01.4.03 UP





序文・「萌え」という現象

 

あなたは何かに「萌え」たことがあるだろうか? 私は、おそらくある。では、「萌え」とは何なのだろうか? 一般的には、つまり受け入れられている回答としては「ある特定の肖像物を愛好すること」ということが出来るだろう。では、その現象の意味とは?

 

そもそもこんな問を発するようになる最初の動機は、私の「萌え」に対する方向性のなさ・・・…言い換えれば「節操のなさ」に端を発する。一般に萌える人は……それが男女の違いがあったとしても……同一傾向の萌え方をする。具体的な例をあげれば、妹が好きな人は「妹萌え」を、眼鏡っ子が好きな人は「眼鏡っ子萌え」をする傾向にある。ところが私にはそれがあまり無い。無いことも無いのだが、「特定の傾向」というにはその傾向が表れる頻度が低いのだ。だが、それが「萌え」と呼ばれる感情ないし現象だということは自覚できる。では、「萌え」とはなんなのか?

 

本稿はこの「萌え」という現象を考察することにより、「萌え」ることを選んだ人々に、何より自分自身にその意味を問いかけようと考えるものである。

 

 

 

 

 

Chapter 1 ヲタクと「萌え」

 

ヲタク概念一般

 

C-1ではまず「萌え」という現象の主体集団である「ヲタク」について論じる。本稿では私の個人的な趣味により「ヲタク」という語を使うが、これは「をたく」「オタク」「おたく」でも意味は同じであることを先に述べておく。

 

「萌え」の主体集団……つまりもっともよく「萌え」ている人々がヲタクであるということに異論は無いだろう。もしこのことに疑問があるというのなら、あなたがパンピー(非ヲタク)と思われる友人に「何に萌えているか?」と問えばよい。おそらくその友人は「萌え」とは何か、と答えるだろう。パンピーが萌えない、というわけではない。むしろ現代の日本社会において30代以下で萌えていない人はおそらくいないだろう。それは自身が萌えているという自覚と萌えの社会的なコンセンサスが無いだけなのだ。だが、自覚がない故にパンピーは「萌え」の主体集団ではなく、その自覚があるヲタクこそが主体集団として機能するのである。

 

さて、では問おう。「ヲタクとはなんなのか?」

 

私はその問いにこう答える。「ヲタクとは、自身の欲望を所有するために多数の世界(あるいは物語)を自身の内部に成立させ、それを瞬時に使い分ける多角的な視点を持つ人の事である」と。以下、説明していこう。

 

よくマニアとヲタクは混同される。これはヲタクと自覚がある人でもそうなのだが、本質的にこの二者は違うものなのだ。性質が違うのではなく、パラダイムが違う。マニアとは志向性や方向性のあり方の一例であり、ヲタクとはむしろ能力に近い。

 

具体例をあげよう。およそこの世に存在するものであれば、ほぼ基本的にそのマニアやコレクターは存在する。音楽マニア、映画マニア、切手マニア、鉄道マニア……専門家に対する一種の敬称が「マニア」であることも特徴的だ。そしてその志向性は主に「実体物」に対して向かれる。マニアは一種のフェティシズムに近い。

 

これに対してヲタクは意外と物品の所有については頓着しないものである。何故なら、ヲタクの志向性は常に内部に向いているからだ。「実体物の所有」はその一つの形に過ぎない。例えばマンガはヲタクのメインフィールドの一つだが、全てのヲタクがマンガ単行本を買うかといえばそうでもない。コンビニで立ち読み、あるいはマンガ喫茶で全巻読破というのも少なくない。自身の内部にマンガを所有できればそれでいいのである。

 

その一方で「実体物の所有」に血道を上げるヲタクも少なくは無い。実体物に志向性が向いているヲタク、例えば秋葉原などでビームサーベル(著者注・バックパックに挿した、丸めたポスターのこと)を背負ったヲタクなどもいる。しかしそれは「マニアであり、ヲタクである」のだ。ヲタクとマニアは相反するものではなく、重なり合う円なのである。

 

ヲタクの多角的視点について、岡田斗司夫は「三つの目」という言葉を造り、説明している。三つの目とは「粋の目」「匠の目」「通の目」の三のことを指す。簡単に説明すると、「粋の目」とは作風とその変化を捉える視点、「匠の目」とは製作者苦労を知る視点、「通の眼」とは作品の裏を見る意地悪い視点のことだ。この三つの視点の保有がヲタクの必要条件だと岡田氏は説く。私自身はこの「三つの目」の所有はむしろ「濃いヲタク」が持つ十分条件だと見るが、それに先立つ「多角的視点」はヲタクの特有の能力だと考える。

 

これはヲタクの特徴の一つ「醒めながら熱狂する」と強力なリンク関係にある。ヲタクは自分がはまった作品/キャラクターに対し「醒めながら熱狂する」という倒錯的な立場を取る。非ヲタクのマニアが何かにはまった時、彼らは何も考えず純粋にそれを愛好/熱狂する。だがヲタクは違う。その作品/キャラクターに対し、類似傾向の作品との比較や裏読みなどを駆使し、時に自分を三人称的に呼びながらはまるのである。「三人称的に呼びながら」という点は重要である。何故なら、これこそが「多角的視点」の現出に他ならないからである。

 

 

世界/物語考

 

「多角的視点」を語る上で欠かせないのは「人間は世界をどう認識しているのか?」というモデルである。斎藤環はラカン派精神分析を用いてこれを説明しているが、残念ながら私は精神分析に疎く、うまく説明できない。そこでここでは哲学の一派・現象学を使ってこの認識モデルを説明していく。

 

そもそも哲学の本質の一つは「世界はどのような形をしているのか?」である。古代ギリシアのプラトン哲学によれば、世界は「イデア」と呼ばれる本質があり、現実はその1レベル下位の本質から模倣された存在である。またキリスト教による「神が創造した」世界観を有する中世の欧州思想界は「絶対的で真実(=イデア)の世界像」が存在することを前提とし、それを求めることが神学のテーマとされてきた。「自分が見ている世界は真実に存在する世界か?」という問いは西洋哲学の骨子のひとつである。

 

19cにフッサールの手によって創始された現象学はこの「世界の認識法」に対し、「絶対的な世界像(イデアの世界像)は存在しない」と切り捨てた。我々が見ている世界は「我々が認識できる」世界に過ぎない。例として出すのなら、道の中央に黄と黒の立入禁止ガードが置かれていたとする。それが「立入禁止」のマークだと分かる人には「立入禁止の道」としてその世界が認識されるが、それが「立入禁止」のマークだと知らない人には世界はそう認識されない。個々人の経験により、それぞれの世界の姿は変貌するのだ。

 

我々は個々人がそれぞれに「世界像」を有しており、他人とそれが完全に共有されることは無い。我々が生きていく上でそれほどの不都合が存在しないのは社会教育の成果と、単に自然科学的世界像の圧力が強いからに過ぎない、というのが現象学における「認識法」である。

 

つまり、我々が生きている「現実」とは、個々人がそれぞれに持っている「日常」という物語/世界であるというのが、現象学の結論なのだ。

 

個人の物語/世界はそれぞれが一つづつ持ち合わせている、とは限らない。精神病の一つに「二重見当識」というものがある。「私は本当は○○だが、何らかの理由で××に扮している」という妄想にとらわれる病だ。例えは、○○が都知事、××が実際の入院患者だとしよう。この疾患が軽度の場合、彼は自分が都知事であると認識しているが、自分が入院患者として病棟に存在するという日常の中でそれほど不都合なく生活する。二つの世界を肯定して生きることは可能なのだ。

 

また、個人がそれぞれ「日常」の中で多数の役割を演じているのもまた事実である。例として私を上げるのならば、「家族の一員」としての私、「学生」としての私、「友人」としての私、「竜牙兵」としての私……というように、人間は他と相対する時に、それぞれロール(役割)を演じるものなのだ。

 

もちろんヲタクは精神病患者ではない。しかし斎藤環は「人間はすべからず神経症である」というラカン派精神分析の立場から、多角的視点を備えた人間(すなわち、ヲタクとは)は比喩的に多数の物語/世界を有する「多重見当識」を持った人間であるとしている。この「日常」以外の物語/世界は以後、氏の著作より「想像世界」と呼ぶこととする。

 

この考察を肯定する事象として、ヲタクに特有の浮世離れした性質を例にあげることが出来る。一般にヲタクは流行に疎く、独自のファッションを有しているといわれる。もちろんこれはマス=メディアによる一種の物語として創造され、事実としてはそれほど「独自のファッション」を持ったヲタクの数は比率にすればたいしたことはない。が、ヲタクの出現地(例えば秋葉原)あたりに行けば、必ず見られる程度の比率ではある。外部からの認識に無頓着であるということは、その外部の世界(=日常)に固執していない証拠だ。それは内部認識が拡大していると考えるほうが妥当だろう。

 

また、ヲタクは離人症(生きている自分が実感できないという精神病の一種)の比率が高いとも言われている。これもヲタクの高度な演技性に起因しているのではないかと考えられる。

 

 

欲望と所有

 

全ての人間が神経症であるとするのがラカン派精神分析の立場であると前述した。神経症とは欲望への衝動のこと。いわゆるフェティシズムはその一形態、あるいは突出化した例だと言える。そしてその根源は最終的には性衝動と破壊衝動……Sex/Violenceに求めることになる。フロイト=ラカン派では幼児期に受けた何らかのトラウマが神経症の要因となり、人間の心は常にそれへと向くゴールの無い線路を引かれることとなる。そして神経症は自身の欲望を所有によって満たそうとする。その好例がフェティシズムである。

 

複数の物語/世界を有するヲタクの場合はどうであろうか? ヲタク概念一般で示したように、ヲタクそのものは実在物そのものに対する執着は少ない。ではヲタクは自身の欲望をいかに所有するのか? 一言でいうのなら、「ヲタクはありものの想像を自分だけの想像へとシフトする」ことによって欲望を所有するのである。以下、「新世紀エヴァンゲリオン(以下エヴァ)」を例に出して話を進めよう。

 

ご存知の通り、エヴァは放映中から人気が過熱しだし、最終回前後あたりから異様なブームとなった。が、TVシリーズ2526話が物語的に決着がつかないまま終了した。この結果に対し、コアなファンたちは監督の庵野秀明を激しく非難したのは記憶に新しい。しかしこれはほんの一部に過ぎず、むしろ少数派であった。では多くのヲタク達はどうしたのであろうか? 彼らはネット上でのSS、あるいは同人誌を作成することにより、「自分自身の結末」を創る事を選んだのである。ヲタク文化がその発生時期からパロディ同人誌と縁が深いのは何も偶然ではない。「ありものから自分だけの想像」へとシフトする最も効率的な手段がパロディ創作だったからである。

 

アニメ・マンガ・ゲームというヲタク御用達のサブカルチャー群は、まさにありものの世界を自分の「想像世界」へと定着させる、「物語るためのサーキット」として機能していると結論できる。

 

 

「想像世界」とリアリティ

 

以上のように、ヲタクは「日常」とその他の「想像世界」を多数、並立的に所有し、違和感無く同時に、あるいはシフトし続けながら生きている存在といえる。だが、「日常」の圧力は感覚器を通して「現実」を認識させ続けようとする。ヲタクのように強烈な内部世界を所有するには、感覚器に相当するような強力なリアリティが想像世界に必要なはずである。

 

ここで言う「リアリティ」とは「現実の」ではない。「現実っぽい」くらいが相当である。嘘ならば嘘のリアリティもまた存在する。「日常的なもの」が「リアリティ」とは限らない。むしろそれは「想像世界」の中ではあまりにも「現実的」過ぎて嘘っぽい=リアリティを欠く現象として捉えられかねない。

 

リアリティの根源、それは「人間が人間として最後まで手放せないもの」だろう。それは即ち欲動の根源、SexViolenceと結論付けられる。そしてこの二つを代表するイコンが「戦闘美少女」と「巨大ロボット」だと考えられる。

 

両者に欲望が向いている状態が「萌え」と「燃え」というように音が同じなのはおそらく偶然ではない。「萌え」は「燃え」から来ているという説もあるように、両者は想像世界にリアリティを与えるという点において限りなく近似な関係にあるのである。MS少女の存在や「トッップをねらえ!」の企画原案が「少女とロボット」なのはまさに正鵠を得ているといえよう。

 

「日常には絶対に存在しえない」故に「絶対的に日常ではない世界」である想像界の象徴。そしてそうでありながら両者の世界の根源となるSexviolenceを満たしている存在。それが「戦闘美少女」と「巨大ロボット」なのだろう。

 

「戦闘美少女」と「巨大ロボット」。この二つが日本のサブカルチャー創作物の典型である事は言うまでもないだろう。戦う事に対しトラウマを持たない「戦闘美少女」は、そのトラウマの無さ故に存在を拒絶される。「巨大ロボット」もまた同様に、その力の根拠の無意味さから存在を拒絶される。だからこそ欲動はそこへと向き、それは再生産され続けるのである。

 

そろそろ結論に達しよう。

 

「萌え」とは、「ある個人が想像的世界の保有のために想像的存在に欲望し、その所有をしようとする事」といえる。

 

 

 

 

C-2 予告

 

C-2では「戦闘美少女の精神分析」から一歩離れ、斎藤環があまりテーマとしていないゲームの中の想像世界美少女とその消費者たるゲーム世代=’90年代ヲタクについて論じる。「萌え」の本質に迫ったC-1に対し、一つパラダイムを上げヲタクの精神構造の推移を問うて行きたい。

 

 

>参考資料その他

 

本稿では主に斎藤環著「戦闘美少女の精神分析」と岡田斗司夫著「オタク学入門」を主参考資料として使用している。特に本稿は前者に対する一種の要約に近い側面を持っているため、「戦闘美少女」についての言及はこちらを参考にしていただきたい。「戦闘美少女」はターゲットとしているテーマに対し難解だという評判を耳にするが、それだけに読み応えのある作品だといえる。

 

また、本稿においてよく分からないことがあるのであれば、その点をメールにていただきたい。それを参考に次回以降に改訂版を出そうと考えている。



BACK NEXT