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私は、静かにたゆとう。 この、閉ざされし空間に。 この、望まぬ檻の中に。 有限の闇。 有限の光。 その中に存在する、私という形。 自分にとって、もっとも縁遠いはずの存在たち。 私の周りを取り囲むモノたち。 そう、私の周り。 存在しないはずの、「私の周り」。 不自由な精神、不自由な肉体。 闇が水となり、場を乱す。 誰かの思念が、彼を揺り動かす。 誰かが、私に何かを望む。 私の肉体が、それに答える。 私の存在意義<レゾンデートル>。 私がこの場にいる理由。 私が望まぬ行為。 故に、私は想う。 故に、私は願う。 檻の中、永い劫<とき>に身を置きながら。 闇そのものが、場を乱す。 彼の思念が、場を乱す。 時。 私が感じるはずも無い感覚。 それを感じる私。 それは囚われた証拠。 この肉体という檻にいる証明。 故に、私は想う。 故に、私は願う。 この、牢獄の中に居て。 大きな波動が彼の元に届く。 何者かが彼の「肉体」に侵入したのだ。 侵入者は自らの姿を失わない。 自らの精神を纏ったまま、 彼の前に現れる。 …現れた。 私の願いを叶える者。 私の望みに応える者。 私の失われた欠片の一つ。 望んだ通りの、強靭な精神。 私に姿を与えた者。 私に劫を与えた者。 呼びかけよう。 彼に。 彼は彼に呼びかける。 彼の名を呼び、覚醒を促す。 「…誰だ、俺に話かけるのは…」 「私は」 「私はゾハルに宿るもの」 「最先にして最後のもの」 「始めにして終わりのもの」 「私は…」 「波動存在」 |
ゼノギアス考察 設定編T 「波動存在」 「波動存在」はゼノギアス世界におけるSF的な設定ギミックの中で、もっとも特徴的で面白い存在である。登場シーンやそこで語られる内容等、ゼノギアスの根幹に関わる情報がそこで語られた。一方で「波動存在」自体に対する説明は本編内でしか行われず、PWでもほとんどこれに対する解説は無い。 今回は無謀にも、その解説を行いたいと思う。 なお、このテキスト内では特に理系部門の用語を多用することとなるが、残念ながら私は文系でこの手のことに詳しくない。もしお読みになった方で用法の違いに気付かれた方がいたら、私に密かに連絡してほしい。 >「波動存在」の基本的事項 まず、本編内で分かる事柄を整理してみよう。 「波動存在」はそもそも高次元の存在、この世界には存在するはずの無い存在である。彼は太古の昔、事象変異機関「ゾハル」が無限の可能性事象…エネルギーを求めた事により、もといる世界から切り離されこの世界に「降臨」し、この世界で安定するために「ゾハル」に安定し、そのままこれに束縛されたとされる。(本来存在しないモノであるため、この世界に存在するモノに変化する、あるいはそれに宿るといった行動が必要なわけだ) この段階で「波動存在」の特性がいくつか分かる。 まず、波動存在が本来肉体を持たない、一種のエネルギー生命体として振る舞っていることである。また、高次の存在であるが故に、「波動存在」を我々下位の存在が完全に理解する事は不可能であるが、「波動存在」はそれが可能である。例として、フェイとの対面が行われている。ただし、「波動存在」が本来的に「意思」を有しているかは疑問である。先に例をあげたフェイとの対面の中で、「波動存在」は意思を「この次元の特質」と述べているためである。 また、「波動存在」は可分の存在である。 同じく本編内で自らを「ゾハルという肉体、エレハイムという意思、そして君(フェイ)の中に流れ込んだ力」に分かたれたと説明している。故に、可分の存在でもあると結論できる。 >「セフィロートの道」 本編内において、「波動存在」が存在しうる場、それが「セフィロートの道」である。「セフィロートの道」はカバラにおける「神との合一を果たす為の道順」の事であり、本編内においては「波動存在」がこの世界に来るときに通った道、そして帰るための道であると説明されている。高次の存在である「波動存在」とこの世界に住人が同時に存在する事の出来る、特殊な「場」である。 この「場」は本編内では二度、登場している。最初はフェイと「波動存在」の会談の時(フェイが人格統合をした直後)、もう一つはデウス本体との戦闘の後、地上を離れるデウスにゼノギアス(=フェイ)が追いすがり、接触した時である。 「セフィロートの道」は視覚的に「水面」で表現される。一つには「波動存在」が存在しうる場である事が関係しているのだろう。だが一方で水は「境界」「母」「誕生」「死」といった意味も有している。 下記にあるように、「波動存在」もヒトも高次元世界で生まれ、高次元世界が母とも言える。つまり、ある意味において「セフィロートの道」は両者にとっての「産道」であるのだ。だからこそ、「水=羊水」への入り口として水面に見えるのかもしれない。 >「波動存在」と母の意思 「波動存在」は言う。「私は接触者である君の観測行為によって人の特質……母の意思を持ったのだ。」と。(注1) この観測者(=接触者であるアベル)と「波動存在」の関係そのものが神と預言者のモチーフであると思われるが、重要なのは「「波動存在」は観測者の行為によって定義づけられる」という事、そしてそれにより、「「波動存在」は母の特質を持った」という事である。 母の特質についてはいなみさんが詳しく説明しているので、詳しく明言はしない。 この時、アベルはカドモニを見る事により、「母への胎内回帰願望」を抱き、「波動存在」を定義づける訳だが、同時に芽生えた「波動存在」の意思の中にも胎内回帰願望を抱かせてしまったと考えられる。 と言うのも、本来意思の無い「波動存在」にとってゾハルの中に存在しつづける事は特に忌むべき事ではないはずだし、また「母の意思」を有しているだけなら永遠に接触者の母としての役目を全うし続けるはずだからである。 故に「波動存在」は元の次元へと回帰しようとするのだと考察できる。 >「波動存在」と可能性事象 この項では主に「波動存在」とゾハルについて言及したい。 物理学の一分野に「量子論」と言う考え方がある。この理論の説明には「波動存在」との共通点が多く、「波動存在」のモチーフであると考えられる。 量子論はごくミクロの世界、原子以下の世界を説明するための理論である。このミクロの世界では我々が目にする世界(マクロの世界)では信じられないような法則で動いているとされている。 原子を構成する素粒子、量子論ではこれらは粒子(つまりツブ)でありながら波としての特性をもっていると説明する。粒子が波のように動くのではない。「素粒子は粒子であり、波でもある」のだ。この一見矛盾する性質については詳しく述べないが、少なくともこの点で「波動存在」と「量子論」との間に共通項があるのがまず分かる。 また、「観測者により定義づけられる」と言う性質も量子論独特のものである。 量子論を考案し、初期量子論を打ち立てたボーアを中心とする物理学者たちを、彼らが研究を行っていた街の名を取り「コペンハーゲン学派」と呼ぶ。このコペンハーゲン学派の特殊な主張が「波の収斂」と呼ばれる量子論の特質である。 粒子は確かに波の特性をもち、そういう振る舞いをしていると観測できる。ところが一つの波を観測しつづけていると、その波はやがて振幅が狭くなり、最後には点となってしまうのである。この第一人者的な観測結果を「波の収斂」と呼ぶ。 この観測者の行為によって運動が止まってしまうという、一種哲学的な法則は同じく物理学者のアインシュタインや量子論の研究者でもあるシュレーディンガー(有名な猫の例え話を作った人物である)によって批判される。 これに対する回答として考案されたのが「多世界解釈」という、初期量子論以上に理解しがたい理論である。 「多世界解釈」とは、「粒子はミクロな世界において、その存在を確率的にしか証明できない」、というニュートン以降の物理学の常識を覆した解釈理論である。確率的に、つまり一秒後の粒子の動きを「限定」する事は出来ても「確定」する事は不可能なのである。 ニュートン物理学の世界では、全ての運動は何らかの原因があり、その結果が生じる。 しかし量子論の世界は違う。たとえば「A」という粒子が「a」という空間と「b」という空間に存在する未来が同時に存在するという頭の痛い事実が導き出され、これは既に物理学界の常識となっている。(注2) この不思議な性質は常にSF的であるという評価を受け、またこれをモチーフにしたSF小説は多い。ゼノギアスの「波動存在」もまたそうであろう。(注3) ここで、なぜゾハルが「無限のエネルギー」として「波動存在」を求めたかが分かる。量子としての側面を持つ高次のエネルギー体である「波動存在」は、おそらく確立を変異させる力があるのだと考えられるからである。だからこそゾハルは「波動存在」を求め、手放さないのだと考えられるのである。 >「波動存在」と神 「波動存在」は言う。「神……私をそう捉える者もいる。確かにそれはある見方では正しい」と。(注1) これには二つの意味がある。「母の意志」をもち、エレハイム自体でもありゾハルでもある「波動存在」はこの世界の神であるとも呼べる。「肉の神」であるデウスと対を成す「魂の神」と呼べる。 もう一方で、カレルレンは「波動存在」が存在する高次の世界こそが神の国であると説く。そしてこれはある意味、現代物理の世界においても正しい。 カレルレンは言う。「宇宙の始まり以前、高次元の波動の場において、全ては一つだった。そこから波動がこぼれ落ちることによってこの四次元宇宙が創られたのだ」と。(注4) 宇宙の創生である「ビッグバン」、宇宙はこのときの「無の揺らぎ」によって生まれたと言われている。「無の揺らぎ」とは矛盾した言い方であると思われるであろうが、量子論では概念的・哲学的な意味での「無」は存在しないと説明している。宇宙の誕生時の空間は特殊な理論で説明されるため詳しくは避ける。(注5) 「神」を世界を創った者だと定義するのなら、この「無の揺らぎ」、すなわち確立こそが神であると説明できる。事実、物理学者の中にはこの「揺らぎ」が神であると考える者もいるという。カレルレンは宇宙を、高次の存在の「波動の揺らぎ」が零れ落ちる事により誕生したと説明した。おそらくこの「揺らぎ」は同一の存在であろう。「波動存在」は宇宙を創った神の一部であるが故に、自身をそう名乗ったのである。 >「波動存在」とカレルレン カレルレンは「波動存在」を神だと定義していた。そしてヒトの意思を神(=波動の残滓)であると結論し、それをそれ以外に存在しない場、すなわち「神の国(=高次元世界)」へと導こうとした。「プロジェクト・ノア」である。この点、まさにグノーシス主義的である。 最後の場(「セフィロートの道」)において、カレルレンは「波打つ人面」という視覚表現で登場した。「セフィロートの道」は精神体のみの世界だから、どのような姿をしていてもかまわない、と言うよりは、「その精神が体現する姿」で現れると考えた方がよいだろう。 「セフィロートの道」での客観表現は、フェイの一人称視覚の第三者化であろうから、そのまま考えるのは危険であるが、フェイ、そしてエリィが「ヒトの姿」で表現されているのに対し、カレルレンは先のとおり「波打つ人面」で表現された。これはカレルレン自身が高次元世界(=「波動存在」)と同化しつつあると言う意味であったのではないだろうか? カレルレンは言う。「(前略)私は、全てを最初の時点に戻そうと結論した。波動という、それ以外何もない、一つの存在であったあの刻に……。これは私<ヒト>のエゴではない。波動<神>の意思なのだ……。」と。(注4) この意味を私はよく理解できない。文字通り、これが波動<神>の意志なのか、それともカレルレンが同化した事による意思の定着なのかが分からないからである。……或いは、分かる必要はないのかもしれない。 そのカレルレンは「セフィロートの道」を脱出しようとするフェイとエリィを手助けするため、再び肉の姿をまとい二人の前に姿をあらわす。そして、神の下へと旅立っていく。だが、再び肉をまとったカレルレンは、本当に神と合一できたのであろうか? 神の愛は無限であると言うが。 >結論に変えて 「波動存在」はSFマインドにあふれた、面白い存在である。 仮想理論からストーリーを作るというのはSFの基本だが、一方でそういった理論の基礎やそれと類似した物語を読みたくなるのが人情だ。 実際、私はこの物語に触れるおかげで様々な作品や本を手に取り、今まで苦手だと逃げていたSF小説やブルーバックスに手を出し、まったく新しい世界を知る事が出来た。 これを読んだ人たちに思う。恐れずにこういった本に手を出してほしい。私の切なる願いである。 (注1) 本編内「墜ちた星 覚醒 ゼノギアス!!」、あるいはメモリアルアルバムP.347より。 (注2) マクロな世界でこの「確立世界」が余り影響を受けないのは、ほとんど誤差として無視できる程の差であるからである。 (注3)ゲームでこの「多世界解釈」をうまく使った設定としては「YU−NO」の「プランターの木」が有名である。 (注4) 本編内「全ての始まりにして終わりなる者」、あるいはメモリアルアルバムP.374より。 (注5) 「無の揺らぎ」と宇宙の創生についてはイギリスの物理学者ホーキンスの学説による。 BACK NEXT |