ゼノギアス考察総論T
知の集成として ゼノギアスが「もたらしたもの」とは何だろうか?
これはゼノギアスとは何だったのか、という事とはパラダイムが異なる。
このゲームがゲーム史に残したものという外部的な意味でも、先のテキストに
書いたようなゲーム内での事物とも違う。ゼノギアスという物が個人に対して
残した影響、あるいは遺産とも呼べるものの事である。
骨子テーマ論で引き合いに出したゲーム論者の沢月耀さんは、自身のHPに
設けたゼノギアスの論著の中でこれを「面白く作られた教科書」であると主張
した。ゼノギアスのテーマの多くは皆が本質的に、あるいは知識として知って
いる事が大多数である。それを面白く、分かりやすく描いたゼノギアスはすな
わち理解しやすい、面白く出来た教科書ではないのかとしたのである。
私自身は沢月氏の意見に賛成である。
ゼノギアスのテーマが本質的であったからこその副次的な効果であると思うが、
沢月氏の主張にはそれを理解させるだけの力がある。
と、同時に私は一つの事を主張したい。
ゼノギアスにはもう一つ、「教科書」としての側面がある、と。
ゼノギアスのもう一つの「教科書」としての側面とは?
それは知識への誘いの道という顔である。 考察系の血をお持ちの方なら
知っていると思うが、ゼノギアスの用語と構成のほとんどにはその原典と
思われるものが存在する。
私が確認しただけでその範囲は物理学・生物学・生化学・化学といった理系
学問、心理学・宗教学・民俗学と言った文系学問、密宗教・錬金術等に元を
たどれる神秘学系統、英・日本文学、複数の語学、様々なSF作品、映画・
アニメなどに影響されたとおぼしきサブカルチャー群……数え上げればきりが
無いほどである。
それらは複雑に絡み合い、時には一つの単語を複数の視点から取り組む事に
よりよりいっそう深みをもつ設定を作り出す。もしそれに一つでも引っかかって
しまったのなら、それに対する知識欲を駆り立てられるのが人と言うものだと
思う。ゼノギアスの特徴に比較的気楽に設定マニアの気分を味あわせてくれる
と言うのがあると考えられるが、なかなか引っ込みがつかないものなのだ。
「教科書」というのはある一つの分野を語るための「知の体系」である。しかし
同時に教科書はその学問を勉強する上で様々な参考書を必要とするものな
のだ。ゼノギアス本編と様々な原典はその関係にあるといえる。
とはいえ通常、本の目録などを読んだとしてもなかなか読もうという気にはなら
ないものである。それは「興味があるから」こそ読む気にもなろうと言うものである。
「面白い教科書」だから参考書を読むのだ。
実際のところ私の経験で言えば、恐らく私はこの作品に出会わなければ
ジャック=ラカンの関係資料などに手を伸ばす事は無かっただろう。幸いにも
私はこの作品に出会ったことによりラカンを読む機会を得て、新しい知識を手に
入れる事が出来た。
ゼノギアスとは「知のガイド」「知のリンク集」なのだ。
製作者たちにその意図があったかどうかは定かではないが、彼らが
趣味たっぷりに作ってしまった以上、その側面は否めまい。
それにはまってしまった私もまた、悲しいかな考察系なのだ。
ゼノギアス考察総論U
家族の肖像
私は前論においてゼノギアスの骨子テーマは「ヒトの独り立ち」の物語であると
言った。
「独り立ち」のためには、その母体となるものが不可欠である。 エピソード2〜5に
おいてその母体となっているのは「デウス」という強大な神であり、その代弁者に
して本質たる「ミァン」と言う地母神、母である。
その一方で、エピソード5において顕著なのが「家族」という単位の出現である。
ゼノギアスの物語の中核を占めるキャラクターたちには一つの特徴がある。特に
PCと呼ばれる、プレイヤーが操るキャラクターの全てが確固とした家族背景を
有している点である。更に既婚者であるシタン=ウヅキを除き、両親の背景が
明かされているというコンピューターRPGにおいては珍しく、注目に値する(注1)。
この両親が存在するという事実は物語において重要な事項である。何故ならその
両親達の思考には一つの共通項が存在するからである。それはあたかも親たちの
「責務」であるかのように、彼等の行動を規定する。
「母親は子を護り、父親は子を導く」
このある種アナログな家族観がゼノギアスの親子を貫く絆となっている。
そして哀しい事に、多くの場合両親がこのために払う代償は自らの命なのだ。
だが、それはいたし方の無い事なのかもしれない。
家族とは弱い子を守る庭である。
と、同時に子を囲う檻でもあるのだ。それから、親の庇護という優しい檻から
抜け出さなければ子はヒトから人へとなる事が出来ない。
ゼノギアスの根本構成の中にあるのはいびつな家族の姿である。存在しない
父親、子供を産み再び還元する母親、片親からのみ生まれる子供…。そこに
あるのは本来有るべき愛のある家族の姿ではない。
ゼノギアスのPCが属する家族もまた全て崩壊した家庭である。「仕事にかまけ
家族を省みない父親、子の面倒を見ない母親」、ある程度の社会風刺も含んで
いるだろうか…。
ゼノギアスの親たちが演じる姿は、しかし家族は崩壊してもせめて「親」であろうと
する人の姿である。だから皆、「責務」を果たそうと散っていく。だが私には彼等の
行動がただの自己犠牲には写らない。
親が子を守るのは、そして子を導くのは種の命をつないで確実に次代へとわたす、
連綿と流れる生命のサイクルを回し続けるという種のレゾンデートルに則った行為
である。ただ他を生かすために命を絶つのではないのだ。
そして子は家族という檻から巣立つ事により、一人の独立した「個人」となる。それは
新たな、自分が主催する「家族」を作る準備が整った証明でもある。
「子は親の背を見て育つ」という。
脆くても強い魂を持つ彼等の姿は、彼等の親たちの姿を見てきたからではない
だろうか?そんな彼等が私は、少し羨ましい。
(注1) 例外項:バルトの母親については特に記述無し。マリアの母親については
本編中には無く、PWにおいて記述有り。
補記
この親の子に対する行為行動は東北アジア人に特に顕著な行動であるという。
知識不足のため、ここでは西欧系人の例をあげるが、一般に彼等の場合、
「母親は諭すもの、父親は乗り越えられるもの」と考えられるらしい(父親の
行動が主体的ではないわけだ)。
ゼノギアスが日本で作られた、というのは宗教的文化タブーが存在しない事や
雑多な文化・知識が容易に手に入ると言う地位的特質だけでなく、こういった
根本的な文化背景もあるのかもしれない。