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それは誘われたのか。 『図書室の一角で』 「あかん…なんや今日はおかしいわ」 シン、と静まり返った場所。 カリカリと鉛が紙面を走る音と、暖房の機器が唸る小さな音だけが広がる世界で。 忍足は椅子の背もたれに体を預けて、深く息を吐いた。 時刻にしてPM4:00を少し回ったところ。 日の入りが早くなったためか、遮光カーテンを引かれた窓から挿す陽光はすでに夕闇に溶け始めている。 受験勉強という問題に必死に取り組む学生の姿はなく、この場にいる数人の人影は全て自主的に外部へと移って行く希望をもつ者達のみ。 氷帝学園はエスカレーター式であり、教師が頭を抱えたくなるような成績を取るものですらなんとかエスカレーター試験には合格できるというのが、この学園の通説だった。 よって、無理に他校へと入学するものなどきわめて稀。 この時季、本来ならもっと使用されるべき図書室は、ずっとそうあるように多大な書物の群を内包しまどろんでさえいるようだった。 そしてそのまどろみの中、忍足も一つあくびをかみ殺す。 「…『セイリチュウ』とかいうた阿呆もおったし…」 今日と言う日、朝からあくびの耐えない忍足を見た友人の一人が茶化した言葉だった。 『女やないで!あほんだら!』 怒鳴ってしかめ面をしたのに、ますます『生理中』などというレッテルを貼られてしまう。墓穴堀。本当に今日は自分らしくない。 第一眠ってばかりで『生理中』だというのなら、自分よりはるかに寝てばかりの滋郎の方がらしいだろうに。 『生理』などという生生しい言葉を嬉々として使う友人どもに、頭痛さえする。阿呆。 ガキばっかや。 「もっとも、俺もガキの一人やろけど」 背丈ばかり上に伸びても、年齢は皆と変わらぬ15歳。 大人から見れば立派に『糞餓鬼』だろうと、忍足は苦笑した。 口端を上げてみて、しかしまたそれはあくびにかき消される。眦に涙さえ浮かんで。 「も、あかん…」 手にしていた文庫になんとか栞をはさみ、傍らに置くとつっぷした。 頬が机に触れ、ぺたりとくっつく。 ひんやりとしたそれが気持ちええなぁなどと思ったのが、最後の意識。 忍足は図書室のまどろみに引きずられた。 ********** 「ふぁーあ、もう限界…秋は外がすぐ寒くなるから嫌だねぇ…」 ぺたぺたと、足を引きずるように歩きながら大きく欠伸をする。 長い廊下をフラフラと、慈郎は寝場所に向かって歩いていた。 3年間の学校生活で見つけた幾つかの絶好の寝場所。しかしその大概は屋上であったり、校庭の脇の木陰であったり。 ようするに陽が温かいうちならば華という場所ばかりで、冷え込みを肌に報せ始めたこの時季には到底利用できない。 冬でも快適に過ごせるのは勿論教室であったが、今日はなにやら使うらしく。(その理由には興味がなかった) 慈郎は仕方なし、冬でも過ごせるあったかポイントの一つに向かっているのだった。 歩く事しばし。 ほどなくして目的地である場所へと到着し、そこでももっとも暖かいと思う場所へと歩を進める。 しかしすぐにその場所。長机と椅子に先客がいるのに気づいた。 先客は上体を机に落とし、顔を腕に隠すような感じで眠っているようだった。 なんとなく残念だとか、名残惜しいだとかいう感情をコロコロ回しながら、慈郎は別の椅子へ座ろうと足を止めかけて。 目に捕らえていた人影が、随分見知ったものだということに気づく。 漆黒、といっていいだろう髪は少し長めで。 伏せているからわからないけれど、眼鏡の奥にいつもあった瞳はやや青みを帯びた黒だったなと記憶する。 こんなところで以外だなと一瞬思い、そういえば今日は朝から欠伸をしていた姿を次いで思い出した。 俺みたいでおかし〜ねと言ったら、心外や!とつっぱられた気がする。 気がするだけなのは、返答を聞くころには半ば慈郎自身が夢の中だったからだ。 その彼が今、目の前で寝入っているという現状。 「ん〜…どうしよっか?」 誰ともなく呟くが、勿論忍足は夢の中だ。 図書室にいる他の面子はみな、慈郎や忍足と同じ3年だったが、イマイチ記憶に薄い面々ばかりで。 彼らも慈郎達にはまったく興味を抱かない。 結局慈郎は考える事を止め、忍足の隣の椅子に腰掛けた。 すぅすぅと小さな規則正しい寝息が耳に入って。 ちょっとした悪戯心が芽生える。 そっと耳を隠していた黒髪を指で避け、耳元へと顔を近づけて。 「おい忍足!問2について答えてみろ!」 「…へっ!?す、すんませ!」 鋭く、数学教師の真似をして言葉を突きつけると、とたん忍足はガバッと顔をあげ、あたふたと周囲を見回した。 彼が狼狽する様子等、普段めったに見れないもので。 忍足の混乱した目が困惑になり動揺が冷め、周囲をさまよった後ようやく慈郎を認めたとき。 「ぷっ!オシタリおかしすぎ!あわてすぎー!」 「な、なな…ジロ!」 慈郎は思いっきり噴き出した。 忍足はその慈郎の様子にはめられたと気づき、カーッと頬に熱が上がるのを感じる。 「『すんませ』だって!あはあは」 「…ジロー…?」 笑い転げる慈郎を端目に、忍足は酷く低音の声を響かせる。 不機嫌に聞こえるそれが、しかし彼の照れ隠しであることを慈郎は野生の勘に近いもので感じ取っていたので気にしない。 それどころか、忍足の口元を指差し。 「オシタリー…よだれの跡」 「!!!!!」 バッと右手の袖口で口を覆う。 どんどん血が集まっていく顔を隠すことが出来なくて、忍足は唸った。 よだれやなんて、赤ん坊やないのに… グルグルと思考が袋小路に入り込みそうに鳴った時、慈郎はふわ、とあくびをしながら呟いた。 「なーんてね、嘘。よだれは出てないよ〜良かったね〜」 にまにまと笑いながら、目はぱちぱちと眠さのためか瞬きを繰り返す。 そのまま両手を机に置き、額を腕の上に置いた。 ふわふわの金色の髪が少しずつ自分の隣で机に伏していくのを見送り。 はた、と忍足は気づく。 「なんやて!ジロ!嘘いうんはどーいうことなんや!いうてみい!」 我ながら反応が鈍いと思いつつ、がぁと怒鳴りかけて、瞬間。周囲の人の目が集まった気がして。 忍足はなんとか声をつとめて抑えながら、滋郎の頭をペシンと叩いた。 「弁明の一つでもしたらどうなん、嘘つきは泥棒のはじまりゆうてなぁ……」 ぶちぶちと小言のように語り始めるが、しかし。 一向に滋郎からの反応はない。 流石におかしいと感じ、忍足が慈郎の顔を覗き込むと。 「ぐぅ…ぐう…」 ぐっすり眠りの中に入り込んだ、幸せそうにゆるんだ頬。 「自分…はやすぎや」 もう怒る気も失せて、忍足は深くため息をつく。 もともとマイペースな慈郎に合わせようとしたのが間違いだった。忍足はこのまま慈郎を捨て置き帰ろうと立ち上がりかけて。 寝る前に自分が持っていた文庫がないのを思い出した。 確か机の上においたはず、そう思い視線をめぐらせて机の上を探すのだが一向に見つからない。 寝ている間に床へ落としたのか?そんな可能性も考え机の下も覗いてみるがやはりない。目の前にはブラブラと一定のリズムで揺れる慈郎の足だけ。 そこへきて、忍足はふいにひらめいた。 「まさか…あらへんよなぁ?ここには…」 出来れば自分の想像が間違いであってほしいと思い、その場所を覗き込む。 えてしてそこにそれはあった。 栞を挟んだままの見覚えのある文庫が。 眠る慈郎の頭の下に。 「何枕にしとんのや、アホ!起きんかい!」 バコッと容赦のない鉄拳。 それは慈郎の陽の光のような髪に沈むが、しかしそれだけ。 ほんの一瞬衝撃で動いた頭部はしかし、次にはまた沈黙し。 「うー…むにゃ…もう食べられな〜ぃ…」 幸せそうな顔に、見事なまでの寝言。 一度寝に入った慈郎をすぐさま起こすことは難しい。 それこそ目覚めるタイミングをはかってようやくなされることなのだ。 すっかり滋郎の枕となった文庫のことを思い、忍足は頭痛がした。 「…あーもぉ、頭痛いわ。これやほんまに『オンナノコノヒ』みたいやんか…」 額を手で押さえて、ため息一つ。 それでも傍らの気配に起きるような様子はなく。 忍足は仕方なし、立ち上がると近くの本棚に足を運び。 幾度かの選別のあと退出禁止の雑誌を手に取った。 パラパラとそれを数度めくり、僅かに頭をもたげた好奇心を餌に再び同じ椅子に腰をおろす。 片肘を机について、崩した格好で雑誌に意識を落とした。 ぐぅ、と小さくお腹が鳴った気がするのだが。 考えると本当にたまらなくなるので、あえてそれは意識の外に排除しようと勤める。 『今日の夕飯…なんやろか…』 結局意識の転換には失敗して、ますますお腹の虫は不平不満をもらしたのだが。 育ち盛りの中学生男子としては正等の主張といえよう。 着実に大きくなりつつある不満に、なるだけ見ないフリを決め込み。 忍足は殆んど飛ばし読みにちかい状態でページをめくり続ける。 傍らに幸せそうな寝息。 BGMは自分の空腹感を訴える音。 「さっさと起きんかい、ボケ…」 忍足の今日何度目になるかわからぬため息もそっちのけ。 慈郎の楽しい夢は今はじまったばかり。 ********** その後、慈郎が起きた時間はあえて口にしたくない。 ただ、もうクラブがない3年の身でありながら、現レギュラーである鳳と帰宅時間が一緒になってしまい不思議がられた事だけは確か。 そしてその話は翌日になんの因果か跡部の耳に入り。 「アーン?ばっかじゃねえの?」 「馬鹿言うな!阿呆!」 そんな小さな口論を呼んだとか。 了 |