01/09/25


やおい考




序論・「ヲタク」としての「やおい少女」


サイト開設後、このテキストがまっさらな状態で選んだ最初のコンテンツとなる。いわばこの章の方向付けを行うという意味合いもあり、出来る限り今まで自分が興味対象としているモノの中で「近似であり、遠くにあるもの」として選んだのが今回の主題、「やおい」である。


やおいは奇妙な印象を受ける現象であり、それが故に興味深い対象である。何故、やおいは男性同士の関係を描くのか? 何故、それを好むのが女性のみなのか? 何故、受けと攻めという行為関係をとるのか? 何故、それは「ヲタク」という集団の中から発生したのか?


私はこのテキストにおいて、「やおい少女(あるいは腐女子)」を「ヲタク」というトライブ(部族)の構成要素の一部として認識した上で、「やおい」という現象がどのような構造を持って機能しているかを探っていきたいと考えている(この場合の「構造」とは「構造主義」の「構造」と同意)。そのため、多くの拡散現象による雑多なジャンルを内包する「やおい」全体の相互矛盾にとらわれることなく、その深部に存在すると考えられる欲望構造に注目していきたい。(注1)


このテキストを書くに当たり、多くの人の助言と忠告の中で書かれたことに感謝したい。


なお、本稿において敬称略とさせていただくことを先に明記しておく。




ヲタクとしての腐女子・やおいと萌えの比較考


まず最初に述べておきたいことだが、「やおい」を好む人(やおう人)のことを俗に「やおい少女」あるいは「腐女子」と呼ぶ。「腐女子」は多少の蔑称としての側面もあるといわれているようだが、「萌え考1」で述べたようにヲタクは基本的に自虐傾向にあり、それこそが「ヲタクらしさ」であると私は考えている。私がこの「腐女子」をいう用語を「やおう人」を意味する語として用いるのは蔑視としてではなく、むしろ「濃いヲタク」に対する尊意を持ってのことであると考えていただきたい。


また、私がここで論考の対象とする「やおい作品」を定義すると、「1 男性間のポルノグラフィー(およびその要素をもつ)作品であること」、「2 描かれたものであること」、「3 受容者が(基本的に)女性であること」、「4 受け/攻めの関係性を描いていること」を満たしている作品とする。


「ポルノグラフィー」という言葉についてだが、この語は当然、「性的嗜好物」のことを指す。ここではその意味を広義でとり、文字通りの「性的嗜好物」と「性的関係性を描く事を主眼とした作品」のことを示す。つまり、いわゆる「ほのぼのカップリング(セックスシーンを伴わないやおい)」といわれるものも含むと考える


また、前述の通り、やおいのジャンルは非常に多岐にわたる。ここでは上記の要素を満たす作品全てを論考対象とする。狭義の「やおい(パロディによる男性間の関係性を描いた作品)」のほか、いわゆるJUNE、ボーイズラブも含むと考える。


さて、では本題に入ろう。先に述べたように、私はやおいをヲタクの構成要素の一部であると考えている。それは逆に言えば、やおい少女はヲタクとしての心性を持っているということでもある。第一考で私は「ヲタクとは、自身の欲望を所有するために多数の世界(あるいは物語)を自身の内部に成立させ、それを瞬時に使い分ける多角的な視点を持つ人の事である」と述べた。これは大枠としてやおい少女にもまた当てはまることであろう。「萌え」も「やおい」も本質において「ヲタク」という能力を有しており、その差異は向いている欲望にあるといえる。男性における欲望形態の先端である「萌え」と「やおい」を比較してその差異を見るのは、「やおい」の特質を抽出する一つの手段となるだろう。


両者が「想像世界」を展開させるときに生じる差異として特徴的なのは、欲望対象の「単位」である。「萌え」の場合、欲望対象(戦闘美少女、あるいは属性少女)は「個対象」として「世界(物語)」の中心に位置する。もちろん、欲望主体(欲望している当人、萌えているヲタク)が仮託するための存在(いわゆる主人公、PC)もあるのだが、それはむしろ欲望主体の主観として機能するため、当然主観視点の中には存在しない。


対して「やおい」の場合はどうか? これは散々に言われているように、やおいはほぼ常に「対対象(攻め・受け)」として「世界」の中心に位置している。このカップルは常に分離することなく、また欲望主体の主観からどちらかが外れることも無い。すなわち、やおい少女はこのカップルのどちらかあるいは両方に主観を仮託しつつ、その関係あるいは関係性に欲望していると考えられる。


「萌え」においても欲望主体が欲望対象に対して同一化しないとは言い切れないが、「やおい」はよりフレキシブルに主観を移動しているのではないかと推測される。(注2)


攻め/受け関係を内部に有するがため、ポルノグラフィーとして機能しているやおい創作物を受容する以上、やおい少女たちの心性は性的にある程度の熟成をした者の行動である。よって、やおいは他のヲタクと同様、思春期以上の倒錯であると規定できる。




24年組から


やおいの構造的欲望形態を考える上で重要となるのは、そのジャンルの創始者たちの考えであると私は考える。彼女らが何を考え、なにを求めたかを見た上で、どのようにジャンルが形成されていったかを見ていきたい。


後に述べるように、やおいの欲望形態(男性同士のセックス)を志向する大きな理由の一つはやおい少女の心性に内包する性不一致である。社会的性、心的性、そして身体的性の不一致がこの欲望形態を選んでいると考えられる。


この性の倒錯性を最初にまんがに取り込んだのは手塚治虫の「リボンの騎士」である。「リボンの騎士」はそれ以前から流れる少女まんがの流れの中で、常に伏流水としてその流れの中に流れつづけるものの、手塚自身がある意味、健全な性的感覚の持ち主であったためか主流とならずにそのままになっている。だが、戦後まんがの創世期においてすでに性の不一致をテーマとする作品が提出されていたことは非常に興味深い。


やおいの直接の祖先となるのはおそらく竹宮恵子の「風と樹の詩」(76年)だろう。この作品は少年寄宿舎を舞台とした物語だが、その作品のモチーフとして男性同性愛を選んでいる。主人公とヒロイン役(と言って良いだろう)の少年との間には「攻め・受け」の関係性を見ることができ、やおい作品の原型とみなしてよいだろう。私はこの作品が描かれた時代背景と作者の背後関係を注目したい。


竹宮恵子はいわゆる「24年組」の一人である。24年組とは70年代に活躍した少女まんが家達の一つのグループを指す言葉であり、代表作家としては左記の竹宮恵子、萩尾望都、大島弓子などがあげられる。彼女らの特徴は「まんが」という記号によって物語を語る表現媒体において、架空の身体性(まんがのキャラクター)に「内面」を語らせるという新たなまんが表現を築き上げたことである。これらについては大塚英志の「教養としての<まんが・アニメ>」に詳しい。(注3)


この大きなムーブメントの中で主軸となるテーマとして選ばれたのが作者自身の「女性性」の受容の問題である。少女まんがとは「少女となり、少女を超える」ための物語である。少女を超えた者は、すなわち女となる。だが、24年組達にとって、それ以前の少女まんがが用意した「女」の形は自分達がそのまま受容できるものではなかったのである。


「少女」とは思春期の女性を指す言葉である。それは社会的には未成熟の段階を示す言葉であり、故に少女とは過渡期を指す。戦前より連なる「少女まんが」とは過渡期である少女に読まれるものとして、「少女→女」となる道筋を描いた作品であった。


だが、そこで描かれる結末としての「女」には、それ自体としての意味は存在しなかった。60年代に描かれた少女まんが雑誌に多くの男性作家が参加しているのに象徴的なように、そこで描かれる「女」とは社会的に制度化された男女関係(社会的性)の中で規定される「女」である。明治政府の方針として成立して以来日本社会に根強く残るイエ制度の中で、「女」とは常に「何者かの何か(妻、あるいは母)」といった個人ではなく役割としてしか求められないものとして期待されつづけてきたのである。


先に挙げた大塚は、60年代に入りその体質を打破しようと興ったフェニミズム、そして内面を語る手記ブームの延長線上にあるのが24年組の少女まんがであったとしている。


24年組達はこの圧倒的な社会抑圧に対し自己の内面(心的性)と女性としての身体(身体的性)を描くことで抵抗しようとした。なぜならこの内面と身体こそが制度化されていない自分自身であるからである。だが同時に、それは自己の女性性と直面することでもある。故に、彼女らにとって自己の女性性をどう受容するかは重要な課題として登場することとなった。「風と樹の詩」はそういった作品の一つとして、「女性性が身体として存在しない女性性」を描いた物語であったと規定できる。




恋愛まんがから


他方、24年組の登場と前後して、少女まんがはそれ以前の古典的物語から恋愛を主要モチーフとした現在の形へと移行していった。イエ制度の支配下において、恋愛とは未婚の成熟男女の間にのみ許された行為であった。それは未成熟の(つまり少女や少年)が行ったとしても、成熟への過程としてのみ許された行為であったのである。未成熟の男女には資格が無く、既婚の男女には道徳的に許されない。


だが70年代に入り、恋愛は(正確には愛の獲得だろうか)それそのものが目的として存在するようになってくる。少女まんがは愛の獲得を目的とする、恋愛というパワーゲームの物語へと変化していったのである。そしてこれこそが「少女→女」への道筋であると示された。


だが、先に示したように女とは役割を指すのである。愛を獲得した少女は女となり、「誰かの妻」「誰かの母」となってしまう。その役割を拒否するための方法として提出されたのが「やおい」と言う形式だったのではないだろうか?


やおいの主役とは「愛を獲得した少女」である。愛を獲得し、幸福の絶頂にある少女、愛をまだ獲得していない未成熟な状態でもなく、それを過ぎ、何者かに成ってしまった後でもない「そのまま」でいる可能性。それを想像世界に封入したのがやおいという世界観ではないかと考えられる。


そう、だからこそ、やおいの受容者は「やおい少女」と呼ばれるのである。




男性性の使用と主観の位置


以上のように、「やおい」とは女性の社会におけるジェンダーとしての女性性に対する違和表明という側面を持っていると考えられる。だが、この点のみでは「男性同性愛」をモチーフとし、「攻め受け」構造をもっているというやおいの本質的な構造の説明にはなっていない。さらに言うなら、ジェンダー(社会的性)の違和表明であるにもかかわらず、「攻め受け」構造は確実に男女の性的関係の位相をずらしたものであると言える。他方でホモ=セクシュアルを、もう他方でヘテロ=セクシュアルを志向しているやおいとはなんなのだろうか?


やおいの「世界」の特徴の一つに「それ以外の愛の形が内部において提示されない」というものがある。これは24年組からJUNE、そして現在のパロディやおいへと変化していく過程において他の愛の形が殺ぎ落とされていった結果なのだが、やおいの想像世界の中において基本的に男女の恋愛を含む様々な愛の形が存在せず、愛の交換の方法として常に攻め受け構造を内部に含む男性間愛の形をとっている。


やおいがジャンルとして成熟していく中で特徴的だったのは、そのジャンルを作り上げてきた作家の多くがアニパロと呼ばれる二次創作を得意としていたことである。このアニパロのメジャーとなるジャンルの変遷を眺めていくとわかる事だが、パロディーの対象として選ばれる作品には一つの特徴がある。それは「男性(少年)によって構成された社会」を主軸として動いている作品が大多数を占めているという現実である。


アニパロやおいの伝統から言うと、大抵キャプつばか車田正美作品から始まり、トルーパーかマダラ、サイバーフォーミュラ、幽遊、スラムダンク、GW、エヴァと連なっている事が多い。このうち上記の項目に当てはまらないのはエヴァくらいである。


「少年しか存在しないやおう社会」、それはすなわち主観を保持するやおい少女たちが内部に存在しない、「自分が排除された場所」である。しかし一方で攻め・受けの関係性を内部に持つこの「少年しか存在しないやおう社会」はむしろ少女漫画、特に上記の恋愛まんがのパロディであると考えられる。なぜなら、この攻め・受けという関係性をそのまま男・女という関係に位相をずらしても物語自体が機能するからである。例えば、現実(日常)の社会(例えば、この2001年の日本)において「男性間のホモセクシュアルな恋愛」はマイノリティーとして社会に認知されている。だが、やおい関係にあるカップルはそのような束縛を受ける事がまずない。それはもちろん「やおい」がやおい少女たちによる想像世界の産物であるから、という説明も可能だろう。だがむしろ、やおいとホモセクシュアルが本質的に異質なものであると説明した方が理にかなっているはずだ。


私は「やおい」という欲望形態の特徴は、この「関係の内部に形式的には欲望主体が存在しない」ことにあるのではないかと考える。上記において、私は「24年組は心的性を描くことで社会的性に抵抗しようとした」と書いた。だが、これは非常に困難なことだ。なぜなら、心的性を成長させるのは当人と社会との間に育まれる関係性であり、社会のシステムの中に社会的性が組み込まれているからである。これらを分離させる特殊なフィルターが「欲望主体が存在しない」欲望形態ではないだろうか。すなわち、男性性の使用とは、「自分が存在しない」という一種のエクスキューズではないかと考えられる。


この欲望形態を可能とする特殊な視点はヲタクが保有する特徴の一つ、「醒めながら熱狂する」で説明できるだろう。醒めながらの熱狂ははまった対象を三人称的に語ることができるという語り口を主体に付与する。さらにこれは「多角的視点」の獲得をも意味し、結果、攻め・受け・三人称というやおいを欲望する主観を多数持っていることへの説明にもなると考える。(注4)




とりあえずの結:タナトスの花


まずは以上をもって、最初のやおい考を締める事とする。


やおいを欲望する、やおうひと。そのことを「やおい少女」と呼ぶと最初に書いた。やおいとは、すなわちそのやおうひとを永遠に少女のままに置く欲望の形態の事を指すのだと、私は結論する。それは本質的には男性(萌え)ヲタクの欲望の向き方と変わりはない。男性ヲタクもまた、永遠の思春期に自らを置こうとする欲望の主体だからだ。多少、前者の方が倒錯の形が後を追うのに困難になっているとは思うが、それは私がやおい少女ではないからかもしれない。その程度の違いでしかないのではないかと思う。


「日常」を重視する者はこの欲望を時に逃避だと非難する。何故なら、それは生まず、増えず、前に進まないからだ、と。だが、その事にこそ、意味があるのだろうか。個々の欲望を否定する事は私はできない。それが私の欲望を否定しなければ、だが。


だから私はその手に届かない欲望の形を外から眺め、観察しようと思う。そのタナトスの花たちを。






注1:「構造」とはある主体の内部に在るとされる、その主体を動かすためのメカニズムの事である。それはその主体の認知可能・不可能を問わない。例えば、人間にとっての身体メカニズム。人間は心臓や血液を自覚して動かしていないように、本質的にこのメカニズムは認知の不可能性を秘めている。心に対する精神分析が提唱した考え方の一つ。


注2:萌えとは構造化された精神的自慰行為であり、欲望対象は欲望主体のトラウマあるいはコンプレックスの顕在化である。すなわち、欲望対象は主体の一部であるわけだから、主体が想像している以上に対象に対して同一化をしているのではないかと考えられる。問題はそれが意識されているかだが…。


注3:大塚英志・ササキバラ・ゴウ「教養としての<まんが・アニメ>」(講談社教養新書)より、3 萩尾望都(P59〜83)


注4:拙著・萌え考1、ヲタク概念一般より
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