空の考察式
その昔、東京がまだ帝都と呼ばれていた時代。東京に出てきたおのぼりさんの芸術家夫婦が二人いたそうな。もちろん二人だから夫婦なわけだが。で、芸術家よろしく、どこか頭のネジの外れた奥さんの方が、その正気を手放す前に一言のこして旦那が書きとめた。
「東京には、空がない」と。
彼女の言い分として、東京の空は空なんかじゃないらしい。一応彼女の「空」は福島あたりにあるらしいが、そこまではしらない。
やや小難しく考えるのならば、東京の上に広がる大気は、彼女の目から見れば、彼女の認識する「空」という概念に相当しない、ということなのだろう。彼女と彼が生きていた時代は今よりもっと東京の空気も澄んでたと思うのだが(東京圏の大気汚染が最も深刻化するのは高度経済成長期だ)、それでも福島のド田舎(いや、当時はね)からでてきたその彼女の目から見れば、東京の上に広がる大気は「空」と呼べるものじゃなかったんだろう。
自らの頭上に広がる大気の事を「空」と呼ぶのなら、私も多少、「空」を知っていると思う。懐かしい湿気を帯びた故郷の「空」、むやみに乾燥した大陸の蒼い「空」、色硝子のように海と両面を挟み込むような沖縄の「空」、木々の緑と建物の白とを対比させるような大学構内・横浜の山の中の「空」。それらは確かに私も「空」だと思って上を見ていた。
だがしかし、やはり私も東京の上に広がる大気を「空」だと是認する事がなかなかできないでいる。
上を見上げるとどこか霞みがかった青しかなく、蒼がない。冬の空が持つ緊張感も、春の空が持つ安堵感も感じさせない。
いや、そもそもおそらくは。「上を見上げる」という行為でもって大気を見るという行いが、「空」を見るという行為に該当しないのだ。視点をややずらす事によって見える蒼こそが自分にとって空であり、路の周囲を壁に阻まれたこの街には、やはり私の「空」はない。今住んでいる街から30キロも離れていないあの横浜の山の中にあった「空」がここには既にないという事実に時折打ちのめされる事がある。
……「空」というのは私にとって、外部そのものの象徴であり、それは土の大地、緑の木々、藍と緑の海と並ぶ他者=自然なのだろう。ならばそれは、その大気を自然と認められないということではないか?
思うに、東京の天なる大気をきっと私は天幕に見立てているのだ。そういえば、東京の空を見上げ、最も印象深かったのは曇りの日の夜だった。頭上に広がる雲が地上の灯りを写し取り、大地にもう一度投げかける様を見て……そう、確かにここは私の知ってる邦ではないと思った記憶がある。
その記憶の日から既に6年が経つ。東京そのものに本拠を移してからはまだ半年だが、やはり私にとって、東京はずっと異邦なのだと思う。東京は巨大なターミナルだ。それは終端であると同時に初めでもある。
そのことに何がしかの感慨等を求める事などもなく、その偽者に似た天幕の大気の下。今日も刹那に生きる。
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