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『ロールプレイのすゝめ』

カイヨワ著「遊びと人間」を用いたTRPG考察
ヤピロ(yapiron@hotmail.com)


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 ELVEN WOODSコラム2002年12月のテーマは「RPG入門者をもっと増やすにはどうすればよいのか」というものであり、ここ一月近くこのテーマについて様々な角度から考えてきた。だがしかし、師走も押し迫りいよいよ新年に突入するわけで、新たなテーマも予定されている。そこで、この話題は今回で終わりということにしておこう。

さて、最後ということになると、やはりどうしても「ロールプレイ」について書いておかねばなるまい。というのも、世間一般の人々をテーブルトークRPGに近づけ、取り込むために最大の方法は、ロールプレイ(模擬・模倣)を前面に押し出すことにある、と思うからだ。

ロールプレイを何よりも大切に思っている人も、そうでない人も、どうか耳を傾けて聞いてほしい。

 

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「テーブルトークRPG(以下、TRPG)とは何か?」

この問いに答えるのは意外と難しい。TSR社のD&Dの誕生から発展してきた歴史を語ることで答える者もいれば、卓上会話型役割劇ゲームという訳をもって答える者もいる。ある意味根本的な命題であり、哲学的な回答さえありうるし、千差万別の回答があるだろうし、それぞれがきっと正しいのだろう。

今回はこの問いに対し、ゲームの一分野としてではなく、遊びの一分野としてその性質を考えることで答え、もってTRPG入門者を増やす方策を考えていきたい。

 

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遊びの性質を考察した論考にロジェ・カイヨワの「遊びと人間」がある。「遊びと人間」に記され、遊びの分類の定説とも言える彼の提案した分類は、遊びを4つの基本的範疇に分けるものである。4つの基本的範疇とは、「アゴン(競争)」「アレア(運)」「ミミクリ(模擬)」「インクリス(眩暈)」であり、人間の遊びに対する根本的動機を基にした分け方でもある。

それぞれを簡単に説明しよう。「アゴン(競争)」とは競争の形をとる遊びの範疇で、取っ組みあいや徒競走などが含まれる。「アレア(運)」とは運命に身をゆだねる遊びの範疇で、じゃんけんやルーレットなどが含まれる。「ミミクリ(模擬)」とは別の人格をよそおう遊びの範疇で、ゴッコ遊びや演劇などが含まれる。「インクリス(眩暈)」とは意識の混乱を求める遊びの範疇で、ブランコやジェットコースターなどが含まれる。

 

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さて、TRPGはどの範疇に含まれる遊びであろうか?

私は「ミミクリ(模擬)」に属していると思う。架空の人物として、架空の世界で、それにふさわしく行動することで成立する遊びである。GMの用意した架空の困難をPCという架空の人物として体験するTRPGは「ミミクリ(模擬)」の遊びの典型と言っても過言ではなかろう。

(TRPG誕生の起源をガイギャックスのD&Dに求めても同じことが言える。ガイギャックスはロールプレイを想像上のある役柄を演じることであると「ロールプレイング・ゲームの達人」で明言している。)

さすがに眩暈を求めてTRPGをする人はまずいないだろう(インクリス)。

確かに、サイコロを振る一瞬には運を天に任せている(アレア)。しかしそれは副次的なものに過ぎない。プレイヤーはその操るキャラクターとして、運試しをしたのであって、プレイヤーが運試しをしたのではないのだ(キャラクターが運試しの結果を得るのであって、プレイヤー自身は間接的に結果に影響されるに過ぎない)。

プレイヤーとGMとの間に勝負のような関係がなりたっているようにも見える(アゴン)。特にゲームという言葉には勝ち負けのある遊びという意味があり、TRPGがシミュレーション・ゲームのミニチュア・ウォー・ゲームから誕生した経緯もある。しかしTRPGはすでにそんなゲームであるとは言い切れない遊びとなっている。そこには競争と言えるような平等な条件での勝負はほとんど行われていないのだ。プレイヤーとGMは基本的に不公平な立場にあり、その勝負はGMの胸三寸で決まってしまう出来レースがほとんどである(セッションハンドリングという名目でテクニック扱いまでされている)。ゲームはもはや遊びと言った意味しかないと言える。

 

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TRPGを「ミミクリ(模擬)」の遊びであると考えたとき、どうすればTRPG入門者を増やすことが出来るのだろうか?

TRPGの楽しみの源泉が「ミミクリ(模擬)」すなわちロールプレイ(PCを演じること)にあると認め、世間一般にTRPGという「ミミクリ(模擬)」の遊びがあることを知らしめればTRPG入門者を増やすことが出来ると私は考える。

なぜならば「ミミクリ(模擬)」を求める欲求は人間の遊びに対する基本的動機の1つであり、容易に失われるモノではないのに関わらず、それを満たす他の遊びが少ないからだ。(他の基本的範疇「アゴン(競争)」や「アレア(運)」にはスポーツや博打といった強力なライバルが多い。)

「ミミクリ(模擬)」の範疇での強力なライバルとして、ここ数年台頭してきたネットワークRPG(エバークエストやウルティマ・オンライン等)があることは認めよう。しかし現在のコンピューターの能力では、直感的な行動や表情豊かな演技やNPCの柔軟な対応などの面で限界があり、TRPGが優位に立っていると言える。

 

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ではTRPGとゴッコ遊びでは何が違うのか? といった疑問もわくことだろう。この疑問にも「遊びと人間」を基に答えることができる。それぞれの遊びは同じ範疇であってもその態度によって2つの極の間に分布しているとカイヨワは言う。その極とは「パイディア(喧噪)」と「ルドゥス(規則)」である。

それぞれの極を簡単に説明すると、「パイディア(喧噪)」とは自由で原初的な遊びの欲求であり、「ルドゥス(規則)」とは不自由な困難を好む欲求である。遊びは「パイディア(喧噪)」から「ルドゥス(規則)」に移行していく。人間は最初こそ無秩序に遊んでいるが、徐々に規則を設けて遊ぶ嗜好がある。そして遊びの規則が十分に洗練されれば、遊びが芸術などの域に達するのだとカイヨワは言う。

同じ「ミミクリ(模擬)」に属するTRPGとゴッコ遊びでは、「パイディア(喧噪)」と「ルドゥス(規則)」の比率が違うと言える。ゴッコ遊びに複雑な規則が与えられた状態がTRPGとも言えるのだ。

 

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インターネット上で馬場秀和が問題視している「キャラクタープレイと意志決定ロールプレイ」についても「パイディア(喧噪)」と「ルドゥス(規則)」の比率の違いで説明することができる。キャラクタープレイは演技を楽しむ態度であり当然「ミミクリ(模擬)」であり、直感的で無秩序な「パイディア(喧噪)」の要素が多い。意志決定ロールプレイもまた、キャラクターならどうするかを考え楽しむ態度であり、より努力を求める「ルドゥス(規則)」の要素の多い「ミミクリ(模擬)」と言える。

「ミミクリ(模擬)」を求める気持ちが、初期はゴッコ遊びとして遊ばれ、次第に規則を求める嗜好がでてキャラクタープレイを遊び、さらにより困難な規則を求めて意志決定ロールプレイを遊ぶようになったのだ。遊びの態度の変遷の好例とも言えよう。

(馬場秀和でさえ、かつてキャラクタープレイヤーであったことを「キャラクタープレイ あるいは傷つきやすい人々」のなかで自白している。蛇足になるが、私もかつて(今も?)キャラクタープレイヤーであり、マンチキンであったことを自白しよう。)

したがって、キャラクタープレイヤーを排斥することなく、暖かい目で見守る事が意志決定ロールプレイヤーを増やすことにつながるだろう。

 

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ながながと書いたが、簡単にまとめると次の通りだ。

・テーブルトークRPGを遊びの1つとしてとらえて、カイヨワの言う分類でわければ「ミミクリ(模擬・模倣)」の遊びであり、ロールプレイを楽しむ心はその真髄である。

・テーブルトークRPGは「ミミクリ(模擬)」の遊びとして紹介することがテーブルトークRPG入門者を増やす上で有益だ。なぜなら現時点では「ミミクリ(模擬)」の遊びに強力なライバルがおらず、それを求める心は簡単には無くならないからである。

・キャラクタープレイヤーを排斥するのは止めるべきだ。彼らは意志決定ロールプレイを始める前段階にあり、やがて自然により多くの「ルドゥス(規則)」を求めて意志決定ロールプレイヤーに育って行くからである。


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なお参考文献等は以下の通り。敬称は略した。

・ロジェ・カイヨワ「遊びと人間」講談社学術文庫、1990

・ヨハン・ホイジンガ「ホモ・ルーデンス」中公文庫、1973

・ゲイリー・ガイギャックス「ロールプレイング・ゲームの達人」社会思想社、1989

・山北篤「ノリ必要不要論とは本当は何なのか?」このごろ堂(http://www2.ocn.ne.jp/~yamakita/)1999

・馬場秀和「RPGコラム(各種)」馬場秀和ライブラリ(http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/)1998〜2002

文責:ヤピロ

 


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