江宮隆之の「歳三奔る」を参考
1868年1月、新撰組は「鳥羽伏見の戦い」に敗れ、江戸に逃れていった。
そこで、「幕府にとって最後の砦は甲府城だ」という話を聞き、「近藤 勇」や「土方 歳三」は
甲府城に向かうことを決意する。・・・しかし、それが新たな悲劇の始まりだった。
土方は援軍を募るため、江戸に引き返し、その後に近藤らは、すでに甲府城は官軍の
手に落ちた事を知った。この時点で、新撰組の圧倒的不利である。「板垣 退助」が率いる
官軍の本隊は約2000人。しかし、幕府の方は精鋭とはいえど、200人足らずだ。
仕方がないので、援軍が来るまで勝沼という宿場に陣を構える事になった。勝沼宿は
坂になっているので、敵を一望できて有利なのだ。そうして近藤は、「原田」、「斉藤」、「永倉」達に
戦の準備をさせた。一方、板垣が率いる官軍は、明朝に幕府軍を討伐する事を決めた。
その頃、土方 歳三は江戸に援軍を呼びに行ったが、将軍たちは要求に応えず、援軍の所在さえ
掴めなかった。「これが俺達が守ってきた人の対応なのか」と、土方も将軍の対応には愕然とした。
本戦の方はというと、勝沼を突破した官軍は柏尾に進行。近藤 勇も愛刀の虎徹で敵を斬り倒すなど、
前線で戦ったが、官軍の武器は銃が中心。さらに数も多く、新手も出現したので、新撰組は柏尾から
撤退せざるを得なくなった。
新撰組の斉藤 一は、小銃部隊を引き連れて山の上から官軍を襲い、接近戦に持ち込み、刀で
敵を斬り倒していったが、やはり多勢に無勢なので、いずれ退却せざるを得なかった。
原田 左之助も小銃隊を率いて、官軍の小銃隊と戦った。数人の犠牲者を出しながらも、敵の部隊長を
刀で討ち取るなど活躍した。本当は槍が得意らしいのだが、この状況では槍は振るえなかったらしい。
近藤や斉藤が、新撰組を名乗って戦うと、官軍は少し怖じ気づいた。以前の新撰組の凄まじい活躍を
思い出したのだろう。それでも官軍の有利は揺るぎはしない。新撰組の大砲は、官軍のモノと比べて
旧式で威力も乏しく、さらに上手く使いこなせなかった。官軍の大砲は新型で威力も凄まじく、多大な
戦果を出した。切り札の大砲も役に立たないとなっては、もうほとんど勝ち目はなかった。
これによって新撰組の方は戦意を消失しはじめ、永倉 新八が決死隊を編成し、
退却する事を決意する。決死隊は永倉と斉藤 一を先頭に敵に斬りかかりながら、退却
のために敵の中を突き進んだ。敵の中を突っ切るのは、容易ではないが、決死隊は強かった。
池田 七之助という若い男が殿軍を務めたいと申し出た。永倉は危険なので反対したが、池田の
決意は固く、殿軍を務める事になった。七之助は、追い迫る敵を斬っては走り、それを繰り返したが、
官軍の銃に足と肩を撃たれた。しかし、それでも走って松の大木に辿り着き、そこで仁王立ちするので
あった。
七之助の命を懸けた足止めによって、官軍は永倉たちを落ち延びさせてしまった。
そして、七之助は、官軍の一斉射撃により、体中を撃たれ、死亡した。
新撰組は、この戦で凄まじい活躍をしながらも、戦力の圧倒的な違いによって、
最後には撤退するしかなかった。「柏尾の戦い」は、新撰組の敗走によって
幕を閉じた。
この敗戦によって、江戸に帰還した後、二番隊隊長・永倉、三番隊隊長・斉藤、
十番隊隊長・原田が新撰組から脱退した。永倉が、「柏尾の戦いで、新撰組の戦いは
終わったんですよ。」と組長・近藤 勇に発言して脱退した事からも、この戦いが
新撰組の最後の戦いであった、という説は、間違いとは言えないだろう。
(完)