すうっと一筋。
青すぎる空に一筆の落書き。
 
 
 
 
 
 
■ひこうきぐも■□□
 
 
 
 
 
「あー、飛行機雲や」
 
「あん?」
 
ぼんやりとした声が耳に届く。
声のした隣に視線をやると、そこを歩いていたはずの姿がないことに気づく。
少々眉をよせて振り返る。
おそらく先刻の一言の時にはもう立ち止まっていたのだろう。
歩みにして数歩、後方に探した姿を見つけた。
 
サラサラと黒髪を風に揺らして。
特徴在る丸いレンズの眼鏡は陽光を弾く。
忍足は、自身に向けられる軽い苛立ち紛れの視線に気づくことなく、ぽかんと口をあけて空を見ていた。
当然、面白くないのはともに歩いていた跡部だ。
 
夏も近づいて初夏の陽気と言われるこの頃。
図書館に行こうと言い出したのは忍足である。
春の大会があっけなく終り、突然掌に落ちてきた自由という慣れない時間帯。
氷帝学園にも大きな図書館はあったが、忍足が『揃えが違う』といって寮から30分ほど歩く図書館に行こうと誘ってきたのは数刻前。
 
なのに、付き合いのはずの自分が先行して。
本人が空を見上げてほうけ中とはどういったことか。
跡部は一発渇をいれてやろうと怒鳴る準備をして。
 
それが破裂する前に、忍足が再び口を開いた。
 
「なぁ…飛行機雲って、なんや気味わるない?」
 
「アー?なにいってやがんだ。 気味悪い?だぁ?」
 
それはまったく予想もしなかった言葉で。
跡部は一瞬面をくらった。
『綺麗』などという表現はよく聞くが、『気味悪い』などとは初耳。
しかし忍足は真剣だったらしく、指で自分の見ていたものを指し示して跡部に見せようとする。
言いなりというのも跡部の癪に触ったが、とりあえずその方向へと視線を送る。
 
忍足が指差した先。
青い空には。
長く切れ間なく、白い筋が一本走っていた。
 
あまりにも完璧でシンプルな飛行機雲だった。
 
「…別に普通じゃねえか。何が気にくわねえんだよ」
 
益々わけがわからず、跡部はギッと忍足をねめつける。
すると忍足は僅かにいいにくそうな様子をみせた。
もごもごと、口元で言葉を押さえるなんて珍しい。それでも視線で先を促すと、忍足はゆっくりと口を開いた。
 
「あんな…
あん…昔、なんかの本で…なんの本か忘れてもうたけど。
飛行機雲のことのってん。それであんま立派過ぎる飛行機雲は世界の終りの証拠やいうんがあって。
もう殆んど覚えてへんのやけど、そこだけ頭ン中のこっとんよ」
 
だから少し怖い。
 
なんて。 あのテニスで策士と言われた曲者が、言う事だろうか。
しかし忍足はわずかばかり表情を曇らせて言うものだから。
跡部はなんだか可笑しくなった。
 
「ハッ、いくつになってもガキのまんまか?」
 
「う、五月蝿いわ!ボケ!アホ部!
誰かて苦手の一つや二つはあるやろ!?」
 
「誰がアホだ!
あんなのはな、飛行機から排出されるガスと水蒸気で発生した、ただの人口的な雲なんだよ」
 
「理科でなろたわ!んなん知っとる!せやかて苦手なんはしゃあないやん!」
 
喧喧囂囂。
世間の往来で、打てば響く口げんか。
あまりにも低レベルで。
しばらくその押収は続いたのだが、どちらも折れなかった。
 
 
「っち!」
 
しばし後。
跡部は舌打ちすると、忍足に背を向けた。
ふいの態度に、自分でけんか腰になっておきながら忍足はムッとする。
 
しかしその直後。
背を向けたままの跡部が。
あろうことか手を差し出した。
もちろん、忍足にむかって。
自分に向けられる手の真意が読めず、忍足は困惑した瞳でそれを凝視した。
 
僅かの間。数秒の後。
忍足のリアクションがないことにいぶかしみ。
(いや、苛立っていたのだろう)
跡部は僅かに首をめぐらせて忍足を見た。
 
「早くしやがれ」
 
「て、ゆーても…ちゅうかそれ、なん?」
 
何をどう『はやく』したらいいのやら。
忍足はとりあえず差し出された手を見つめたまま聞いてみる。
 
「…わかんねぇのかよ。
てめえがギャアギャア怖がるから…」
 
「男二人で手ぇ繋いでこうってん!?まさか!」
 
跡部が皆まで言い終わらぬうちに、それを察知した忍足が叫ぶ。
その発言。実はちょっとした冗談という気持ちのほうが大きかったのだが、言われた当人は…
 
否定しない。
 
「うっせえ、早くしろ」
 
しかもせかしている。
横顔がイライラしているのが目に見えるのだが。
 
「出来るわけないやろ! 天下の往来、男二人やで?…は、恥ずかしいわ!」
 
その理由がわからない。
これが嫌がらせだというなら一級品かもしれない。
忍足は微妙なこの距離をどうしたらいいのかわからず、とにかくうろたえるばかりで。
そして業を煮やした跡部は実力行使に出た。
 
「いいから、さっさと手だせっつんだよ」
 
がしり。
しっかりつかまれる。
そして強い力でそのまま引っ張り歩きだした。
 
ぐいぐいと引く力。手を握り締めるそれはテニスで鍛えられているだけあって、結構な痛み。
状況の不明さも手伝って、忍足は顔をしかめて抵抗した。
引かれるままの手を取り戻そうと引き戻したり、足を踏ん張ったりする。
 
「アホ!アホ!このアホ部!
はずかしっちゅうねん!はなさんかい!」
 
口では罵るのだが、頬に熱が集まってくるのを止められない。
嫌がおうにも自覚させられる。
たまらない。
幸いというか、通りにに人影はまばらであったが。
先刻の口げんかのあたりから人々の視線がチクチクといたいのもまた事実で。
(自業自得というところだろうが)
 
結局体格がほぼ同じ二人。
本気で抵抗されればどっちともつかず。
引き寄せる跡部。逃げる忍足。
図書館への距離はまったく縮まらずに、時間だけが正確に過ぎて行く。
引きずっては逃げ。逃げては引きずりのくり返し。まるでイタチゴッコ。
もうどうしてそうなっていたのか原因は少しずつ砂のようにボロボロと曖昧になり、けれど負けん気の強い二人であったから勝負はつかない。
 
そして数分もした頃。
いい加減、原始的な力比べに寝負けした忍足が一つ息を吐こうとした。
その一瞬だが僅かに力が抜けたその隙を、跡部が見逃すはずもなく。
 
「おわっ!」
 
軽い驚きの声を残し、忍足は強く引き寄せられた。
強い引き寄せに足がバランスを崩し、よろけて転びそうになる。
それをすんでのところで止められ、心臓は咄嗟の事に早く脈打ちはじめて。
地面と足下をずれたレンズ越しに見ていた瞳が上を向くと。
 
その視線のすぐ先に、跡部の顔があった。
 
「な、なんやもう!」
 
あまりの至近距離に、忍足の声が上ずる。
もともと普段はあまり気にならないが、跡部は随分整った顔立ちをしている。(もっとも忍足自身も大分整った部類に入ると思われるのだが)
そのお綺麗な顔が急に突きつけられたのだ。驚くなというほうが無理だろう。
けれど跡部もここまで忍足が近くに寄るとは計算外だったのか、一瞬戸惑った表情を浮かべ。
 
「こうしてりゃ、世界が終わっても一人じゃねぇだろ」
 
あり得ない事を言ってくれた。
もしかして耳が変になったのではないかと、忍足が疑うほどに。
 
「…それって」
 
どういうこと?とは聞けず言葉は詰まる。
聞くのがなんとなく怖かったのだとは、忍足は考えない事にした。
困惑は眼鏡の奥からでも十分に伝わってしまったらしい。
跡部は顔をそむけると、ぐいぐいと引き図書館の方へ歩き出した。忍足はまだ思考が定まらず、結局引かれるままについて歩き。
なんとなく気まずい空気がとりまいて、言葉がない。

 
「…なぁ、あとべ…」
 
「あんだよ」
 
声を背中にかけるが、振り向かない。
後ろ髪からわずかに覗く耳だけが視界の隅に入って。
なんとなく赤くなっているような気がするのは、日の光の加減のせいだろうか。
 
「…はずかしいて」
 
「うるせえ」
 
小さくもう一度抗議してみたのだが、どうやら受け入れられる状態ではないらしい。
どうしてか心がそわそわ落ち着かず。
心臓がさっきからバクバクいうのも気になるところで。
 
もう一度下りる沈黙。
小さな気まずさ。それはなかなか抜けない棘のようにチクリと。
チクリと。
 
 
 
 
繋いだ手は離れずに。
 
歩いていく二人の影は少し長くて。
 
 
 
空にあった一筋の落書きは、いつのまにか姿を消していた。