バッシ・ディーヴァ・ウェルシ



確かに体験したはずのものごとが確かな記憶として整理されていることは少ない。どこかしらヴェールと装飾が一枚噛んでいる。
自分に都合の悪いことだとしたら特に。あの人の悪口を一番に言ったのは自分だが、周囲が先に言っていたから、自分が一番ではないと言い張る。罪を少し軽くしようと素知らぬ顔で足掻いてみせて、実の体験に少しのヴェールを被せてみる。
自分に都合がよくなるように記憶に演出を施してしまう。ほのめかす言葉に誠意を込める人物は少なくない。そもそも誠意が言葉であるかという問題は別にしておく。
ところで、私には曖昧な記憶がある。
今から十年前、私が五歳で、姪が二歳。その姪は生きていれば十二歳。
父は先立たれた先妻との一人娘を連れ、私の母と結婚し、私が生まれた。私と姉は母の違う姉妹であり、ずいぶん歳が離れている。 姉の産みの母は亡くなり、姉自身は通称を連れ子と呼ばれる身だが、私が生まれた時にはすでに働き始めた成人の女性だった。父は一人娘である姉が成人するまで結婚を控えていたのだろう。
姉は夫と共に別の所帯を持ちながら、足繁くこの家に通い、血の繋がらない母と育児談義に花を咲かせていた。自分の娘とそう歳の変わらない私を可愛がってくれたことは確かだ。虚飾はない。
私もまた、小さな姪を可愛がっていた。回りまわって血の繋がりのある姪を、妹と思って、思い込んでいた。よちよち歩きの赤ん坊を追いかけ、自分もまた覚束ない手付きで姪を抱きしめ、それはだめだよ、さわっちゃいけないよ、などと、先輩風を吹かせていた。母と姉は笑って自分達を見るのだ。
ある日、私と姪は玄関のすぐ傍に座り込み、土地面の草をむしって遊んでいた。
なんてことのない日だったが、少し風が強いなと思った。空を見上げると、灰色に光る空から隕石が降ってきた。
大きな空からまばらに降って来る隕石はどこに当たるわけでもなく、誰もいない場所に落下した。私と姪は土まみれの手をぶら下げ、空の異変を見上げる。
家から出て来た母と姉も空を見上げ、もう家に入りなさいと告げる。
その時、姪の頭上に大きな石が被さってきた。私は咄嗟に、かばうべきだったのかもしれない。だが、一瞬の出来事で、動けずに一部始終を見ているだけだった。
隕石の一つは姪の頭に直撃し、小さな体は呆気なく地面に倒れた。勢いよく激突死。
ワアワアと叫ぶ声が聞こえ、やがて大声は救急車のサイレンに切り替わり、場面は転換する。私の脳内の記憶は飛び飛びだ。父も喧騒に混じり、大人の声は入り乱れる。
動かなくなった姪は家に運び入れられ、布団ではなく、なぜか台所の床に寝かせられている。大人が一人もおらず、私は取り残され、立ち竦んで死体を見下ろす。
姪の体が突然震え始め、一本の棒のようにビンと立ち上がった。なぜか頭が下で、足が天井を向いている。
赤ん坊の重い頭を支点にした起き上がりこぼし。爪先は空中で半円を描き、メトロノームのように左右に揺れ、少しずつ私へ近付いてくる。姪の体が発する激しい痙攣と振動が床から伝わってくる。
私は恐ろしさのあまり泣きじゃくった。助けられなくてごめんなさい、かばってあげなくてごめんなさい。全部私のせいです、許してください。言葉にならず、心の中だけで叫んだかもしれない。まともに姪の逆さを見られなかった。
姪はなぜか裸だった。全身が紫色に染まり、両目の縁は真っ赤だが、眼球は真っ白で、大きく見開かれた二つの丸が私を凝視している。グロテスクな色彩が浮き上がり、暗い台所で振れ続けていた。
過去の記憶はそこで途絶える。
号泣から目をつむり、場面は暗闇から一転する。再び目を開けた時、いつも寝ている部屋の天井が見え、布団から起き上がり、台所へ行くと、母がいつものように朝の支度を始めていた。おはよう、怖い夢でも見た?
台所に姪の姿はなかった。大きな窓のある台所は明るく、薄暗いところは何もない。
逆さ立ちの姪について、母は何も言わなかった。
それどころかその日から、姪の存在は家庭内から消え去り、両親は一度も話題に上げなかった。
歳の離れた姉の話題は辛うじて残されていたが、直結するはずの姪の存在は。
私の想像だったのか?
あの隕石の日から、姉は一度も家を訪ねて来ない。家の中の隙間を埋め尽くしていたはずの写真、姉夫婦とその娘、三人が写ったそれらは取り払われていた。これも私の想像と現実が起こす落差、想像なのか。
姪は生まれていなかった?妹のような年下の存在がほしいと思っていた私が、無から作り上げ、破棄した後の現実なのだろうか。
隕石に打たれて死んだ姪。私の心に空いた穴。空になった穴の中には何が住んでいたのか。
穴の中には何かが住んでいるのかもしれない。記憶を閉ざす分厚いヴェールが本当の過去を遮っていると感じる。ヴェールを引き剥がすことはもちろん簡単だ、私自身が自覚している。夢の中で夢だと気付く感覚と似ている。
今までヴェールを引き剥がせないできたことには理由がある。
隕石よりも酷い本当の過去があるのではないかと恐れている。
隕石に当たって死ぬなんてありえない。姪の死が私の幼い解釈によって、死因を捻じ曲げられた、としか思えない。
両親の口に上がらない過去。姪は酷い死に方だったと思われる。
一番近くにいて助けられなかった私が自分を都合よく守るために記憶を改造したのだ。助けられなくてごめんなさいと、悪夢の中で繰り返し、逆さまの姪に向かって何度も許しを乞う。紫色の小さな裸体に恐怖し、怯え、戦慄し、出口のない台所を逃げ回る。夢の中でさえ姪の命を救えない自分を責め続け、死体を忌み嫌って号泣してしまう。目が覚めてようやく安堵する。意思を以てある程度にはどうにかできる厳しい現実より、遥かに重い。悪夢は逃げる術が失われているからこそ悪夢と呼ばれる所以がある。
偶然のように姉と鉢合わせると、私とは比べものにならない程やつれた色が伺える。娘を失い、姉もまた悪夢を繰り返しているのだろうか。無論のこと。
幼い私が阻止できるはずもなかった事故(あるいは事件)に対し、どうにかできるのではなかったのかという傲慢な思いを抱き、無残にも散った姪の命の儚さを忍ぶ。解決の糸口となる姪の命が失われた以上、この悩みを絶ち切れない、割り切れない。
現実では到底起き得ないはずの死因。
私の不注意で姪を死なせた恐れがあった。自分の不注意から目を逸らすために、突拍子もない事故を想像上に作り上げ、現実に想像のヴェールを被せて隠している。
責任逃れのために、私は過去の妄想に隕石を降らせたのではないか。私は大人になってからずっと、真実と妄想の間に隕石の雨を降らせ続けている。その代償が悪夢となり、姪の死体を薄暗い台所に閉じ込めている。
誰か、私を罰してくれないかと願う。罪を罰で贖う過程があればこそ、心は軽くなれる。罰を与えられていない私は永遠に悪夢の中で叫び続けなければいけない。
ある日、とうとう両親の前で姪について言及した。
最初の一言は自分でも呆気なく思えた。覚悟を決めて口を開いたわけではなく、いつもの悪夢から目覚めてから五分後、私はまだ夢から覚め切っていなかったのだろう。
「姉さんの子供のことだけど。どうして死んじゃったの?」
父の反応は一歩遅れ、母と同じく目頭を指で押さえた。涙を堪えている。
「やっぱり覚えていたのか」
父の言葉は姪の存在を確かにさせた。母は両手で顔を覆ったまま俯く。手の平から嗚咽と言葉が零れてくる。
「あの子はね、可哀想な事故だったのよ。お前の目の前で死んじゃうなんて」
お前が殺したんだと言われるかもしれないと、心臓が爆発しそうなほど緊張した。だが母の言葉は私を責めるものではなかった。
それ以上言葉を続けられない母に代わり、父が諦めたような表情で私を見る。
「風の強い日だった。外で遊んでいたお前達に向かって、壊れた看板が飛んできた。あの子は、その看板に当たって亡くなったんだ。すぐに病院に運んだが、甲斐なく死んでしまった」
可愛い子だったのに、可愛い子だったのに。母は嗚咽の声で何度も呻く。直系の孫を失った父の嘆きもまた計り知れない。
「目の前でそれを見てしまったお前は、三日も寝込んだ。しかし、お前が小さかったことを理由にして、なかったことにした。今まで黙っていて、すまなかった」
三日後、床を離れた私を見て、母は決意したのだろう。姪の存在を消してしまうことを。
二人の悲しみは痛く伝わってくる。しかし私の悩みとは別物だと感じる。
じわじわとヴェールが剥がれかける。隕石など有りはしない。私は自分の見たものを、嘘の皮で覆っていた。
風に乗って飛んできた看板、姪よりも大きな金属の板。金属の縁が姪の頭を直撃し、頭の中身が雑草の上に飛び散った。母である姉、私の両親、私を除く大人達が素人目に見ても、あの傷では助からないと判断できる。
姪が死んだのは私のせいではなかった。
悪夢に縛られた足が宙に浮くようだった。姪の死は決して私の罪ではなかったのだ。私は罰せられる身ではない。
同時に疑問が浮かぶ。
私が無罪ならば、なぜ自分の記憶に対して罪を被せ、悪夢の姪に許しの懇願を続けていたのか。後ろめたいことは何もなかったのに。
姉の顔が浮かぶ。焦燥の色は、私に向けられた憎しみの表情。
娘の代わりにお前が死ねばよかったのに。お前と娘は一緒にいたのに、看板の落下地点にどうして娘がいたのか。お前が盾になって娘を守るべきだったのに。
ゾッとした。姉の顔をまともに見られない。
取り返しの付かない一人の人間の命。私は、許しを請う相手を間違えていた。たとえ筋違いだとしても、悪夢ではなく現実に目を向けるべきだった。姪の命日にこの家を訪れる姉の顔は、お前まだ生きていたのか。いつ死ぬんだ。それを確認するための機械的な作業だった。
もう一つ、重大な記憶が抜け落ちている。ようやく顔を上げた母と目を合わせる。
「その子の名前、思い出せなくて」
「本当は全部忘れていてほしかったのよ。まさか覚えていたなんて、気付かなくてごめんねえ・・・・」
人でなしの問い掛けに対し、母は涙を拭いながら頷く。
存在の有無を問い掛ける前に名前を問うべきだったのか、今さら分からない。作為じみたものを私に感じたら、両親は私に幻滅したに違いない。両親が私のことを過去を消された可哀想な子供だと思っているだろう。悪夢にうなされ続ける十年間を思えば、確かに可哀想な子供だ。
もっと可哀想なのは死んだ可愛い姪。母は一旦台所から去り、一冊のアルバムを持ってきた。両親と私との三人、一枚の写真の後ろから、別の一枚を抜き取る。
差し出された写真には、若い姉と小さな姪が写っている。ずっとここにいたのか、私の後ろに。
姪はあどけない顔でカメラを見つめる。肌色の可愛い幼児が私を見ている。覚えがある。これは確かに姪の顔。隕石に頭をかち割られる直前の、無邪気な子供。私が悪夢の中で弄んだ死体の顔ではない。
一気に記憶が戻ってきた。家の中で、庭で、一緒に遊んだ。
やはり許しを請うべき相手は姪だ。罪もない小さすぎる子供が、当てずっぽうの確率で死んでいいはずがない。
「裏を見て」
涙声で母が言う。私は震える手で写真を裏返し、文字を見付けた。心臓が裏返りそうになる。十年前の年月日と姪の名前。
「いいお顔でしょう、舞琉玲ちゃん」
私は一気に破顔した。ぶりゅれ。人間の名前ではなく、家畜の名前だ。なら、死んでもしょうがない。十年ぶりに心が軽くなった。



(2015.2.24)