神様とバトル!! <3/3>
凄まじい冷気が足元を泳ぐ。地獄の業火でさえその輪郭を凍り付かせる。体の芯が一瞬にして干上がり、即座に凍て付く寒さ。
ゆっくりと、地面から這い上がってくる風。ミズガシは額に汗を滲ませた。
暑いわけなどない、これは緊張から来る脂汗だ。彼は久しく忘れていた恐怖を思い起こす。地獄の統領である自分を脅かすとは、ここ気の遠くなるような永年、勇者以外に在るはずがなかった。たった二度の前例を除いては・・・・
空気の中の水が春の気温をまったく無視した挙げ句、隣り合った分子と結び付くや否や、大きな塊となってアスファルトに落ちる。あろうことか、その地面の下から槍のような山のような氷塊が突き破って出でる。
「・・・・とは言ったものの、用事は済ませておかなくちゃね」
突発的な事象とは裏腹に、彼女は先と変わらぬ穏やかさで振り向く。辺りの街路樹はものの見事に枝の末端まで樹氷と成り果てる。しかも内側から凍らされている。
「いつでもできるわけじゃないから、今やっておかないと」
彼女が振り向き、地面に爪先を突いた途端、樹氷の末子がいとも容易く落ちる。ここら一帯のあちこちで、一斉に。
熱で満たされているはずの体中から体温が奪われる。皮膚の冷や汗が蒸発し、気化熱が痛いほどの鋭さで指先を傷める。気化した水蒸気がすぐさま凝固し、ミズガシの周りに蟠り、まるで何者かに包囲されている様。一歩も動けなかった。
周りは氷の槍で囲まれている。前に出ようが後ろに退こうが、その鋭利な切っ先に切り刻まれる。殺気も緊張も悟らせず、相手は一瞬にして相手の動きを封じた。
炎を操るミズガシとて、前触れも無くここまでの早業を起こせない。格が、違う。
動けぬ魔王を見やり、彼女は軽くこぶしを握ってみせる。さらに何かを起こそうとする仕草に身を強張らせるが、結果は呆気なかった。
「そう緊張しないで」
現れた時と同じ口調で言う。ミズガシの四方八方を取り囲んでいた氷柱が一瞬にして瓦解し、霧散する。肉薄した緊張から解放されるも、真の脅威はそこにある。
「魔王は神に勝てないわ」
北極の神は微笑み、自分とミズガシとを結ぶ一直線を開ける。あまりにも無防備だが言葉の通り、差し迫った力を与えずとも、いつでもお前を消せる。そう宣告されたのだ。彼女の変わらぬ態度がすべてにおいて余裕を見せ付ける。ミズガシは浅い息を何度も吐き、プレッシャーに耐えた。
確かに、神に仇為す輩は史上希に勃発するのみ、結果的には手痛い制裁を食らって終わる。天に背く背く行為を実現に可能とする実力を持った者など、彼ら神の眷属の他には存在しない。
どう足掻こうと、どんな判決を下されようとも、自分達は神に抗う術を持たないのだ。中身がどんなに理解不能だろうと、不条理な制裁だとしても。
「ちょっとあなたに話しておこうと思ってね。なんだかお説教じみたことになっちゃうけど・・・・」
彼女は行儀よくスーツの合わせ目で両手を揃え、ミズガシに一歩踏み出す。その一歩はミズガシに多大な負担をのし掛ける。息が詰まる気がした。
ギッ、
向き合う二人の頭上で氷柱の先端が音を立てる。そう思った次には、それは粉々に砕け散っていた。
「オオッ!!」
裂帛の気合が冷気を斬る。氷の槍を打ち破ったナキヒトがカタナを振りかぶり、一直線に極北の神へと突っ込んだ。神に仇為す所業。
「話を聞いて?」
相手は微笑みを絶やさず、ナキヒトが打ち下ろした刀身を見上げる。彼女が少し掲げた指の先、そこで切っ先は受け止められていた。接点には氷が生み出され凍気がまとわりつく。
ナキヒトは舌を鳴らし、それでも予見していたかすぐさま離脱する。受け止められた指の先から氷の触手が伸びてくる。ぐずぐずしていたら刀身ごと自身が氷結する。
「これが説教する態度かよ」
伸びてきた氷を振り切り、同じく凍結したアスファルトに降り立つ。足元から削れた粉が舞う。氷ではなく、靴底だ。スタッドレスだろうがスリップしてしまう滑らかな路面。これでは春の景色ではない、まるっきり冬に逆戻りした。季節ごと転換するとは。
「ナキヒト!!じ、自分が何をやっているのか分かってんですか!?」
唐突なナキヒトに、ミズガシは猛烈な勢いで食って掛かる。魔王の声は氷を揺るがすほどに響く。
「先に手ェ出してきたのはあっちの方だろうが。謂われもねえよ」
「あなた、殺されますよ・・・・!!」
もはや抑揚のない調子で呟くミズガシ。顔色は蒼白を通り越し、色を失っていた。しかしナキヒトは刃を引かずに言い募る。
「とんだシマ違いだぜ。今この地を任されているのは俺達のはず。どんな理由であれ、極北の神が出張ってくるのが筋違ってもんじゃねえのか?」
「だからと言って・・・・神に仇為す者の末路を、知らないわけじゃないでしょう」
「知るか、ばかやろうめ」
道端に鞘を投げ捨てながら吐き捨てる。彼の口調には明らかに憎悪がこもっていた。
「俺は昔から神ってヤツらが嫌いなんだ。理屈じゃねえ、勇者だからってわけでもない。俺自身の本能だ」
ミズガシもそれを知っている。出身を人間とするナキヒトは神を憎む心がミズガシよりも強い。
人間は時を重ね、自然の事象を知り始めた頃から、神の存在と力に対する疑心を強めてきた。曖昧な存在で以て自分達を縛り付ける不可視の者に信心を失い、連綿と繋がってきた不文律の掟を破り、己の自立心から立場を勝ち取ろうとする唯一の生き物となった。上位の者に絶対の忠誠を誓う地獄の住人とはまったく違う歴史を歩んできた、近年稀に見る生き物。特異で不穏な生き物に違いない。
ナキヒトがゼロから生まれた時、現代の概念を持たない古代の人だったにしろ、何度も生き死にを繰り返す内に、神に対しての不信感をも身に重ね着けてきたのだ。
彼が本能と称する心は、ミズガシには絶対分からない。理解しようとも思わない。所詮は生まれを別にする人間と地獄の住人、その憎悪を共有し、理解できることの方が余程おかしい。
「お前がどうしようと構わない。俺は刃向かうぜ」
「本気ですか」
「マジだ。テメエに殺されるならまだしも、そりゃ道理だ。しかしな、神に消されるのだけはご免被る」
「・・・・分かりました。あなたはあなたの良い様に、勝手にしたらいいでしょう」
「そりゃ助かるぜ」
彼らは突然立ち位置から飛び退る。同じ時、足元のアスファルトをやすやすとブチ破り、鋭い氷の槍が突出してきた。止まっていれば危ない。
「話は終わったかしら?なら、今度は私の話を聞いてね」
「聞くか!!」
出現した氷柱の半ばを蹴り上がり、ナキヒトは咄嗟に極北の神の頭上に躍り出る。
「とっとと北極に帰りやがれ!」
打ち下ろしたカタナの先は彼女の首。しかしまたもや氷の壁が現れ、剣戟は阻まれた。金属と氷の間に火花が飛ぶ。
構わずナキヒトは地面に突撃し、立った構えから相手に刃を押し付ける。ギリギリと関節の軋むような音が続き、徐々に氷の表面が削れていく。その先から溶ける氷が湯気を立て辺りは霧に包まれる。
極北の神はやはり表情を変えず、少しずつだが確かに薄くなっていく壁を見やった。
「強くなったのね、ナキヒトくん」
「ったりまえだ・・・・どうせ俺はあなたには勝てない。やるなら、一思いにやってくれた方が親切だと思うんだがな・・・・」
「そしてずいぶん潔くなったわね。相変わらず物分りは悪いようだけれど。ミズガシくんとは大違いだわ」
「魔王と一緒にするんじゃねえよ。腹が悪ィ」
「ふふ。言うと思ったわ」
彼女は笑ったまま目を閉じ、それから素早く双眸を開いた。
「だから話を聞いてくれる気はないのね」
バギン!!
自然界では有り得ない轟音が辺りを揺るがした。彼女の足元から突き出た氷の槍は寸分違わず、ナキヒトの腹を貫いた。重い衝撃が全身を穿つ。
「がッ!!?」
地面から足が浮く。ナキヒトの強靭な体を突貫した氷は背中を出口に、二度と抜けぬ厳しさで凍結する。勇者とは言え無理に引き抜けば内側の組織が引きずり出される。
串刺しにされた自分の体を思うより早く、喉を叩いた咆哮を追いかけ血が伝う。なまなかな攻撃では傷一つ付けられぬ勇者の骨肉を、いとも簡単に引き裂くとは。ナキヒトは今さらながら無謀なことをしたと思った。
「苦しいでしょう?最初から私の話を聞いてくれれば良かったのに」
「ばか、なこと言うんじゃ、ねえよ・・・・・これが、説教のクチか、よ・・・・」
減らず口が口を割る。口の端から落ちようとした血が凍り、皮膚に付着する。まさに骨まで染み入る寒さを直に味合わされ、次第に歯の根が合わなくなる。
こんなにも激しい痛みを味わったのは久しぶりだ。生きているのか死んでいるのかも分からなくなるほどの長い時を知っているナキヒトにとって、これは効いた。確かに生きていることを実感させられた。
ここまで激しい猛追を与えられてなお、生きている自分が不思議だった。楽には死なせてくれないらしい。生を味わうために犯すには、いささか無謀なやり口であった。
「やっぱり、若い子には若い子なりの話し方があるのかしら?こんなことなら、あの子を連れてきた方が良かったかもね」
「ぬかせ・・・・」
彼女があの子呼ばわりする件の人物も軽薄な形(なり)をしているが、やはりナキヒトが嫌う神の眷属に違いない。若いかどうかなど、彼女から見ればみな赤ん坊のようなものだ。
何よりもあの不良サンタとサシで真面目に話し合うなど、そんな気色の悪いマネはしたくない。
「これじゃホントのお説教になっちゃうわね。ちょっとオイタが過ぎたようね、あなたも私も」
そう言いながらも、彼女は悪びれた様子もなく笑う。制裁の手は緩めない。
ナキヒトは答えられない。棒のように凍り付いた髪の毛の先が音を立てて折れ、地面の上で砕け散る。ますます冷気が強まった。
「私の失敗に免じて、もう少しおとなしくしてくれないかしら?」
次の瞬間、彼女が冷気を強めようとすると、ナキヒトを貫いていた氷の槍が半ばから消失した。彼女の意図ではない、別の勢力が働いた。
初めて極北の神は笑みを消した。視線はナキヒトではなく、その背後に居るもう一人に向く。
「・・・・ミズガシくん、あなたは頭のいい子だと思ってたけれど」
まったく正反対の効力がぶつかり、そこに起きた膨大な熱量が視界を遮る。
「勇者の抹殺は私の役目です。あなたが出てくること自体が道理じゃないんですよ」
湯気と蜃気楼があいまっておかしなゆらめきを作る。その奥でミズガシは余裕なく笑った。
思いがけぬ彼の反論に、極北の神は再び笑みを取り戻す。何を思っているのかまるで分からない様相。ミズガシは体の芯からゾッとする。
「やめとけ、ミズガシ・・・・テメエにしちゃ、頭悪ィぞ・・・・」
支えを失って氷柱の根元に落ちたナキヒトが言う。こうなってしまえば勇者も魔王も必死は逃れられない。神の制裁はあくまで絶対、無罪を主張することはできない。
「悪くて結構。不戦勝はご免被りますね」
「よく言う・・・・」
「そうよね、そうだもの。あなた達の一人だけ死ぬことも、生き残ることも、有り得ないもの。私もウッカリしていたわ」
地面を覆っていた氷のすべてが溶け消える。春の訪れとは言い難くも、雪解けが起こる。輪郭を失った塊が多すぎる質量を伴い、水流となってアスファルトを洗う。これだけの水量を操ることができる神は彼女のほか、今はほとんど存在しない。
珍しくも二人の意見が合致したところで、彼女は現した力をすべて取り払う。その意図がなんなのか、ナキヒトもミズガシも予測し得ない。脅威の撤収に安堵を覚えるよりも、不安に襲われる。まるで嵐の前の静けさ。
「だめね、目の前しか見えなくなるのは。私も反省したわ」
しかし、彼女に力の行使は見られなかった。穏やかに、淡々と言葉を紡ぐ。ナキヒトはカタナを支えに起き上がり、静かに息を詰めながら神の出方を窺った。
「あなた達の、どちらか片方が消えることは認められてないもの。もしくはどちらも生き長らえることが望まれているの。分かるでしょう?」
「なにを・・・・?」
ナキヒトが呟く。同意を求められるも、彼女が何を言わんとしているのか、彼は掴み損ねた。元から投げかけられている疑問そのものに疑心が募る。
彼女は何を伝えようとしている?
ここ最近、ナキヒトの中でくすぶり続けていた不確かな思いに火が点く。しかし導火線のずっと先に着火したようなものであって、明らかになることはなかった。気味の悪い後味が残るばかり。
「私も久しぶりに降りてきたから、力の加減を忘れていたのね。ここは北極と違って繊細で、弱い場所だから───」
それ以上の真意を暴かず、極北の神は閑話休題と思ったか、話を逸らす。
「早々に片付けてしまいましょう」
『!!』
またぞろ、なんの前触れもなく冷気が吹き荒ぶ。ナキヒトとミズガシは足元を見た。しかし、アスファルトに異変はなかった。彼女が力を行使したのは地中からではない、上!
のけぞったミズガシのすぐ鼻先、目の前に氷の槍が突き立つ。頭上から落ちてきた氷塊が切っ先を尖らせ、根元を砕かれたつららのような勢いで頭を狙ってくる。
ナキヒトは水浸しの地面を走る。腹に開いた生乾きの傷はなおも痛みを訴えるが、恐ろしいスピードで塞がりつつあった。尋常な人間ではないのだ。尋常な人間であれば、何回死んだところで、なおも苦痛を味わうほどに釣りが来る。
走る足跡を追いかけるように槍が降ってくる。頭を下げなければ留まらぬ槍の雨に捕まってしまう。彼は風よりも速く走るが、どうしたって上空からの攻撃を見極めることはできずにいた。
避けることは早々に諦め、素早く立ち止まる。すかさず足元につららが突き刺さる。かと思うと、それは重力とアスファルトの固さに負けて砕け散った。氷の飛礫が霧散し視界を遮る。
「極北の神、失礼する!!」
視界を覆う飛礫を突き破り、ナキヒトは相手に向かって突進する。彼女はまったく無防備で、先と変わらぬ姿勢で突っ立っていた。
ミズガシは二人の隙間を縫うように、神の背後に火を放った。激しい業火が盛りに燃え、炎の舌が氷を舐め尽す。正面から突っ込んでくるナキヒト諸共を飲み込む勢い。
「まあ、」
彼女がどう続けようとしたかは聞こえない。火に煽られた豪風が鼓膜を刺す。
地獄の業火は本来、火のものではない。見目が炎に見えるだけであっての呼称。中身は自然の、どの性質にも属さない。極北の神が生み出した本物の氷に合わせて変質させたものだが、魔王の力から生成された炎は激しく燃え盛る。
ナキヒトのカタナが手応えを貫く。彼に纏わり付いた炎はうるさげに首を振ると、呆気なく散らされた。
重い水音を伴い、大量の氷が蒸発する。残りの湯気さえも許さぬ熱量でつららがかき消える。始めから何もなかったことのようにも見えるが、あまりにも荒涼とした光景。熱波は地面のアスファルトにヒビが入れていた。
「ちょっと惜しかったかしら?」
「・・・・後ろだ」
あらぬ方向から穏やかな声が聞こえる。ナキヒトは言葉を続けられず、手元を見た。貫いたはずの固い手応えはアスファルト、水の一滴すら残されてはいない。
二人分の呟きは、ミズガシに向けられていた。後ろだ、とは言われたものの、彼に反応するだけの暇はなかった。思わず顎を引いたミズガシの目の前につららが落ちる。あと一瞬でも遅かったら脳天から潰されていた。耳を割るような轟音が立て続けに響く。
勢い任せに出現するつららは狙ったか、ちょうどよく一点を目指し、ミズガシの周りを囲む。彼は咄嗟に手の内に炎を呼び込むが、氷の槍でできあがった強固な檻が魔王の所作を止める。
「あら!触っちゃダメよ」
こともなげに言われ、つららを掴もうとしたミズガシの手が痙攣する。
「生きたまま凍り付けになりたくないでしょ?世の中には物好きがいて、魔王の剥製を欲しがってる人もいるもの。気を付けなくちゃ」
「物好き?趣味の悪い方ですね」
「まったくだぜ」
アスファルトからカタナを引きずり出したナキヒトが背後から急襲する。いつの間にかミズガシの背後に陣取っていた彼女めがけ、躊躇無く刃の峰を立てる。
「私だったら───」
ガン!!
凄まじい凍気がナキヒトの目の前を遮る。ナキヒトは氷の壁に進路を遮られたのかと思った。しかしそうではなかった。
「そのまま噛み砕いてしまうけれど」
刺すような激痛が寒さのせいだと気付く。今までの比ではない。足の先から腕まで、透明な氷に覆われている。
「なっ・・・・!!?」
氷によって地面に繋ぎ止められたナキヒトは美術館に置かれた彫像のごとく、一歩も動けなくなる。観覧者は製作者のみ。まったく実にならぬ作品に、彼女は虚を突く形で作り上げた。
「できれば手荒なマネはしたくなかったんだけど、しょうがないわよね、許してちょうだいね」
「今さら何を・・・・そう言うヤツに限って、必ずやった後で言うんだよな、いてて・・・・」
体の中の水分が、血液が、音を立てて凍り始める。末端から壊死していく激痛に、さすがのナキヒトも耐えられず、泣き言が口をつく。
全力を込めようとも堅牢な氷の檻はびくともしない。それどころか、力を込める度に組織の壊れるスピードが速くなっていく。体の主要器官を守るため、爪先はとっくに熱と働きを放棄していた。
「ふふ、そうよね。でも最初から話を聞いてくれれば、こんなことにはならなかったと思うわ。もう少し昔のナキヒトくんだったら素直に聞いてくれたと思うんだけど、どうかしらねえ」
「昔って、いつだよ。俺には今しかねえっつうのに・・・・」
「ごめんなさい、今のあなたには要らないお話だったわね。ホント嫌ねえ、歳を取るとムダ話が増えちゃって」
口元を手で押さえて笑う。実際のところ、彼女がどれほどの星霜を重ねているかを知る者はほとんどいない。
ナキヒトやミズガシを子供扱いするには十分すぎる歳ではあるが、最初が不明なものほど不気味な存在はない。終わりすら見えないのだ。
今度こそ反撃のチャンスは失われた。彼女はその笑みを変えぬまま自分を殺すだろう、魂ごとかどうかは知らないが。それにしたって味合わされる苦痛は嫌と言うほど覚えている。
ナキヒトは凍った息を吐き出しながら、無言で覚悟する。徐々に失われていく指先の熱を捕らえ切れず、カタナを取り落としそうになった。寒さだけのせいではない、振り払ったと思っていた恐怖が再び身を襲う。
・・・・この恐怖、初めてではない。身も心も凍る絶対零度の中、記憶が揺さぶられるのを感じた。
「さ、本題ね」
踏み出した彼女のパンプスの下で、バキン、と氷の砕ける音。踏み出す後から後から氷が生み出されている。「氷の女王」とはこの人を指す。
目の前に突き付けられた現実に我を思い出し、もう震えも起こらない体を強張らせた。殺される。
極北の神が動けないナキヒトに手を伸ばす。これまでか、と歯噛みするが、歯の根まで凍らされ、痛みが走る。
そして、一層鋭い冷気が襲い来る───・・・・と、思いきや。彼女の手は意外な場所にかかった。
「だめよナキヒトくん、未成年者が喫煙しちゃ」
「・・・・・・・・はい?」
ナキヒトの胸ポケットから煙草の箱が抜き取られた。凍らされ、溶けて、グダグダになった吸いかけのそれは、もはや使えたものではなかったが、彼女は怒った仕草で自分のバッグに押し込む。
「もう、こんな悪いこと教えたのはあの子ね!?あの子には私からきつーく言っておくわ!体に悪いんだから、これからは止めなさい、禁煙よ!」
「あのー・・・・今日来た用事って、もしかとは思うけれど、それを言うために・・・・?」
ガシャーン、とカタナを取りこぼし、ナキヒトはわななく指で彼女のバッグを指した。いくらなんでも、そういうことでは。
「あら?そのつもりだったんだけど・・・・はっ、もしかして、やっぱりおみやげ持ってこなかったの怒ってる?そうよね、いきなり手ぶらで来てお小言なんて、二人とも怒るわよね!おばさん恥ずかしいわー。お願い、今日のことは内密にね、特に
「はあ、特には言わないけど・・・・」
「良かったわあ。こんなこと知れたらもう、恥ずかしくてご近所歩けないものね!あ、そうそう、冷たかったわよね」
冷たいどころの話ではないが、彼女はナキヒトを覆っていた氷を水に帰す。ナキヒトはドシャーと地面に落ちる。春の暖かい陽気がじわりと滲み、血流が戻る痛みを感じた。
北極の近所ってどこら辺だろうと思いつつ、とりあえずの言葉を返してみる。
「ところで俺、未成年じゃないんですけど・・・・」
「あらら、私さらにウッカリ。でも、ここじゃまだ未成年者でしょ?そこのところのルールは守らないと。郷に入り手は郷に従えって言うしね」
「はァ・・・・言うかね・・・・?」
「ッだ───!!!黙らっしゃいアンタら!!」 バリーン。
「うわあビックリしたァ!!?生きてたか、ミズガシ」
「フッ、心配は無用です。この私がこれっくらいで死ぬワケないでしょうが、黙れ未成年!!」 バシン!!
「いてェ!!?」
毒にも薬にもならない会話を打ち破り、ミズガシが現場に復帰する。つららをブチ破り、その勢いでミズガシの横っ面をひっぱたく。流れるようなツッコミの二段仕込み!
「あら、ミズガシくんたらやっぱり強くなっちゃって。前に見た時よりもたくましくなったわねー」
「いろいろありますからね!!私も!」
ほんとにいろいろありました。(近況報告)力押しではどうにも成し得ないことも、数多のノリツッコミでこなしてきた魔王の実力。
極北の神が自分達の抹殺でないことを知り、ミズガシはようやく反撃に出た。
「ナキヒトに用事だったら、最初っから口で言えばいいじゃないですか!言葉で!!何故に私まで凍らされる理由が!?ムダにびびったじゃないですか!」
「北極では普通なんだけど・・・・郷に従えなかったわー」
『どんなスタンダードだよ!!』・・・・とは、さすがに言えなかったが、北極の近所模様がものすごく気になる。人を呼び止めて挨拶がこれだったら、もう付いていけないし生きてけない。
「・・・・伝えるだけなら、天使にでも頼めばいいじゃないですか」
「ちょっとね、シーズノフだったらしくて、みんなで払っちゃってたのよ。私も時期が悪かったみたいなの」
『シーズンオフ!!?』
「ちょうど今の時期なのよね」
主にメッセンジャーとして神に使われる人員がそれである。しかし、シーズンオフとは。侮れない。てゆーか、働け。
二人の心内など知るはずもなく、極北の神はバッグを抱え直し、靴底の氷を払う。
「今日のところはおばさん、ここらで帰るわね。用事も済んだことだし」
「ものすごい用事をありがとうございました。(敬語)たぶん俺、三日くらい寝込むと思うけど」
「ナキヒトくん、タバコもほどほどにね!それから、アサヌマくんにもよろしく言っておいてちょうだいね。さっきから見えないんだけど・・・・」
雪解け水で川まで流されたかと。五百メートル先から「たすけてー」と言う彼の声を聞いていたが、敢えてナキヒトは聞き流した。アサヌマにも一週間くらい暇を出そうと思った。心の傷が。
「じゃあね。二人共、元気でね!」
今、元気でねと言った相手にものすごい元気を奪われた気分なのは自分だけだろうか、とミズガシは思った。たぶん自分も三日くらい寝込むと思われる。心の傷が。
一陣の冷風を伴い、極北の神はあっという間に消えてしまった。まばたきする間にも満たないほどの一瞬。
「行った・・・・か?」
「行った・・・・かもしれませんね」
「行ったよな?」
「・・・・行ったみたいですね」
ナキヒトとミズガシはしつこいほど確認した。これでまたぞろ戻ってこられては、今度こそ死ぬ。間違いなく死ぬ。神経が死ぬ。北極スタンダードにつき合わされるのは、もうご免である。
呆気ない去り際は、二人に大きな虚脱をもたらした。自分達がここまで疲弊しているにも関わらず、彼女は大した疲れも見せず、単なるお小言のために来たのだと言った。有り得ねえ!!ミズガシは実家に帰りたくなった。
ナキヒトは浸水した地面に座り込み、一歩も動けぬまま呟いた。
「あのよ・・・・一言、言ってもいいか・・・・」
「奇遇ですね・・・・私も一言、言いたいところだったんですよ・・・・」
同じくミズガシも近くのベンチに座り込み、疲れた顔でグッタリ呟いた。今日は珍しく、勇者と魔王の意見が、心が、一つになった。史上最悪の出来事と記すべきか。
二人は北を見上げ、同時に怒鳴った。
『前フリ長ェよ!!!』
まあ、確かに。
(2005/11/8)
