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そっと後ろから近づいて。 ぼんやりしているその肩に手を伸ばす。 驚くほど簡単に手中に落ちてきたそれは しかし予想と反して思い通りにはならないものだ。 【桜並木の夕刻に】 「きっ!貴様!突然何をするっ!!」 まったく唐突に、背後から肩をつかまれて引き寄せられ。 (実際には後ろに倒されそうになって) セムは怒号とも叫びともつかぬ声をあげた。 やや底の高い靴をはいてきた事がまたよくなかったのだろう、足下は後方に体をひかれた事ですぐにバランスを崩し、手が空気をかいた。 なんとか倒れる寸前でバランスを取り戻し、驚きのあまり心臓が跳ね上がったままセムは後ろを振り向いた。 そこにまったく悪びれた様子のない顔ひとつ。 「あー?だってよ、あんまりぼんやりつったってるから。 通行の邪魔だぜって教えてやろうかってな」 よく響く声は面白そうに笑いながら。 セムの視界にはいったのは、ニクスだった。 言われたことは侮辱以外の何者でもなく、セムはカッと怒りに頬が照るのを感じる。 「五月蝿い、この馬鹿力が!」 もっとも、実際ぼんやりたっていたことはいなめないし、なにしろここは天下の往来であった。 ざわざわと人のざわめきは彼ら二人を無視して流れている。 太陽はもう大分斜めに傾き、街路樹の桜が季節に似合いの花を咲かせ足下を薄桃色の絨毯にしたてあげていた。 それを踏み鳴らし歩く人・人・人。 帰宅ラッシュのまっただなかにあって、彼らだけが灰色の世界から浮いていた。 セムの怒鳴り声ももう慣れていたニクスは気を悪くするどころか、顔を真っ赤にして怒るその様子が面白くてたまらないらしい。 きししと無粋な笑い声を噛み殺すこともなく、それがより一層セムの怒りを煽っている事にわかっていてやっている。 確信犯だ。 からかわれているのに流石に感付いたのだろう、セムはますます機嫌を悪くした。 「目障りだ!さっさと視界から消えろ!」 一際大きく怒鳴って。 そしてはたと気づく。 周囲の人々の視線のいくつかが、いつのまにか彼らに向けられていた。 もとい、セムに向けられていた。 セムの発した声は、日ごろ変化のない世界に身を置く人々にお茶の間の話題をごっそり提供したようなものである。 はやくもそこそこから『痴話げんか』『借金取り』などあまり耳に嬉しくない言葉の端々が聞こえてくる。 羞恥にどうしていいものか、セムがカチカチに固まってしまった頃あいを見て、ニクスはセムの腕を取りぐいと引っぱった。 そのまま人の視線をすり抜けて、地下街へと降りていく。 しばらくは彼らを視線でおった人々も、二人が階段を降りて姿が見えなくなると興味を失ったようにまた灰色の世界に戻っていった。 ********** 「おーい、正気づいてっか」 耳元でそう言われて、セムは意識を急激に取り戻した。 そしてこの男の前であんな恥をさらしたのかとおもうと、瞬時に顔が青くなる。 とんでもない失態だ。26にもなるという男が。 『うう』とうめいて唇を噛み締めると、ニクスは面白いものを見たというようにニタニタする。 その笑みは昔妹に読んでやった「不思議の国のアリス」に出てくるチェシャ猫を思いださせた。 「笑うな!くっそ、貴様のせいでいらぬ恥をかいたではないか!!」 なにもかもがこいつのせいだ。 実際独断偏見の多いセムの頭は、軽くその答えをはじき出した。 怒りと羞恥にまかせて再び怒鳴ってしまい、先刻の事態を思い出して口元を抑えた。誰だって好き好んで衆人観衆の的にはなりたくないものだ。 パッと口元に手を当てたその様子がまたおかしくて、ニクスは笑いを深くする。 「安心しろよ、このあたりはまだ工事中の出入り口付近だからほとんど人はいねーんだぜ」 周り見てみろって。 付け加えられ視線を泳がせて。 なるほど、周囲にはほとんど人影はなくほんの数メートル先に『工事中』というフェンスが立っていた。 地下道ということで声は少々耳障りな程度には響いたが、ひとまず安心は出来た。 安堵でセムがため息を一つ漏らすと、そこへニクスの面白がるような声が飛び込んでくる。 「けどまあ、あんたの妹が知ったらどう思うだろうなぁ〜。 麗しのお兄様は今日、大通りで人目もはばからず痴話げんかを繰り広げました。とかさ」 「き、貴様!脅す気か!!もとはといえば全て貴様のいらんことのせい!」 妹の一言に、青かったセムの顔が一変、真っ赤になって怒鳴り散らす。 感情の急激な変化に、そして予想通りのセムの反応に、ニクスは笑みを納める事が出来ない。 「青くなったり赤くなったり、忙しい奴だな。 ま、脅しなんて思いつきもしなかったけど、いい方法を教えてくれたじゃねぇか」 言葉と共に肩に手をかけられて、セムは初めて自分の言葉が失言だったと思い知らされる。 しかしもう遅い。一度口を離れてしまった言葉はどう取り繕っても戻ってはこないのだから。 肩に置かれた手がわずらわしくて、いらだつ気持ちを抑えられないままセムは低く唸る。 「何が望みだ。金か、それとも服か」 「服ってのも魅力的だけどよ?」 服ではないと言外に言われてセムは顔をしかめた。 「では金か」 「いんや、こっちのほう」 睨んだままのセムの顔をニクスの手がすべり、後頭部にまわされて。 言葉を言い終わるや否や、ニクスはセムの唇へと自らの口を押し当てた。 「っ!!」 当然、セムはそんなことをされるとは思いもしない。 あまりに突然のことに反応できず、目を白黒させるばかりだ。 それを好機として、肩に置かれていた手はいつのまにか腰まで下り、後頭部にまわした手と共にセムの体を強く引き寄せる。 自然、唇もより強く押し付けられる形となり、髪を掴まれる感覚にセムはようやく我にかえった。 「うむぐっ…きひゃむっ!」 おそらくセムは『貴様』と言いたかったのだろうが。 唇を抑えられているため上手く言葉にならない。舌ったらずとも聞こえるそれは、ニクスを付け上がらせるだけだった。 自由になる両手でニクスの肩を押し返そうとするが、石のように重くままならない。 やがて唇に濡れたものが侵入しようとする動きを鋭敏に感じて、セムの抵抗はよりいっそう激しくなる。 歯を食いしばり、なにものの侵入もはばもうとした。 しかし後頭部にあった手が顎を掴み、むりやり口を開かせようと力を入れる。 ほんの少し隙間が出来た瞬間、ニクスの舌がセムの口内へねじ込まれる。ぐいと押され、ついで口内で暴れられ。 セムはパニックになった。 「んっ!んふぅ…む…」 意図もしない声がついて出る。 息苦しさに空気を求めようと口を開けば、余計に自分のものでないモノが入り込んできて、苦しさは増すばかり。 生理的な苦しさから目に涙が滲みかけてきた頃、ニクスはようやくセムを解放した。 「はっ…はあっ…はーっ」 ドウと肺に送り込まれる酸素。息を荒くついて空気をむさぼるセムの様子にニクスは忍び笑いをした。 セムはただ呼吸を落ち着けようとして、顔を上向きにしていたのでその表情は見えない。 肩が上下に揺れ、背中にいつのまにか堅い無機物の感触を感じる頃、ようやくセムは落ち着いて息を吐くことが出来た。 落ち着けば見えなかったものが見えてくる。 セムの中に沸きあがったのは、強引なことはこびをしたニクスへの怒りだった。 ギッと視線をニクスに向ける。 けれど、見据えた彼の表情は変わらず笑ったまま。 「息は口ですんじゃなくて、鼻ですんだよ。 お前なにか?もしかして初めてでしたとか言うんじゃねー?」 図星であった。 正直すぎる頬が真っ赤になってそれを肯定する。 「五月蝿い!この変態色情魔!見境なしの変態が!」 「お前、自分で墓穴掘ってることにきづいてっか? ま、これで今回のことは秘密にしといてやっから、いいだろ。キスの一つや二つ。安いもんじゃねぇか」 と、お前は初めてだっけ。 付け加えられて、恥じ入る事すら出来ない。 わなわなと震え始めるセムにポンポンと軽く肩を叩いて背を向けるニクス。 足取りも軽く、歩き始める。 しかし、数歩歩いたところでニクスはふいに振り返った。 忘れものを確認するような顔で。 「そういやぁ、お前なんだってあんなとこでぼんやりしてたんだよ」 ごく自然な疑問だったのだろう。 問われて、怒りと苛立ちばかりだったセムの表情がふいに静まった。 水鳥が飛び立った後のあわただしい水面が、突然平面になったように。 すっきり通る声が一言だけニクスの耳に届けられる。 「もうすぐ、両親の命日だからな…桜は思い出させる」 もっとも貴様には何の関係もないことだが。 フンと顔をそらされて、ニクスも一言「そうか」と呟いただけだった。 曖昧な沈黙と、声の反響してのびていく音だけが低い地下道に残っていた。 ********** 後日。 ROOTS26店内にて。 「兄さん。この前天下の往来で、ニクスさんと痴話げんかなさっていたというのは本当ですか」 「ブッ!」 店番をしていた愛妹になんの前触れもなく問われ、口にしていたコーヒーを思い切り噴出したセムであった。 問い詰めたところ、あの場所にDOVA帰りのサイレンがいたという証言まで取れてしまい。 セムの髭への憎悪はよりいっそう激しいものとなったとか。 もちろん、この情報はウワサ好きの女子DJ達から伝わったものであったらしいのだが…。 end |