イエス・オア・ヘル




動物が侵入してくる夢は、現状に対処できない精神状態を表すそうだ。自分はその水際に追い込まれていた。侵入を許す一歩手前まで。
自分は、家の中にいる。
夜の時間、部屋の中はオレンジ色の薄暗い電灯に照らされ、外は真っ暗だが、狭いベランダと延びる屋根が少しだけ光の範疇に入っている。動物は屋根を伝って現れた。
二階の角部屋。歩く足音はトタンをしきりにミシミシ言わせながら、慎重ながらも軽やかなリズムで近付いてくる。光の届かない暗闇との境目を計っている。
右からやってくる。足音の主は、いざ距離を詰めると、スッと顔を覗かせた。
最初はキツネ。二匹目はイタチかテンか、オコジョか、白くて細長い動物。よく分からない。
大小の二匹はどういう関係なのか、連れ立っている。
大胆な一歩目とは違い、控え目な歩みでベランダの柵の間を通り抜けてきた。ベランダに置いてある木製のすのこがカタンと鳴る。
キツネは狭いベランダに近付き、片手を上げ、窓をカリカリと引っ掻く。
突然の侵入行為に驚き、自分も腕を振り上げ、暗い窓ガラスを握りこぶしで叩いた。夢であるから、が常套句のように、力がまったく入らなかった。弱々しい音にまた驚き、何度か試してみたが、フワンとした手応えが何度も繰り返された。
こっちの無力さに気付かず、人間が動く音に驚いたキツネ。踵を返し、柵をすり抜け、屋根へと戻っていった。キツネはシャーロックホームズのような格好をしていた。つまり、服を着ていた。
上品な格子縞の短いマントを羽織り、特注かと思われるキツネ大のスーツ上下、耳がはみ出すように作られた鳥撃ち帽子を頭に乗せている。キツネの人格表現だろうか。あるいは自分が持つ偏見だろうか。
キツネが引くや否や、イタチとおぼしき白い動物が前に出た。こちらも同じ衣装を着せられている。
自分の夢なのだから、自分の偏った思い込みが着せているわけだ。お仕着せの衣装をあてがわれた二匹。
同じく、イタチも窓を引っ掻く。キツネよりも細く短い腕を伸ばし、速いリズムでカリカリカリとツメを引っ掛ける。窓ガラス一枚を挟んだ目の前、透明な向こう。
一生懸命な所作だが、機械的な作業。衝動に駆られたように、単調な引っ掻きを繰り返している。本来動物が持つ混じり気ない、純然たる本能があった。人間に発露すれば、狂気。凶暴性。
服を着た動物がベランダに現れた時、その驚きは、ここで始めてゾッとした怖気に暗転した。
思いもよらぬ力がグッと加わり、窓ガラスが開きそうになった。
自分も慌てて力を込めて窓を押さえる。ガラスが少しだけスライドする。カギが開いていた。
イタチは後ろ足だけでヒョロッと立ち上がり、窓の縁に両手を引っ掛け、全身を揺らす。全身の力を使って開けようとする。細長い体からは考えられない圧力を感じる。
陣痛のように波立つ強弱加減で、グッグッと力を増し、何度も窓に隙間ができる。部屋の中にいる自分も頑張るが、夢のせいか、やはり力が出ない。左手で左の窓ガラス、右手でイタチと押し問答を繰り返す。キツネはジッと見ている。
透明なガラスを挟んだ一枚向こう側、イタチと視線が合う。つぶらな黒い目。
自分は大きな思い違いをしていたことに気付く。
服を着た動物に対して、どこか一片の人間性を抱き、信じていた。
もしかしたら言葉が通じるのではないかと、コンバンワと言えばコンバンワと返事があるのかもしれないと、まるで根拠ない思い込みがあった。
夢と現実を隔てる境目に存在する、目覚めへの切り札である。
動物が侵入してくる驚きを上回る驚き、動物と対話が叶うという衝撃的なイベント、そんなまさかと思わせるショック、そこが夢の幕切れとなるはずだった。だが会話は成立しなかった。
動物は動物で、キツネとイタチは限りなく人から遠い野生だった。黒く澄み切った両目には濁りの一片もない。ただ、窓ガラスを突破して部屋の中に入りたい、家の中に侵入したいという眼差し、欲望。
許されない。ダメだ、許可しない。
自分はこの家を守らなければならない立場だ。人間として居住を安全に保つ責任がある。
人間の住処に野生動物を入れたら最後、あっという間に食い尽くされる。弱い者を守る義務を背負った自分は、必死に抵抗する。イタチも懸命に窓を引っ張る。
グッグッと陣痛が強まる。窓を押さえる腕が強張り、視線は暗い夜を凝視し、キツネとイタチから目を逸らさずに監視する。夢の中で疲労を覚える。汗の臭いが体中から湧き立つ。
必死に思い起こす。
寝床に横たわり、夢にうなされている自分を想像する。
ハッと目が覚めて安堵する自分を想像し、苦笑いをする。
へんな夢だったなと起き上がる自分の上半身の動きを思い描く。
衣装を着込んだキツネとイタチは窓の外で自分を凝視している。夢が終わらない。
無駄な足掻きはしばらく続いた。夜が明けるまで続いたような気もするが、外は暗闇を深くするだけで、太陽の兆しはまるで見えない。イタチは疲れ知らずのまま機械的な運動を繰り返している。
ある時、キツネがフッと近付いてきた。加勢するつもりか。
カギを閉めようと片手を離そうとするが、その隙にイタチの力が強まる。ダメだ、両手を離せない。
自分はイエを守らなければ。イエの中にいる弱者を守らなければ。柔らかい体をイタチの鋭い歯から遠ざけなければならない。キツネがこの窓の隙間から入ってきた時、イエは地獄と化す。
常套句を捨て、渾身の力で窓を押さえ付ける。相変わらず手応えのない体を叱り、骨の抜けた関節に焦り、なんとかしてキツネとイタチを退けようと奮闘する。
自分の夢を制御しなくては起き上がることはできない。自分は対処できる、抗い難い現状を受け入れ、克服してみせる。起き上がった後の現実に勝る夢などこの世には存在しないのだから。
帽子の下から覗くキツネの両目とかち合った瞬間、細い視線が痺れと共に後頭部へ突き抜けた。
純然たる本能の牙は自分の心底に食らい付き、危険を感じ取る目盛りを容易に噛み千切った。夢が及ぼす脅威が頭の中で度合いを振り切った。怖い、と思った直後。
暗闇がほどけた。夕日の残照、オレンジ色に火照る視界が目に映る。
戻ってきた。夢から目が覚めた。
夢の中で全力を出し切った努力が功を奏した。さっきまでイタチと攻防を繰り広げていた窓ガラスは光に満ちて、溶けた飴のようなつやめきを放つ。美しさを視界いっぱいに収め、荒い息を何度も吐く。
疲れ切った全身に夕日を浴び、体の底が気持ちよく暖まっている。床に密着した背中がひときわ熱く、びっしょりと汗に濡れている。夢で得た緊張を現実にまで持ってきてしまった。
時計を見ると、目を閉じた十分前だった。
気だるい体を起こそうとしたが、力が入らない。苦笑し、両手を持ち上げてみる。窓ガラスを押さえていた感触はない。柔らかい肌を押さえ付けていた反動がよみがえってくる。
三十分前が荒波のように被さってきた。仰向けに寝転がった顔の前に突き出した両手は凶器だった。
自分が必死に守っていた部屋の中には誰もいない。家の中にもいない。もういない。
昨日のことのように思い出せる痛みは引き潮のように消え失せ、手の平に残る柔らかい肌、両手には有り余る首回りしか残っていない。いない。
明るすぎるオレンジ色の向こうを見やり、キツネとイタチがいないこと気付き、しばらく目だけで探した。確かめるまでもない。
現実の窓の外に、野生動物はやってこない。服を着た動物は現実にいない。
隣りの部屋へ戻る気力はない。床から起き上がるほどの気力もない。ここには何もない。守るべき柔らかい体は三十分前に意味を失くした。
自分が守るべき、弱い者がある場所。守るために必死に抵抗した場所は、夢の中にある。
もしかしたら、服を着た動物と会話ができるかもしれないと望みを持てる場所を求め、再び目を閉じる。動物以上、人間未満の。夢以上、現実未満の。
窓に鍵は掛けない。キツネとイタチを招き入れる入り口を作っておくため、閉じる両目の隙間に焼き付けた。
隣りの部屋は見ない。自分の現実はここにない。いない。
オレンジ色の窓が暗闇に消え、窓ガラス一枚隔てた奥に、抗うべきキツネとイタチが待っていた。現実が牙を剥く。



(2017.8.23)