02/2/11 up


ゼノギアス修論 「あれから四年」




ゼノギアスが発売されたのは1998年の2月11日、その日からちょうど四年の歳月が流れている。任天堂の凋落から始まった次世代機戦争はこの頃、PSを保有するソニー陣営の勝利が揺るぎないものとして確認されるようになり、そのソニーの勝利の立役者となったスクウェアはFFに続く自社タイトルの育成に躍起になっていた。そのスクウェアの本命タイトル、「チョコボの不思議なダンジョン」と「パラサイトイヴ」に挟まれる形で、ゼノギアスは大作ソフトとしてはひっそりと発売された。


それから四年。ゲーム業界は本格的なネット社会前夜の状況でコンテンツと基盤確保に四苦八苦している状況にある。社運をかけたドリームキャスト事業が失敗に終わったセガは分社・ソフト/ネット事業者となる道を選び、携帯事業の成功から満を持してコンシューマーに復帰した任天堂とセガの抜けた穴を抑えるように登場した巨人・マイクロソフト、そして王者SCEの三つ巴のハード戦争が新たに勃発している。


時の流れとはおもしろいもの。四年前、時代の覇者とさえ言われたスクウェアは映画事業の失敗といまだに変わらぬFF一極体制の中、SCEの投資を受けながらネットコンテンツの育成に全力を傾けている。スクウェアがFF以外のタイトルとして有望視していた「パラサイトイブ」は姿を消し、「チョコボ」もスクウェアのマスコットキャラクターと呼ぶにはやや弱い。一方で「ミリオンヒットしなかった」と言う理由で固定ファンの多さにもかかわらず続編が作られなかった「ゼノギアス」は、スタッフがナムコ傘下のデベロッパー「モノリスソフト」に移籍し、ほぼ正当続編と言える「ゼノサーガ」を開発中である。


私的な方向に話を進めるならば、当時ようやく大学に慣れた一年の春休みの最中であった私は、02年のこの時、大学生活に別れを告げようとしている。


当時、ゲーム・アニメ・マンガといった「オタク系文化」への興味を急速に深め、また同時に漠然とそれらを論考する事に楽しさを感じ始めていた私にとって、ゼノギアスと言う作品は様々な点で自らのパラダイムの変更を迫る作品だった。結局「ゼノギアス」とは以降の大学生活を通じて付き合うこととなり、その成果として今、HPを開いているという結果が導かれている。


私にとって、「ゼノギアス」と言うゲームは記念碑的な意味を持つ作品であると言えるのだ。


待ちつづけた「ゼノギアス」の続編が出ようとする状況で。あれからちょうど四年目の年月の中で。四年の間に私が手に入れた幾許かの言葉を再び重ねる事で「ゼノギアス」という作品をもう一度語りなおしたいと思う。



>DB的作品


ゼノギアスを他の「大作RPG」と比較した際、特徴的な点は主に二つある。第一点はDISC2に代表される「強制的なストーリー進行(モノローグ)」、第二点はストーリーテリングにおいて不必要に感じるほどの情報量である。


前者はRPG(特にスクウェアが得意としているストーリー重視型のRPG)が本質的には「ユーザーを強制的に物語らせるためのサーキット」であり、またその点においては紙芝居のようなADVと何ら変わらないということを暴露してしまった。「ゼノギアス」という作品がRPGというジャンルの中で王道でありながらどこか「ゼノ(異端)」な理由だといえるだろう。このあたりの考察は沢月耀さんのゼノギアス論に詳しい(注1)


私が注目したいのは後者、ゼノギアスのボリュームを代表する情報量の過大さだ。ゼノギアスは様々な観点から作品論を述べる事ができる作品だが(それはもちろん、情報量の過大さにも起因する)、本質的なテーマは純粋で単純だ。この作品のテーマを一言で述べるのなら、「成長」あるいは「乳離れ」だといえる(注2)


だがゼノギアスはそのテーマをのべるために、非常に大量の情報を作品内部に構成している。「ユング心理学におけるペルソナとその統合」をモチーフとしたワイズマン・イド・ミァン(=グレートマザー)、子供の成長過程を解説する「鏡像段階説」を想起させるラカンの存在、作品のモチーフ自体が種の成長進化を示す「幼年期の終わり」に登場するカレルレンなど、ざっと考えただけでこれだけの情報量を作品から検索する事ができる。


上記の単語は、そしてゼノギアスに登場する単語のほとんどは日常において「本来の意味」を持つ単語である。そしてその事実はゼノギアスという作品に対し、ユーザー側が「リアリティ」を感じる依拠として機能するのではないかと私は考えている。


我々がある「物語サーキット(ストーリー性のある娯楽)」を「物語る」ためには、そのサーキットとユーザーとの間に相和性・共感……サーキットに対する「リアリティ」が必要である。この相和性が低い場合、作品への没入感が低くなる。映画や小説のように、ユーザーが客体に近い場合は主客が明確であるために「自身を客体として」楽しむ事ができるが、ユーザーを(一応は)主体として扱うゲームにおいて没入感の低さはそのまま作品に対する評価の低下に繋がる。そのため、リアリティの喚起は重要課題だといえる。


ゲームではユーザーとゲーム内のカーソル(RPGの場合ならばプレイヤーキャラクター=PC)を同一的に見ることによって没入感を高めようとする。RPGやADV、ヴィジュアルノベルの主人公が「個性が乏しく」「画一的」なキャラクターとして描かれる事が多いこと、また「記憶喪失」であったり、あるいは「異世界へと召喚された」などの設定を多用するのもプレイヤーとPCとの間に相和性、共通要素を多く含んでいる事を確認させるための手段である。


これら「物語サーキット」と主体たるユーザーとの間に結ばれる共通要素で、特に両者の結びつきを強くするものとしては、主体の内面と外部を囲む欲求・欲望及び外部情報が挙げられる。これらを「オタク系文化」の文脈で説明するならば、前者は「萌え要素(欲望情報片)」、後者は「世界(観)」であると言えるだろう。


ゼノギアスが発表から既に四年が経過しているにもかかわらず、細々とながらいまだにファンフィクションが再生産されている背景の一つには、この作品内部に萌え要素の情報が多量に含有されている事であると思われる。ゼノギアスにおける萌え要素は男性的萌え要素というよりはむしろ女性的萌え要素が多く、私には知識以上の感覚共有はできないものの、現在(02年)において流通している萌え要素と同じ要素を共有している。欲望を想像世界(作品世界)に対し付与する事は、その想像世界のリアリティを確保するもっとも強固な方法の一つである(注3)


そして作品内に登場するほとんどの単語が日常において「本来の意味」を有するという演出は、「世界(観)」に対し、強固なリアリティを与えていると考えられる。上記の萌え要素が内面の欲望を強く打ち出した物だとすれば、こちらは外部情報に強く裏打ちされたものだといえる。


これら作品内の単語はストーリー進行において不可欠な存在として物語の途上に置かれている。これら途上に置かれた単語=情報は物語を覆う構成としてネットワーク状に相互に結びつくが、それは同時に「系統だった流れを(表面的には)見出せない」という状態を作り出す。すなわち、上記の萌え要素をも内包して、情報が作品内でデータベース(=DB)と化しているのである。


しかし他方で「世界」を構成するこれら情報には、言ってみれば隠喩として日常(ユーザー側の世界)に置ける本来の意味を有している。そして日常側としての意味を検索したとき、これらの情報が日常側において体系及びネットワークを築いていることに否応なく気付かされる。この二重に意味付けられた情報/情報ネットワークはさらに想像(作品世界)/日常(ユーザーの世界)の境界を超え、ネットワークを築く。こうして作品内の情報はある意味シーニュとして機能し、想像世界に「意味」という日常側のリアリティを与えていると言えるだろう。そして当然だが、外部情報は経験則によって増えれば増えるほどリアリティが増す。そのために最も良いエミュレータは日常世界に接続していることなのである(注4)


これらゼノギアスを構成する情報は、いくら日常において意味を有する単語だとしても、それに対する体系だった知識をユーザーの多くが有しているとは言い切れない。いや、むしろ多数派が有していないといったほうが自然だろう。だが、「日常側」にある用語であるため、聞き覚えぐらいはある、あるいは何となく(感覚的に)知っているということも多いだろう。こういった状態こそが「DBの表面」を見つめている様であり、「作品内におけるリアリティ」を確保するために、「DB」が正常に機能している状態である。


90年代の特徴は作品のリアリティ確保のために、80年代の主流であった「世界(観)」を重視する方向から「ユーザーの欲望」を内面化する方向へのシフト、すなわち「萌え要素」の確立と内面化にある。そういう意味では「ゼノギアス」の方法論は、懐古趣味といえるかもしれない。だが、それら「世界(観)」を形作る情報をシーニュとしてDB化する行為は、欲望情報も外部情報をも内包し、それを単なる情報片へと還元する。


ゼノギアスを「物語る」事は、実は容易な事ではない。ゼノギアスは「強制的なストーリー進行」をするため、それにユーザーが追いつけないときは単なる「紙芝居」と化す。また、作品を構成するDBが膨大であるために(何しろ外部=日常のDBとリンクしているのだから)、自身が構成した「想像世界」が作品に対し空疎である感覚を持つ事もあるからだ。


だが、それこそが「ゼノギアスのおもしろさ」に繋がっていると思う。この作品は決して「出来上がり」のものではなく、最後のピース、DBを完成するための情報片として「観測者・検索体」としてのユーザーを必要としているからだ。ユーザーを「本当に」主体として扱うのは非常に過酷であり、そうであるが故にユーザーがゼノギアスを自身に内面化したときの喜びは計り知れない。


こんな、楽しむ事へのハードルが高い作品がたまには出ることを真に望む者である。




注1:「Xenogers PERFECT WORKS」P292 参照。

注2:ゼノギアスはこういった「テーマ」そのものすらDB化し、情報片に還元されている。そのため、ユーザーによって「作品から得られるテーマ」は無数に存在する。私はそれを「成長」と捉えたが、ある人は「信仰」と、ある人は「愛」と、ある人は「フェイとシタンの純愛物語(笑)」ととらえる。

注3:「戦闘美少女の精神分析」斎藤環(2000)第六章8節より参照。

注4:「シーニュ」……言語学用語。聴覚映像(音や図)であるシニフィアンと概念であるシニフィエが統合した全体の事。ここでは情報片・単語をシニフィアン、背後にある意味をシニフィエと仮想し、全体のデータ及びDBがシーニュとなっていると説明している。


参考資料:
「Xenogers」SQWER(1998)
「ゼノギアス メモリアルアルバム」Digicube(1998)
「XENOGERS PERFECT WORKS」Digicube(1998)
「戦闘美少女の精神分析」斎藤環/太田出版(2000)
「物語の体操」大塚英志/朝日新聞社(2000)
「動物化するポストモダン」東浩紀/講談社現代新書(2001)
「現代思想/入門」宝島社文庫(1990/2000)




>四年目の感想「名作の条件」


ゼノサーガの発売とゼノギアス発売四周年記念を兼ねた今回のテキストを書くために、ほぼ二年ぶりぐらいにゼノギアスを通してプレイしてみた。細部をかなり忘れているということもあり、とても新鮮な気持ちでプレイする事が出来た。正直、とても四年前に発表されたソフトとは思えないほどの出来栄えに、終始驚きながらのプレイであった。


そんな中で、特に私を驚かせたのは、作品から感じるテーマ性が以前……すなわち私がゼノギアス関係のテキストをもっとも活発に書いていた頃と比べ、やや違ったものとして受け取れる事だった。


前項で示したように、私はゼノギアスの骨格となるテーマは「成長・乳離れ」にあると考えていて、それは今も変わりない。だが同時に、当時あまり感じていなかった「愛」というテーマ、そして「成長」のファクターの一つともなっている「乗り越えられる父親」という存在に強く心を打たれた。


多くの論者が述べるように、ゼノギアスという作品は多様な解釈が行える作品である。それは作品とユーザーそれぞれはまさに「百億の鏡」のように、多様な姿を映すからでもあり、私はその理由の一端として、ゼノギアスの構成が「DB的」であると批評した。ゼノギアスはユーザーが受け取るテーマ性そのものすらDBとして内包している。


だが、正直な所、同一の作品から時を隔てただけで違う印象を受けるとは思わなかった。無論、私が以前も現在もゼノギアスから受け取るもっとも強い感情はカレルレンとラカンから流れ出すルサンチマンなのだが、それも微妙に変化しているような気がする。


四年は長い歳月だ。とはいえ、自己は連続して流れており、当時の私と今の私は同一ではないが類似しているはず。それでもなお、これだけの感覚の違いを感じるということ。それが一種の「名作の条件」ではないかと思う。


ゼノギアスが単に外部とも接続しているDBであるだけなのなら、これほどの感銘は受けないだろう。私がゼノギアスにこれだけの時を隔ててもなお魅力を感じるのは、ゼノギアスの中に私が探す真実が何がしか含まれているからではないかと思う。それは時が違えば異なる輝きを放つ「鏡の欠片」、それを多くの人が受け入れられるとき、その作品は「名作」の冠を頂くのだろう。


ゼノギアスは……決して万人向けの作品ではないと今でも思う。それは私の驕りなのかもしれないが、この作品を物語りし尽くすのは大変な技量・想像力が必要とされるからだ。また、純粋にゲームとしての出来も良いとは言えない。故に、この作品は「佳作」とは呼べないし、決して「良作」などではない。


だが、私は思う。それでもなおユーザーを饒舌にさせるこの物語が持つインパクトは「名作」と呼ぶに相応しいものだと。それが、私がゼノギアスにささげる最大の賛辞である。



>マイパラダイム・シフト


冗談でもなんでもなく、ゼノギアスは、正確にはゼノギアスを語るという行為を通して、私のパラダイムは確実に変化した。


一つはネット環境を積極的に活用するようになった事である。私がネットを利用するようになったのはゼノギアスの情報、特に論考系のサイトを探すためであり、私の「ゲームを語る(後にはオタク系文化を語る)」というスタイルはこの時が本格的なスタートであったと自覚している。


最初は人馬宮さんの「とらわれた天使の歌声」のネタバレ掲示板から始まり、後に天城龍哉さんの「是乃樹」でのテキスト投稿へと進み、現在のHP運営へと歩みを進めている。


当時の状況から考え、もしゼノギアスに出会わなくとも、おそらくは美少女ゲームの分野から論考型のHPを運営していたのではないかと思うが、今のように「堅い」テキストにはなっていなかっただろうと考える。


第二に、そしてこちらのほうがより重要だが、思想・哲学・精神分析に対し強い興味を覚えるようになった事だ。もともと本を読む事は好きだったし、コンピューターゲーム以外にもTRPGが趣味だったということもあってオカルトにはそこそこの興味と知識があった。だが、学問的な意味では社会科学・政治学と文化論のほうに興味が向いており、思想関連はまったくの手付かずであった。


大学の同じ学部の中に哲学専攻の教授がいた事が幸運だった。彼の講義を聞く事で哲学への興味は増し、また彼の哲学に対するスタンスが私に受け入れやすいもの(「哲学」を思考するためのツールとして扱うという考え方)であった為、よりこれら思考分野に興味を燃やすようになった。後に東浩紀・大塚英志といった「ポストモダン」を前提としてオタク系文化を批評する論者のテキストを読むときのステップとしてこの経験があったのは間違いない。


これらは直接にはゼノギアスには関係ないのかもしれない。だが、ゼノギアスという作品がそのきっかけとなったのは事実である。私はそのことに対し、この作品への感謝を忘れる事はないと思う。



>結「そして、あれから四年」



論考・感想・私説と三つの節に分けて、「ゼノギアス」という作品を語ってみた。これだけの話題が出てくるぐらいに、ゼノギアスは私にとって重要な作品だったと言えるだろう。


四年前、私がどんな気持ちでこのゲームを買ったのか、今となってはよく思い出せない。確か他にやるものが無く、帰省先では車が無ければ移動する事もできない事に少々いらだちながら、コンビニでこのゲームを買ったような気がする。その後、一週間か十日ほどでこのゲームをやり終え、衝撃を受けて茫然自失としていたような気もするが……あまり覚えていない。


おそらくこれが、「ゼノギアス」単独での最後のテキストとなるだろう。だから、最後に一言だけ述べたいと思う。


本当に、おもしろかった、と。


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