[16]

結局。
ろくに眠れもしないまま夜は明けてしまった。
黒羽はいまだベットで死んだように眠る天根を残し、部屋を出る。
まだ早朝という時間帯ではあったがこの街は朝も早い。
(もちろん夜はとてつもなく遅い)
黒羽の住んでいる寂れたアパートの寂れた階段を一段抜かしで降りると、所々で錆び付いた安い材質の板がぎしりぎしりと音をたてる。
それを軽くいなしながら、大通りへでると朝の活気に満ちていた。

ばらばらと仕事場へ向かっていくスーツの人々。
それらを目当てにした朝食屋台。新鮮な果実や野菜をウリにしている青空市場。
どれもこれもが見慣れた風景だった。

黒羽はいつも馴染みにしている点心の屋台へ行き、今朝仕入れたばかりだと言う海老を使った小龍包を5つ買った。
ふんわりと鼻先をくすぐる香りは味付けも含めた差し水替わりのスープだろう。
そんなつもりはなかったのだが、目の下にややくまを作っていた黒羽を見て、店の女主人は小龍包をもう一つおまけしてくれた。
とりあえず朝食が用意できたので、あとは部屋にもどって珈琲でも沸かそうかと思った時、ふと黒羽の視界になにかがよぎる。
通り過ぎかけた足をとめて振り向いてみると、それは市場の店先に山積みにされた青林檎だった。
みずみずしい黄緑が目に優しい。
そういえば天根は果物がことさらに好きだったのを漠然と思い出す。

(…買っていってやるか)

数日間、眠った顔しか見ていない天根の喜ぶ顔を想像しながら、黒羽は山と積まれた林檎の中から2つ色艶と形のいいものを選んだ。
会計の際、その林檎に虫がついていたことがわかり半額以下にまでしてもらうなどのオマケもついた。

部屋への帰り道、なんとなく貰った林檎を袋から出す。
相変わらず鮮やかな黄緑は変わらなかった。黒羽はそれをしばし眺めた後、豪快にかぶりついた。
確かな酸味と爽やかな香りが口いっぱいに広がる。
思ったよりも甘さはなかったようだった。

「…これじゃあいつ、顔しかめるかもな」

果物の中でも甘味を重視する天根の味覚には、この味は物足りないかもしれない。
天根が顔をしかめて抗議する姿を想像して、黒羽の足取りは自然先程より速いものになった。