視線の強さだけで人を殺す事が出来るというのなら。
それが可能ならば。
カレはこれまでに何度、彼を常世の国へ導いたのだろうか。
何度、彼をこの世から遠ざけただろうか。

現実にはそんなことはなく。
そんな発想思想。それこそ現代社会ではありえない、非現実で非効率な考えで。
けれど時々思考の端にその幻想が浮かぶ事は避けられない。
授業の合間。部活の休憩時間。時には球を打つ瞬間。




カレは何度 彼を殺したのだろう





イカロス






眼鏡をすいと、取られた。
気付いた時には視界が急に開け、レンズ越しでない景色は眩しさを増す。
こんなことをするのは数人しか心当たりが無い。
まして今は部活中。
思い当たる一方は、先刻パートナーと共に外周に出ていくのを見送ったばかりであったので。
残るのは確実に思い描ける背中。

「仁王くん、今は練習中ですよ」

「なんじゃ、せっかく驚かしちーと思おて柳生のバックをとったんじゃけどな」

付き合いの悪い奴。
そう笑う声は響きのある、しかしこれという癖の無い声。
不思議な事だが、仁王を思い出すときは大概がその後姿だった。それはその思考に気付いた最初こそ、僅かな戸惑いを生んだがよくよく考えればダブルスを組んでいるとき必然と目にする姿は背中であったし。
そして仁王はなぜか柳生の顔をあまり見ない。意識した事は無いが、視線があったことがあまりない。

「今日はコンタクトをしていないんですよ。これでは練習にならない。返したまえ」

「テニス熱心じゃな、柳生は」

ぼやけた視界の先で、色と僅かな線でしか判別は出来ないが仁王がまた笑ったのがわかる。
手を伸ばすと、からかうように指先を乗せられた。
しかし其の先に返却を望んだものの重みは無い。

「おーチカチカしとる」

「仁王君」

僅かに風が吹く。片手に預けたままのラケットが軽く軋む。
仁王は一向に眼鏡を返そうという気がない。感じられない。
肺から一息二酸化炭素を排出し、もう一度今度はきつく名を呼ぼうとし。

ためらわれた。

主線のない世界は曖昧に全てを見せる。
色と影と光と。そんなもので構成された世界に、同じようにたたずむ仁王の横顔が。
もう一つ見知った色味を帯びた。



ああ、またころしている。

線がなくとも感じられる大きな存在感。
たとえばそれは太陽のよう。
リンゴが木から自然に落ちるように、仁王の視線はそこに向かっていく。

「まるでイカロスですね」

「なに」

声にするつもりの無かった言葉にかぎり、零れ落ちるものである。
仁王の横顔から先刻までの色味が消えた。

「眼鏡を返してくれませんかと言ったのですが」

「悪かったって、しかしかけると違うもんじゃな、やっぱり」

言葉と共に、目の前にさし出された眼鏡。
そのまま受け取ろうとしたがあっさりその手は無視されて、節ばって細い指がこめかみに触れた。
世界に線が引かれる。
曖昧さが消えて、現実が帰ってきた。

「さーて、そろそろブン太達も戻ってくるころじゃろ」

「そうですね」

仁王の言葉に相槌を返し、視線を戻せばいつも通りの背中が見えた。
後ろ髪に隠れきらない首筋に、うすく骨が浮いていた。
風がそこに触れたのを、見た。

「ところで仁王君、ラケットはどうしましたか」

「あ」

「試合になる前に負けたようなものですよ」

「はいはい」

遠ざかる背中を見つめる、いつも通りの風景。
外周のメンバーの足音が響いてくる。
コートの上に雲がかかり、足下の影が薄くなった。



レンズ越しなら、緩和できると思ったのですか。
飲み込んだ言葉が頭蓋の中でくわんと響いた。
空耳だと。認識する事を放棄した。

それは鏡のようにはね返る言葉だった。
自身にこそ毒だった。




輝くものを求めるイカロスのように、手を伸ばしたのは誰なのか。
伸ばせずに視線で殺したのは誰なのか。
殺め続けているのは誰なのか。
殺められているのは誰なのか。

レンズという無機物は、遮るものにはなりえない。


そしてカレは(私は)何度でもカレを殺す。