01.6.25 UP
Chapter 2 ゲーム世代と「萌え」
母集団としてのヲタク
C-1では主に「ヲタク」という主体がどういう存在でどのような機能を有しているのか、そしてそれが以下に「萌え」ているかを重点におき、描いてきた。C-2では現代におけるヲタクがどのような変化をし、存在しているか、あるいはし続けているのかを縦軸に、90年代ヲタクカルチャーの中心とも言えるゲーム文化との接点を見つめようと考えている。
ヲタクの変化を考える上でまず論考の対象となるのは集団としての「ヲタク」である。ヲタクはそのファッションや思考/嗜好、またかつて迫害されたという記憶からか、母集団に対する帰属意識が強いといわれている。ヲタクという集団は都市社会の中に数多く存在するトライブ(部族)のなかでも最も強固なもののひとつだろう。事実として80年代の初期から中期にかけ、「濃いヲタク」たちによる一種のコミュニティーが存在し、それは現代においてさえ残っている物がある。「新世紀エヴァンゲリオン」や、近作としては「フリクリ」などの製作スタジオである「GAINAX」はその生き残りといえる。
元々「ヲタク」という語はアニメファンたちがお互いを呼びあう二人称からつけられたという伝説から来ている。実際には83年にある雑誌の記事に活字として初めて載ったというが、「ヲタク」という語はそもそも「集団」と「同族」が存在する事を前提としている語だということが分かる。
問題は、我々が「ヲタク」と呼び、多くのヲタクたちが帰属意識を持つほどの「濃いヲタク」たちによるコミュニティーが現在も存在しているのかという点である。そしてそれは果たして母集団として機能しているのか?
答えをまず述べるのなら、それは是であると私は考える。確かに「濃いヲタクたちのコミュニティー」は存在するし、それは「普通のヲタク」たちの帰属意識の道標ないし錨として機能している。だが、それは90年代に入り急速にその意義を失いつつあるといえる。それは何より、「普通のヲタク」たちの変容によってである。
「密教ヲタク」と「顕教ヲタク」
私の考えるヲタクという集団のモデルは、その集団の中核であり道標となる「濃いヲタク(=ヲタクエリート)」とその周辺に分布する「普通のヲタク」による同心円状の構造をなしているというモデルである。この二者を分けることは難しいが、前者は「ヲタク」としてのアイデンティティをもち自称するのに対し、後者はむしろそう呼ばれることを嫌がると定義できる。ただヲタクが「濃度」によって明示されるのに象徴的なように、明確に分断するのは不可能だろう。
マンガ評論家の竹熊健太郎はWEB上のテキストの中で、前者を「密教ヲタク」、後者を「顕教ヲタク」と呼び、定義している。「密教」「顕教」は仏教用語で、前者は「裏表全ての仏の法」を、後者は「表向きの仏の法」を示した言葉である。ヲタクを濃度で測るように、純化される事により、薄いヲタクから濃いヲタクへと変化していくのだと竹熊氏は述べているのである。
(http://www.t3.rim.or.jp/~hazuma/project/ml-reviews/sento5.html)
90年代に入り、ヲタクはその質を大きく変転した。ヲタクは現在、日本のサブカルチャーの中央に位置するトライブであるといえるが、私の感覚では年々ヲタクが薄くなっていると思える。さらに前述文から引用すると、これは様々なカルチャーに付き物の「浸透と拡散」の結果であるとしている。この点、私も同感である。
「浸透と拡散」とはある純度の高い集団が周囲に伝播し集団が巨大化する過程で純集団が拡散し、濃度の低い大集団が形成される事を言う。90年代における文化発信者の大きな担い手がヲタクエリートたちであったというのが私の考えだが、であるが故にヲタクという集団は「浸透と拡散」を受け、かつて多くのヲタクたちが志向した「ヲタクエリートによるコミュニティー」は崩壊しつつあるというのが私の結論である。
言葉を持たぬヲタクたち
現在のヲタクトライブの大勢が「拡散と浸透」した「薄いヲタクたち」で形成されていると前節で述べた。その最も顕著なのは考察能力の低下である。
前章であげた岡田斗司夫の主張するヲタクの能力、「三つの目」。私はこれを十分条件であると述べたが、本質的にこれは「いかに何かを語るか」に必要なための能力であったといえる。ある作品をどのように解釈し、いかに語るか。岡田氏はヲタクの事を「ヲタクについて三時間以上語れる人間の事でもある」と揶揄しているが、これはまさに密教ヲタクについての説明であり、顕教ヲタクはむしろこの「語る」という側面を持たない存在である。
逆に「薄いヲタク」たちが90年代の後半に入り特に鋭敏に研ぎ澄まされてきている能力が「分析力」、特に「オートマチックな分析力」である。東浩紀は「デ・ジ・キャラット(以下「でじこ」)」を例にしてヲタクの文化要素の特徴はリミックスにあると述べている。
(http://www.t3.rim.or.jp/~hazuma/project/others/addiction.html)
「でじこ」は見ればわかるが、いわゆるヲタク受けしそうな諸要素によって形成された肖像である。それらの諸要素にはそれぞれの歴史があり、であるからこそ、それを兼ねた存在は「可愛い」と考えられる。つまり「でじこ」はそれらの背景(アート的にいうなら「文脈」)あっての存在であり、それを無視して「可愛い」と判断する事は不可能なはずである。人間には大きすぎる丸い眼も、不可思議に低い頭身も「文脈」があるからこそ判断ができるのである。
「濃いヲタク」たちはそこに「文脈」を見出す事により、つまり「三つの目」を使う事によって「でじこ」を判断する。だが、「薄いヲタク」たちはそれを見ただけで美醜(で無ければイケてるか、イケてないか)を判断する。そこには判断基準の明文化が存在していないのである。
この「ヲタクとしての能力の無自覚性」こそが90年代型ヲタクの大きな特徴といえるだろう。
戦闘美少女の「属性化」
90年代の戦闘美少女の特徴は、個々がそれぞれに欲望される対象として個別化(=属性化)していった事だといえる。「属性」という言葉をご存知だろうか? これはヲタクたちの欲望対象である戦闘美少女のタイプ分けとして使用される言葉である。例えば「眼鏡っ子」「ロリ」「年上(先輩)」「妹」「幼馴染」などがこれに当たる。またコスチュームである「メイド」「巫女」等もこれに加える事ができるだろう。
これらの先鞭として登場したのはおそらく高橋留美子作の「うる星やつら」である。この作品に登場する美少女(美女)たちはそれぞれが様々なパターンの美少女として設定されており、現在の「属性」の原型ではないかと考えられる。
斎藤環はマンガ・アニメのキャラクターはそれ自体がコードであり、またマンガ・アニメはその出来がよければよいほど多重人格的な空間を作品に映し出すと述べている。すなわち、「複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされ単一の客観的な世界の中で展開」するというのだ。つまり、個々のキャラクターは作者/世界の一側面、あるいは代弁として機能し、キャラクター全てで一つの世界(=作者)を構築しているというのだ。
これは90年前後からむしろ意識的に行われていったと思われる。なぜならば、このスタイルはチームプレイを重点として描こうとするマンガに非常に有効であったからである。これらの成功例としては麻宮騎亜作「サイレントメビウス」などが挙げられるだろう。そしてこのスタイルを決定的なものとしてのが「美少女戦士セーラームーン」であったと考えられる。
セーラームーンは、実はそのパーティ(集団)としてのスタイルはむしろ東映戦隊モノなどの借り物であり、完成度自体は低かったと考えられる。しかしそれを補ってなお余りある成果をあげる。それが個々のキャラクターの「属性化」である。
現在の視点から見れば、キャラクターをすぐに属性として分けられるほどに「属性化」が進歩しているわけではないのだが、これは大きな進歩であったと考えられる。(ちなみに後期登場の主要な二人の登場人物、「チビうさ」と「土萌ほたる」は既にそれぞれ「ロリ」「引っ込み思案」という属性に分けられる。放送期間中に「属性」が急激な進化を遂げている証拠だろう)
属性の登場は「いかに欲望するか」を内包するサブカルチャーに大きな衝撃を与える事となる。個々の人間は基本的に自分が持つトラウマと欲望対象が対称の関係にある。人間の一部分を特化して存在する「属性少女」はトラウマの保有に自覚的なヲタクたちにとって「欲望しやすい」存在だからである。個々の欲望が個別化していった一例がここにある。
ゲームのメディア特性と欲望の簡略化
他方で90年代に急激に成長したヲタクメディアにゲーム(コンピューターゲーム)を挙げる事ができる。60年代に誕生し、80年代にファミリーコンピューター(FC)によって膨張したゲームメディアは言うまでも無く新しく若いメディア/産業であり、日本においてはその黎明期からヲタクの中軸となるメディア(マンガ/アニメ)との繋がりが緊密であった。
インベーダーゲームに代表される初期のゲームは主にアーケードやゲーム喫茶などに設置された1コインタイプである。そのため一回のゲーム時間が容易に設定できるアクションやシューティング、あるいはパズルタイプのゲームが主流であった。その後FCの普及、そして「ポートピア殺人事件」「ドラゴンクエスト」の登場により、ゲームの主流は思考型へと移行していく。
本稿における論考対象はこの「思考型」、つまりロールプレイングゲーム(RPG)やアドベンチャー、あるいはシミュレーションゲームである。だがその前にゲーム全体を特徴づける、このメディアのエンターテイメントとしての特性を述べておこう。それは「没入型/同一型」のメディアであるということだ。
ゲームはおよそどんな種類の物でも必ずプレイヤーの代用として機能するカーソルを必要とする。それは「スーパーマリオ」におけるマリオでも、「ゼビウス」における自機でも、そして「ドラゴンクエスト」における勇者であっても本質的には「プレイヤーの代用」という機能に変わりはない。
ゲームとは、一定のゲーム空間の中で自分を仮託したカーソルを動かして反応を得る遊びであると定義できる。それはつまりプレイヤーはそのカーソルに同一し、ゲーム世界に自らを没入させる行為であるといえる。そしてその特性はRPGにおいて真に真価を発揮する類のモノであった。
RPGとはRole Playing Game、すなわち「役割を演じる遊び」の事である。知っている人にはいまさらだが、本来のRPGとは5、6人の人間が一つの卓に集まり、それぞれが一人のキャラクター(Role、ファンタジーならば戦士や魔法使いといった一つの職業)を演じ、ゲームマスターと呼ばれる物語の語り部と言葉を交わしながら、一定のルールの中で冒険をするという娯楽である。その一人用として開発されたのが「ウィザードリィ」であり、その直系の子孫が「ドラゴンクエスト」なのだ。
コンピューターRPGはその後、「ファイナルファンタジーU」の成功により、「ロールを演じる」事から「キャラクターを演じる」事へと重点をシフトしていく。だが本質的な「演じる」そして「没入/同化」させるという娯楽の本質は変わっていない。むしろ「ゲーム世界内により没入させ易い同化対象としての主人公」の開発に多くの労力を注ぐ事となる。「喋らない主人公」「記憶喪失の主人公」「現代世界から異世界へシフトした主人公」などはその代表例である。
多角的視点/多重見当識を保有したヲタクにとって「自分を分化」する事はけして難しい事ではない。RPGは、そしてその影響を大きく受ける事となったシミュレーション/アドベンチャーはヲタクにとって非常に適合性の高いメディアであると結論できる。
ギャルゲー概要
「属性少女」と「ゲーム性による同一化」、これが90年代における欲望構造の基本形である。この二つの特性を基本構造としたゲームジャンルが「ギャルゲー」であり、これこそが90年代におけるヲタク欲望の最先端であると私は考える。
「ギャルゲー」を定義づけるのは難しい。かつて私は他のテキストでギャルゲーを「主体から見て異性、あるいはそれと同等と思われる存在と交遊関係を持つ事を第一義の手段・目的としているゲーム」と定義づけた。本質的に今回のテキストにおいても「ギャルゲー」の定義は変わっていない。「主体から見て異性、あるいはそれと同等と思われる存在」が主体(つまりPC、そしてプレイヤー)にとって「欲望が向いた存在」であるためである。
現在、主流として流通しているギャルゲーの主要要因としては「PCが男性である事」「複数の(大体4〜8人ほどの)属性少女がいる事」「マルチシナリオで、一つのエンディングと属性少女がペアである事」などが挙げられるだろう。無論これは主要要因であり、これに反する事柄も多いし、メジャーな作品でこれに反する物もある(例:菅乃ゆきひろ作品群など)。
ギャルゲーの祖をPC18禁のゲーム「同級生」と見るか、あるいはコンシューマーを重視し「ときめきメモリアル」と見るかは様々な異論があるところだが、このジャンルがADVから派生した、いわゆる恋愛シミュレーションを基礎とし90年代初期に成立した事は間違いない。その後その系統樹は様々な派生形を生みつつ、現在ではいわゆる「ビジュアルノベル」が主流となりつつある。これは「ビジュアルノベル」が「物語るためのサーキット」として非常に優れているからである。
ゲームとしての諸要素はときにプレイヤーとPCとの間に「日常」と「架空」の垣根として見えてしまうことがある。入力機関を徹底して排除している「ビジュアルノベル」はその不自由さゆえに、ゲームのシステム面をプレイヤーに見せない事に成功しているのである。
「ずっと一緒に」……属性少女への欲望
属性少女の特徴は第一に、もちろん「画一的」であることが挙げられる。これは人間の一側面をデフォルメ課することによって個性を獲得している属性少女にとっては避けられない特徴である。
そしてもう一つの特徴は、「依存性の高さ」である。「依存」、では誰に依存しているのか? それは言うまでもなくPCに対してである。ギャルゲーシナリオの中盤から終盤にかけての属性少女とPCの関係は、もはや共依存関係に近いのではないかとさえ言える。
「共依存」とは互いに依存関係にある両者の依存度合が著しく偏っている状態の事を指す。よく具体例として出されるものに「ダメ夫とそれを支えるかいがいしい妻」の関係が挙げられる。ギャンブルや酒に金を注ぎ込むダメ夫は無論その妻に依存している。しかしその妻もまた「夫が頼っている」と言う事に対して依存しているのである。ギャルゲーシナリオにおける依存関係はそれよりは恋愛の依存関係を模しているとはいえ、依存という行為に対する重要性が高い。そして特徴的なのは「属性少女がPCを頼る」という構図である。こらの原因には二つの要因があると考えられる。
第一点は、「PCが庇護能力を有する点から発する優越感」である。前述のように、PCはプレイヤーにとって同一視しやすい存在として設定されている。ヴィジュアルノベルの特徴はこのPCに確かな個性が与えられている点である。これは客観しさせないために、ほぼ必ず一人称のテキストになるからだが、その結果として「主人公的性格」とでも呼ぶようなアーキタイプが抽出できるようになった。これ自体がひとつの「属性」と呼べるようなものなのだが、一言で言うと「能力があるが、やる気が無い」という属性である。言うまでも無く、これは「理想化されたプレイヤー像」である。一人称ゆえに世界を語る客観性も有する「主人公属性」は「地に降りた神」のように絶対的な優越権を持っている。
対して属性少女にほぼ共通して現れる特徴は「幼い」という点である。これは容姿のみでなく、性格にも現れている。年齢的に判断するならば「先輩(時には姉)」という確かな属性があるものの、むしろ彼女らこそ性格的に幼く設定されている事が多い。ギャルゲーの祖といえる「同級生」には「おねぇ様」という属性少女が(大量に)居たにもかかわらず、現在このタイプの属性少女ギャルゲー内で見かけることは困難である。ここでいう「おねぇ様」という属性は大人の女性、峰不二子のような類型だと理解していただきたい。(なお、現在においてはギャルゲーよりも格ゲーにおいてこの属性を見ることができる)
以上のように、PCと属性少女の関係はシナリオ如何によらず、その立場から同じような状況におかれていると考えられる。(ただし、属性少女の幼さについては「依存するため」ではなく、戦闘美少女であるが故であるとも考えられるが)
第二点は第一点と重複するところもあるが、「永遠性の円環を描くため」である。共依存の最大の問題は、両者が依存関係にあるが故に、他者の介在無しではその関係を破る事が不可能な点にある。しかしギャルゲーは逆に両者が依存関係にある状況を理想的な関係として提出する。「両者が別でありながら分離しえない状況」、それは確かに理想的な「恋愛」関係であるといえる。
自らの理想化された欲望対象物であり、顕在化されたトラウマ、あるいはコンプレックスである「属性少女」。それはプレイヤーにとって鏡のような存在である。自らが選んだ属性少女はトラウマであるが故に、自分の見えない内部であり、常に外部である。「想像世界」内においてそれと結合するのは、いわば不分離不安の象徴でもあり、そして精神的な自慰行為そのものだ。
ヲタクの欲望は変わらない。ただそのツールが変化しているだけなのだ。そしてそれはヲタクの形そのものを変えるほどの影響力を有する物でもある。
90年代ヲタクの姿
どちらが鶏でどちらが卵であるかは分からない。「属性少女」と「無自覚性ヲタク能力」はペアの関係にあり、それが両者を深化しつづけているのだろう。
本来、ヲタク的な欲望はある程度の能力を必要とする行為であった。そこには確実に、絶対的に架空存在への欲望(戦闘美少女への欲望)がし易い人間とし難い人間がいた。だが当初より欲望対象として存在する「属性少女」はそういった虚構コンテクストと親和性が低い人間をも被欲望対象とする。それにヲタクの「拡散と浸透」が拍車をかける…。
「萌え」はすでにヲタクの占有物ではなくなりつつあるのである。
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