列に置くオタク的世界観をおってきたのは、そういった私の実存的な不安があったためである。
では、何故私はその思考の足跡(表現)を「創作」という形で、ネットという不特定多数が閲覧する場に発表するのか?
そこには「世界に認められたいが、世界を認めたくない」という私の二律背反…いや、螺旋矛盾が間違いなく存在している。
自己矛盾の多い(大体、自分のアイデンティティの根っこにルサンチマンがあることを認める事にやぶさかではないし)私をいかに解きほぐすか。徐々にだが、そちらの方に思考が寄ろうとしている。
「ヘミソフィア」という歌がある。現在放映中のアニメ「ラーゼフォン」のOPだが、この歌の中に出てくる文句に心を動かされた。
「僕は灰になるまで僕でいたい」と。また、「僕は僕の事が知りたい」と。
たしかに、そうだったのだ。そしてそれは今も変わらないと自分に言い聞かせる。
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