水を多量に含み始めた濃密な空気があたりに満ちる。
 
ぽつ
 
ぽつ
 
小さな水滴が花壇の葉に落ちる。
 
 
ぽつ ぽ つ  ぽつ…
 
石畳で埋め尽くされた人工の大地に、いくつもいくつも。
数え切れないほどの灰色の染み。
 
 
 
ぽつぽつぽつぽつぽつぽつ
 
ザ−−−−−−・・・
 
 
水滴は雫となり零れ落ちて雨と成る。
 
パン パン と軽やかに傘を開く音。
バシャバシャと水を蹴る車輪。
足早に通り過ぎる人々の姿。
 
 
 
 
 
 
■紫陽花のうた■■□
 
 
 
 
 
 
 
タン タン タン
 
 
軽い音。
それは屋根を叩き、弾く水滴。
シン…とした室内に、それは広く響いて。
 
四角い天井。四角いロッカー。
四角い窓に囲まれた、四角い部屋。
細長いベンチの上に人影一つ。
 
 
ふいに扉が開かれて、人の気配と雨の匂いが室内に流れ込んだ。
 
 
 
 
「ジロ…ジロ…」
 
柔らかく呼ばれて、引き寄せられるように意識が浮上する。
ふわふわと気持ちのよい眠りから引き剥がされる時、それはいつでも苦手な一瞬であったが、
今耳に囁かれる音は彼を不思議と不快にはさせなかった。
ただ、水面から空気を掻いて手繰り寄せられるよう。
 
「んむ〜…?」
 
しばらくの間、寝息のためだけに使用されていた口はすぐには言葉を紡げず。
息をはくような音にしかならない。
それでも手をあげて、目をこすり、うっすらと瞳を開けると。
 
「んあ〜…花を背負ったオシタリ…」
 
「は?」
 
まだ涙にぼやけた視界。眠りの世界に半分埋没したままの意識でとらえたもの。
黒髪と眼鏡と薄紫の花。
よくよく目をこらしてみれば、眉根をよせて困惑した表情の中。
薄いガラスの奥の瞳は僅かに青さを帯びており。
口はぽかんと開かれて、何をそんなに驚いているの?と聞いてしまいそうだ。
 
「自分、何キショイこと言うとん」
 
花を背負っていると表現されて、忍足はあまり嬉しそうではなかった。
ベンチに寝転がったままの慈郎の方を、眉根を寄せてじぃっと見ている。
きっと頭の中で『まだねぼけとんのかいな?』ぐらいに思われているのかもしれない。
 
「それ〜…」
 
慈郎はその疑問に答えようと、忍足の後方へ指を指し示す。
それにつられ振り返った忍足は納得の言ったような息を一つついた。
 
「ああ、紫陽花やん。滝あたりが持ってきたのとちゃうん?」
 
忍足の後ろにあった長テーブルの上には一つの花瓶。
薄紫色の紫陽花が数本いけてあった。
 
「似合うね」
 
「阿呆」
 
慈郎としては素直な心よりの賞賛だったのだけれど。
忍足にはふざけているように聞こえたようで、ゆるみかけた眉がまた寄ってしまっている。
でも、和風の顔立ちをした忍足に事実、紫陽花の素朴な色合いはとても似合っていたのでこれは赦されたいと思う。
 
「男が花似合ってどないすんの」
 
「でも、跡部なら似合うと思うよ〜?」
 
例に出された友人の名前に、忍足は苦笑した。
 
「おん、跡部は薔薇系やしなぁ」
 
「そうそう〜、ゴージャス?」
 
きつい目をした、しかし存在感が圧倒的に強い友人の顔を思い浮かべ。
二人ともしばし笑みを浮かべる。
「ははは、でもあんま本人にはゆーたらんといたり?低俗な表現とかいうて怒るかもわからんし」
 
「ん〜」
 
もっともと思われる忍足の忠告に、慈郎は素直に頷いた。
それでこの話は終了したのだろう。
忍足は片手を上げて慈郎の髪を撫でてやりながら、もう一度口を開く。
 
「ちゅうか自分、今の今まで寝てたんか?」
 
「そ〜…。…あれ、そいえば練習は…?」
 
ふと、周囲に忍足しかいないことを今更気づいたかのように聞いてきて。
忍足は息を吐いた。
 
「アホ。気づくんが遅いわ。
今日は雨降りそうやし監督も用事があるいうて上がるのはようしたやろ?」
 
朝練とき言うとったで?
 
そんなふうに教えられて。
そういえば朝は本当に眠くて殆んど意識がなかったことだけを思い浮かべた。
 
「あ〜…聞いたかも」
 
「『かも』やあらへん。しっかり自分あの場にいてたやん」
 
「そうだっけ?」
 
「自分…そんうち、ほんまに脳味噌とろけてまうで…」
 
はぁっと忍足は息をついて苦笑した。
髪の先にからまっていた長い指がゆっくり離れていって。
それを惜しいと思ってしまった自分自身の心に、慈郎は首を傾げる。
 
「なんでだろ」
 
「は?何がや」
 
疑問は呟きとなって口から知らず零れ落ち。それを拾った忍足も首を傾げる。
さらっと黒髪が零れて。
やっぱり綺麗だなと思わずに居られない。
 
「オシタリは何でここにいるの?練習、もう終わってるんでしょ?」
 
実際の疑問はそうではなかったけれど、とりあえずそれも気になっていたので聞いてみると。
ごにょりと言葉を濁す気配。
なにやら言いにくそうで、視線がちらとずれる。
 
「?」
 
その理由が慈郎にはわからなくて、純粋に疑問をまなざしにのせれば。
忍足は少し頬を赤くした。
 
「忘れもん…そや、忘れもんしたんや」
 
「ふうん?そうなの?」
 
いいながら、しかし明らかに今思いついた口実ですと顔に書いてある。
普段はポーカーフェイスなのに、時々驚くほど感情が表れる忍足の百面相が可笑しくて、滋郎は笑った。
一方で笑われた方の忍足は非常に居心地が悪かったらしい。
くるりと背を向けて、自分のロッカーへと向かう。
ガタンと大き目の音をたてて扉を開き、がさがさ荷物からなにかを探している。
その背中がちょっと必死で、慈郎は気づかれないようにまた少し笑う。
 
 
「ほらな!これ、これ探しとったんや!」
 
しばらく後、ロッカー相手に格闘していた忍足が手にしていたのは、白いケースに入った目薬一つ。
さも大事そうに見せてくるが。
どう見てもそんなに重要なものではなさそう。

 
「それ、いつも置きっぱなしにしてないっけ〜?」
 
普段から眠気で曖昧な記憶の中にあった小さな情報をポロリと口にする。
途端、忍足はまたしても頬を赤くした。
随分今日は赤くなるんだなあなんて客観的に見てしまい。
そんな視線に耐え切れなくなったのか、忍足はまた背を向けてしまった。
 
「忘れもんも見つかったし…俺もう帰るわ!」
 
そのまま駆け出してしまいそうだったから、慈郎はすぐ飛び起きる。
ベンチが床とこすれて軋んだ音をたてた。
 
「じゃ俺も帰る」
 
そのまま足下に置いてあったバックを肩に担ぎ、立ち上がろうとして靴紐がほどけているのに気づいた。
もたもたと紐を結びなおしている間、しかし忍足は立ち止まって動かない。
振り向きはしない背中がぼそりと。
 
「はよせんとおいてくで!」
 
口ではそう言いながらやはり忍足の足は止まったまま、ちゃんと慈郎を待っていてくれる。
嬉しくて。
慈郎は靴をはきなおすと忍足の背中に飛びついた。
 
「へへ〜、オシタリ大好きぃ〜」
 
「わっ!なに、寝ぼけんのもたいがいにせぇ!」
 
突然の背中の衝撃に、忍足の体は一瞬ぐらつくがそこは部活で鍛えられた体。
なんなくバランスを取り戻し、首をひねって背後に怒鳴る。
けれどその声はどこか本気でなく、だからこそ慈郎はぎゅうっとくっついた。
 
「え〜今はしっかり起きてるよ〜?」
 
「鏡みてみい!めちゃめちゃ寝ぼけ顔やねんで!あーもう…」

 
言葉はきついけど、本気でいっていないことぐらいすぐわかった。
だから背中から離れてすぐ、今度は隣に回って忍足の手をすくい上げる。
きゅうっと手で握り締めると大分上にある顔はそっぽを向いてしまった。
しかし振りほどいたりすることはなかったので。
 
そのまま二人は手を繋いで部室を後にした。
 
 
 
パチンと電気を消すスイッチの音。
そして部室の鍵を忍足が閉めて。
 
外に目をやれば、視界はいちめん煙るような雨。
雨音がカーテンになって耳に届くよう。
 
「わー…どうしよ、俺カサ持ってこなかった」
 
ぼんやりと、あまり困ってはいなさそうな声で慈郎が呟く。
隣では忍足が無言で立てかけてあった紺色のカサを開いた。
軽やかな音と共に影が出来て。
 
それは慈郎の上にかかる。
 
「?」
 
「しゃーないし、入れてったるわ。
ここで濡れ鼠なられても、気ぃ重いしな」
 
どこまでもぶっきらぼうに降ってくる言葉と。
それでも目はとても優しい。

 
「ラッキ〜!ありがと、オシタリ〜」
 
「忘れもんのついでやで、ついで」
 
 
 
 
 
 
まるで確認するように言いながら、それでもしっかりカサの範囲に入れてくれる。
もちろん男二人なので、お互い入りきらない肩は早くも濡れ始めたけれど、その程度の冷たさは気にならない。
じんわりしみる小さな熱は、繋いだ手から。触れた肩から。
けれど、もう少しだけそれには気づかずに。
 
 
 
パシャパシャと水たまりを避けて。
 
二人分の影がゆがんで映る。
 
 
空は灰色の雲に覆われて、雨は絶え間なく降り続き。
 
花壇に植えられた紫陽花が淡く色づいて、花に葉に雫を散らす。
 
 
どこからきたのか蛙が一匹、ゲココと鳴いた。
 
 
 
 
 
梅雨はまだ始まったばかり。