01/12/24 UP


KEY考



序論


今年(01年)の秋は一つのテーマを設定し、ある特定のゲームを集中的にやろうとした。世間的に評価されている、あるいは私が好評価を聞いた「萌える」ゲームを中心にやるという試みである。「ヲタク=スタディズ」では一貫して「ヲタク」というトライブ・現象、およびその派生行為を追っているが、もともとは「萌え」という現象を考察する所から始まっている。


この「萌え」をなぜ追うのかというのは長くなるので抜粋するが、一つの原因と自分が考えているのは、今年頭から春にかけ、やはり集中的にLeaf(アクアポリス)のゲームをやったからだと考えている。正直に白状すると、私は今年に入るまでまともに「萌える」ゲームをやっていなかった。その反動もあるのだろう、ときに「萌え」という現象を追う事が私の「萌え」であるとさえ言えるような状況がここ一年近く続いている(ヲタク特有の「斜に構えた熱狂」の可能性が高いが)。


前回の「萌え」を問うた考論では主に資料を参考しつつも実地調査には私自身と友人数人をモデルケースとして使用した。だが私自身をモデルとしたが故に、結果としてLeafを「萌え」の先鋭と捕らえていた傾向が強い。そのこと自体には今でも変化はないものの、やはり多少自分の幅を広げなければならないと考え、「萌える」ゲームを進んでやるという、一種「自分の墓を掘るような」行為を行った。


結果からいえば、その一連の行為はゲームの本数そのものがあまり集まらず終わったため不完全燃焼であったものの、当初の予定はクリアーしたといえる。当初の予定、それはLeafと双璧をなすといわれるソフトハウスKeyのゲーム群(ここではONE、kanon、AIRの事)をクリアする事である。


独特の陰影を持ったタクティクスのゲーム・ONE。後にその製作スタッフを中心にして独立し作られたゲームがkanon、AIRである。ここでは広義としてこの三つの作品群を「Keyゲーム群」と呼ぶこととする。なお本来なら同じくONE以前のタクティクス製ゲーム、MOONも同じように判断とすべきなのだろうが、私が未プレイのため、ここでは除外しておく。


ある程度の事情を知っている者なら今更だが、LeafとKeyは「葉っ派」と「鍵っ子」と俗称されるファン層を持つように、「萌え」において非常に大きな影響を与えたと考えられる。以上の点からも、「萌え」を、さらにはヲタクを語る上でも参考としてKey作品群をやっておく事は必要条件であると考えたのである。


Key作品群は個々の作品としてでなく、ゲームという体系からや構造としてみるならば様々な解釈を行う事ができる非常に興味深い対象である。が、ここでは作品群を一貫して貫くテーマ(ここでは構造としてではなく、透けて見えるテーマとして)を考察対象として、何故それがある特定のヲタクたちに熱狂として受け入れられたかを考えていく。




存在論的:日常と非到達点


Keyゲーム群を紹介するときに幾つかの決まり文句がある。その一つに「感動できるゲーム」という評価が最もよく使われているだろう。ときにそれが鼻をつき、煙たくなるほどにKeyゲーム群は「感動的」である。


さて、では「感動」とはどういう状況で生じる感情であろうか? 作劇法で「感動」を生じさせる最も手っ取り早い方法は二つ、「克服」と「喪失」である。前者は何らかの障害があり(これは個別的・個人的であったほうが良い)それを克服する事によるカタルシスが読者と同一であったときに生じ、後者は物語において何らかの重要なファクターが失われたときに生じる。Keyゲーム群では、後者を中心に前者が補填する形で物語を進めていく。


Keyゲーム群のシナリオ上の特徴は前半と後半の雰囲気が180度といっても良いほどに反転する事である。寒いといえるような突飛なギャグ的状況を続ける前半(それは「狂ってやがる」と形容されるほどに)と、物語の核心に近づきシリアスさが濃縮される後半とは、まるで別のゲームなのではないのかと思うほどに違いすぎる。


その変化はいみじくも「物語の核心に近づき」と述べたように、主人公の周辺の状況の変化、いや主人公が居る「世界」の変化によって起こる現象である。Key作品群には必ず物語上に「到達できない世界・点」をあらかじめ設定してある。それぞれ順番に「えいえん」「約束」「空」であるが、これらに主人公(あるいはヒロイン)が近づくにつれ前半の舞台となっていた世界(ここでは「日常」と呼ぶ事とする)が崩れ、「えいえん」等にシフトしていく。自分がもといた状況からの離脱、すなわち「喪失」である。


特にONEにおいてはヒロインが日常側に軸を置いているキャラクターであるため、日常の喪失がすなわちヒロインの喪失と直結している。


そして「えいえん」等にシフトしてしまった、あるいは触れてしまった主人公(あるいはヒロイン)が何らかの方法で戻ってくる、すなわち「克服」する事でのカタルシス、これがKey作品群を特徴付ける「感動」のシステムである。


Key作品群を見るとき、まず重要視するべきはこの二つの世界の対比にあるといえる。この対比を行う事により、主人公は始めて「日常」が失われる物であると認識する。それは我々の認識と同じように、「日常」が決してかけがえの無い物ではないと言う立ち位置に主人公が居た事をも示す。


「まったりした日常」と言う言葉がある。社会学者の宮台真司が提唱した概念だが、「日常が区切り無く連続する事により、変化が無いように感じられる」という状況を示す。それはポストモダンに近づきつつある我々の社会状況を非常に正しく捉えた像であると同時にひとつの示唆を与えている。「まったりとした日常」の内部において、その構成員はそれがかけがえのない物ではない、失われる物ではないと認識する(あるいは認識すらしない)ため、自分が生きている実感すら希薄となるのである。失われる物があるゆえに、生そのものが実感として感じられるという思想を「存在論」と呼ぶ。「まったりとした日常」は逆説的に、「非存在(論)的」であると批評できるだろう。


Key作品群の「日常」が「まったりとした日常」をヲタク的な理想化を施した状況であると言う事は言うまでも無いだろう。そしてその特徴は―――ギャルゲー・美少女ゲー全般の世界観の特徴でもあるのだが―――極端なまでにディテールを排除している事である。それは如何様に代入可能な架空であると同時に、それこそが我々の「日常」でもある。


Key作品群とは、すなわちそんな「日常」こそが我々の生そのものであり、それもまた失われていくものであるということを謳う物語であると結論できる。ヲタクはまったりとした日常を生きる人間達である事が多く、それが故に自分の内部にある生(=存在)を肯定するKey作品群との親和性が高かったのではないかと推論できるだろう。




核心:諦観の物語


key作品群の物語上の特徴が、「えいえん」に代表される「非到達点」があらかじめ設定されている事は上記した。この「非到達点」があらかじめ設定されていると言う点こそが、key作品群を貫くテーマを探る道標ではないかと私は考える。


「非到達点」、すなわち至る事が出来ない場所である。「えいえん」も「空」も、そこに至る事は難しく、そして一度行った者はけして戻る事ができないと言う状況をあらかじめ語っている。言うまでも無く、これは「死」の隠喩である。


いや、むしろこれら詩的な言葉で表現される「非到達点」は「死」という、絶対的でありながら我々「まったりとした日常」内部に生きる者達には認知されず、故に存在の足掛かりとならないモノの代わりに提唱された概念だと言える。「死」も「えいえん」も「空」も「喪失」という存在への足掛かりを示す錨として機能している。


加えて言うなら、「えいえん」は無論「永久に続く」という意味を持つが、宗教学的には「死前」「死後」を示す時間空間をあらわす。特に西洋・キリスト教文化圏においては生が一回性であり直線であるため、「永遠」に対する恐怖が強く、故にそれを強く実感すると言う。「死」を中心とする生命哲学を軽視してきた戦後日本の思想下にあり、日本の土壌としてある回転性(輪廻・太母的)の生より一回性の生への実感をもつヲタクたちが比較的すんなりと「えいえん」と言う漠然とした喪失を受け入れられる土壌となっていると言えるだろう。


言われるまでも無く、人間はリミットが決められ生きる存在だ。だが、多くの場合、人はそのことから目をそむけ、毎日を生きる。生きることそのものを考えなくてもいい社会状況(例えば「まったりとした日常」)にあるのならば、それはなおさらだ。だが、それがどうしようもなく直面させられ、実感したのならどうなるだろうか?


私は、そのことに諦観するのだと思う。


失われる事は恐ろしいし、嘆くに値する。だが、それはどうしようもない事として目の前に提出されるのだ。それを気付かずに在り続ける事はできるが、それでは自分の存在すら希薄となる事を意味する。大いなるジレンマがここにある。


やや繰り返しになるが、「まったりとした日常」=「連続した日常」に対し穿つ句読点であり、故に存在のよりどころとなる心象風景こそが「諦観」であると私は考える。そしてこの「諦観」と言う感情を植え付ける事により、ユーザーに「在る」事を要求するのがkey作品群のテーマへの第一歩であると言えるだろう。




展開:輪廻する「AIR」


あらかじめ設定されているリミットを抽象化し、物語の構造上に取り入れているkey作品群。基本的なストーリー構成では、ONEとkanonは「行って戻る物語」として同じ神話構造をしている。非到達点に達するのが、ONEでは主人公、kanonではヒロインと相違点があるものの、それぞれが日常に回帰し、それがカタルシスとして機能しているという物語構造は通底している。それは「日常」をこそ重要だと考える作品のメッセージであると取れる。


だがAIRは違う。霧島佳乃シナリオのように、トーンとして前作、前々作と同じように見えるシナリオもあるものの、作品そのものが持つメッセージが大きく変化しているのが読み取れる。


AIR自体の考察については他のテキスト(ここでは「恋愛ゲームZERO(<http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/>)」内の「私的AIR論」を推奨する)を参考にしてもらうとして、AIRと他のkey作品群との大きな相違点は、物語の結果が日常に回帰しない事である。日常に回帰するとはすなわち「元あった日常に戻る」という事である。だが、そもそも主人公(=プレイヤーのカーソル)である「国崎住人」自身が旅人である事からもわかるように、「日常」がある「世界」にとって主人公は異物であり、それは排除されるべき物である。そしてその通りに、多くのシナリオにおいて主人公(達)は再び旅に出るか、「空」へと向かう。


そして参考テキストからもわかるように、「AIR」という作品は種々雑多な入れ子状の構造と、それに伴う転輪で構成されている。そしてその基本的な構造は「来て旅立つ」物語である。だがその旅立ちは祝福されるものではなく、多くは悲しみを伴ったものだ。住人と観鈴という主要キャラクターが「空」へと旅立ち、転綸する物語の新たな登場潤物として用意される少年と少女さえも、OPの詞に歌われているように「指を離」してしまう。孤独という最も厄介な病を癒す術を、この物語は無い事を主張している。


それはとてつもなく重い諦観の念である。回帰する日常を剥奪され、向かう先には孤独を約束されている。そして始まりは何度でも来てしまう。何度でも孤独と悲しみを経験せざるを得ないというやるせなさを「AIR」は執拗に語りつづける。


だが、その重い諦念こそが生の実感そのものとして機能する。旅立つものは確かに孤独をその身に受けるだろう。だが、それでも旅立つ勇気を持っていたし、これから旅立つ者も持っているだろう……。そんなぎりぎりの「生」を「AIR」は語ろうとしている。


諦観と悲しみを自身のものとして、それでも失わないこと。それこそが数作品を経て得たkey作品群が持つテーマ性であると私は考える。




結:深化する世界・世界≒己


正直な感想を言うと、私はONE・kanonをゲーム史・ヲタク史においての重要なファクターとなると考えてはいるものの、「おもしろい」とはついぞ思わなかった。その点がAIRと他の作品とを隔てる大きな境界だろう。私はAIRを高く評価しているからだ。そのことは上記において書ききっていると言えるので、復唱はしない。


だが一方で、AIRとAIRが持つ思想は作品の完成度とメッセージ性の高さゆえにその過酷な真実を現出してしまっているともいえる。


Key作品群の特徴の一つに、「日常」がディテールを欠如しているということは上記した。我々が普段生きている日常の風景、それは我々が自身の認識を通して写している像であり、個々人にとっての「世界」そのものである。そんな「日常」と親和性が高いユーザーもまた同様の日常を生きていると思われる。そんな彼らは―――私を含めて、になるのだろうが―――内面の希薄さを抱えた人間であると規定できるだろう。


人は関係性の中で存在できる主体である。だが、この希薄な世界の中で構築できる関係性はかなり限定的なものとなるだろう。「萌え」はその際たるもので、不可分な二人という関係性とも言えない関係性を提供する。


そのことに製作者達は気がついているのだろう。Kanonと違い、AIRではかなり意図的に「萌え」を除外している点を見受けられるし、また必ず三人という関係性(ときにそれは擬似家族にまで発展する)を描こうとしている。


だが、それは所詮希薄な世界の中で展開される物語であり、我々の内面そのものを描こうとする手続きである。全ての物語の流れが転綸するAIRでは、さらにその外へと溢れ出す力は見受けられず、諦観は諦観のまま蓄積されるようにすら見える。


世界の認識が間違っているとは思わない。だがそれは―――あるいは正し過ぎるがゆえに、押しつぶされるほどに巨大になろうとしている。そしてその巨大な諦観の中で転輪した後に「また始める」事ができるとは正直私には思えないのだ。それほどの絶望を、ときにAIRはユーザーに与えてしまう。それは日常への回帰という物語的な解決よりもずっと不幸な「真実」を与えてしまっているのではないか? そんな真実を真実として受け入れてしまった人間は青い大気の元で今日も溜め息をつく。


そんな「永遠に続く終わり」の日々を僕達は生きている。


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