クモドコ・エガァキ・ザ・カセレ



「私」の部屋には一匹のクモがいる。虫の。
いつからいるのか分からないが、机と壁のわずかな隙間で見付けた。
貧弱な綿埃のように小さな巣。こじんまりと構えた住居の中では、一ミリほどの主が静かに住んでいる。
最初は、死んでいるかもしれない、と思い、フーッと息を吹きかけてみた。一ミリのクモにとっては突風に思えただろう、慌てて巣の隅に逃げたので、生存が確認された。
時々、思い出しては、綿埃の巣に息を吹きかけてみる。クモは相変わらず逃げていった。 締め切った部屋に、エサになるような虫がいるだろうか。ハエでも引っ掛かったら、大変なことになる、巣の方が無事では済まない。
「私」の一息とは桁違いの暴虐ぶりを発揮し、巣を破壊し、クモは捕らえられてしまうに違いない。あまりにも貧弱な住居を見れば、哀れみが日々積み重なり、次第に愛着へと変化した。
「私」はクモを見守ることにする。
ある日、掃除の際に、うっかり手を出してしまい、巣を駆除するという間違いを犯した。クモはどうなったのか。
次の日、クモは新たな巣を作ったので、同じ場所に小さな綿埃を確認できた。クモは相変わらず生きている。「私」は安堵し、疑問も感じた。クモにも縄張りがあるのかと。ここでなくてもいいだろうに。
もしかしたら、この場所がクモにとっては絶好のスペースなのかもしれない。
ある夜、「私」は夢を見た。
綿埃の巣に小鳥が飛び込んだのだ。巣はひとたまりもなく破壊され、クモの安否は定かでない。
「私」は意識だけでそれを目撃し、手を出すこともできず、一部始終を見る。
どこからともなく太い糸が飛んできた。何本もの透明なロープが交錯し、暴れる小鳥を縛り、あっという間に捕縛する。クモが吐き出した糸は力強く頑丈だった。
夢の中で、獲物はメジロだと感じた。小鳥だが、メジロは小さなクモの何百倍ものサイズであり、何もかもが現実的な行いではないと感じた。夢の中でクモは姿を見せないが、これだけ太い糸を作り出し、力強く戦っていた。
「私」はクモに感動した。手放しに応援した。クモは今日のために辛抱強く待っていた。そしてとうとう獲物を捕らえる。
クモの糸は透明なガムテープのように絡まり、中心のメジロをがんじがらめに拘束し、獲物の抵抗をメキメキとへし折る。メジロの翼は宙をもがき、やがてダランと折れた。クモが勝利した。
「私」は目が覚める。
クモの巣は相変わらずがらんどう。獲物の姿もなく、そして、主の姿が確認できない。
綿埃にそっと息を吹きかける。動く気配はない。
クモは引っ越したのだろうか。
ティッシュでそっと綿埃を拭い去る。空気よりも軽い手応えで、巣はあっさり破壊された。ティッシュの埃を確認するが、やはり主の気配はなかった。
窓を見ると、大きなクモがガラスの外を這うのが見えた。クモは「私」の目の前で一瞬止まり、そっと横に逸れ、窓の上側に移動しながら消えた。見られてしまったからにはもうここには居られません。「私」の関心が私の体躯を太らせたのです。さようなら、私は小鳥を捕まえに行かなければなりません。
机と壁の隅にいた頃は、目に見えないほどの小虫を喰らって生きるに十分だったクモは、今や小鳥でなければ事足りないまでに増長した。小さなクモには分不相応の外界へ向かうことを余儀なくされた、「私」の哀れみと期待の眼差し、意識とメジロを投げ付けた行為。
「私」の呼吸は嵐、クモの巣は灰塵、小虫の羽ばたきは無きにしも非ず、メジロの羽ばたきは撃墜された。
では、「私」の呼吸が猛々しい風ではないと何を以て証明するに値するか、「私」の意識を餌にして詰め込まれたクモの前ではすべてを無意味の域に依存するしかない。
クモが無闇に手にするところではなかった小鳥を喰らったのは、「私」に他ならない。何も知らずに空の青空を謳歌するメジロが結末の勝利者であった。

あれから以後、机と壁の隙間には誰も居ない。クモを見ていた「私」もまた、対の立場で。



(2013.11.12)