|
コンコンと 空気を食(は)む 咳払い 「うんっ、んん!」 喉を抑えて、何度めかの咳払い。 眉を寄せて瞳はあちこちへ。 苦渋…という言葉があてはまるかもしれない。 そんな気持ちで、目の前で先ほどから空咳を繰り返す彼を見ていた。 「喉、痛いんだ?」 ぼんやり問いてみる。 視線がツ…と絡み合って、赤い瞳がじんわり和らいだ。 「ちょっと昨日からな」 いつ頃からか、彼は時々こんな柔らかな表情を見せてくれるようになった。 それは夕食の時であったり、他愛もない会話をしたときであり。 また、夜の時間にもあったように記憶する。 はじめのうちはそれこそ慣れず、そんな顔を見せられるたびにドギマギとしていたものだが。 今ではその空気に触れて、返せるだけの柔らかさが自分にも出来たように思う。 「また、納期の迫ってるヤツ?」 ちょん、と指差した先は、彼の手の中で今生まれようとしている衣装の卵。 まだ針と糸と、何より彼の手を必要とする存在は、深いアイボリーの作業台の上で眠っている。 その流れを一筋、いとおしげに触れるその動きに嫉妬する。 「今週末までだ。急に予定が早まってな。 まぁ、後もう少しだし…」 言いながら、再び彼の手は動き始める。 その卵のためだけに動く。 その瞬間だけは彼は別の世界の住人。ただ、それを空気のガラス越しに見るだけの自分。 「そう言って、こないだも身体壊したくせに」 別に批判しているわけではない声音。それが彼にも伝わる事をもう知っている。 でも、心配はしてもいいはずだ。 何しろ彼はこの冬、限界以上の仕事を入れて出来上がったその日に倒れたのだから。 「アレは不可抗力だろう?」 やはり微笑む。視線は手元に置いたままで。 彼の眉から、癖だと思っていた皺が見えなくなったのはいつ。 「不可抗力でも何でも…目の前でぶっ倒れられたら寿命が縮まるよ」 わざとふくれて見せる。 背もたれのない椅子を足で漕ぐ。 重力に逆らうように、いったりきたり。 「それは悪いことをしたな」 彼は別段悪いとも思っていないだろうに、そんな風に言ってみせる。 言葉ばかりの空のものなのに、こうしてやりとりを出来る事が今。とても嬉しい。 「悪いと思ってないくせに?」 キッキッと椅子は鳴る。 針が縫い進むたびに、小さく衣ずれがする。 何かの拍子、角度をかえて傾いだ彼の頬に黒い髪がパラリと落ちた。 どうあっても、惹かれる瞬間というのは訪れる。 特にそれに対し、何をするということもないけれど。 「そこを突かれると…んん!ぇん!」 ふいに、高くなり掠れて空気になる声。 次いで咳払い。 ひゅっと空気の動く音。 「ぁ、あー…まずいな」 「悪くなってるよ」 まずいといいつつ、療養しようという気にはならないのだから。 彼の周囲の人間は苦労する。 なにより幼少の頃より妹を一人で育て上げた男だ。自分の体調がどう周囲に影響するかなどわかりきっている。 でも、だからこそ休暇などとらず。常と同じ生活をしたままに、それこそ誰にも気づかれずに治そうとする。 少しは、頼って欲しいのだ。 相変わらず作業を続ける彼を見つめながら。 行き場のない手をポケットに突っ込んだ。 そして指先に感じた堅い感触。 コツンと当たるそれは、先日仕事場で仲間にもらった小さな飴玉だった。 袋入りのそれは、小さなサイコロのような形で二つ並んで入っている。 取り出して見ると、蛍光灯の下でそれは黄色と赤の2色に映った。 膝の上で器用にそれを開け、赤をつまんで口に運ぶ。 人口的な甘味が口の中に広がって、舌先を焼いた。 ころころと転がすと、角があちこちに当たって面白い。 彼はまだ、咳払いをしている。 作業は滞るという事をしらない。 「セム」 「ん?」 呼び声に少しだけ視線を向ける。 疑問を表した唇に、指でつまんだ黄色い四角を運ぶ。 「なんだ、これは」 「飴。喉痛いんだろ?」 くいと唇に軽く押し当てると、彼は視線でだけそうかと頷き。 それを口内へと招き入れた。 小さなサイコロは、コロリと転がって消えていく。 指の腹で、ほんの一瞬唇をなぞって離れた。 「…レモン味だ」 おそらく舌先で転がしているのだろう。 そんな風に答える言葉。 「治りそう?」 「ん、ありがとう」 視線はもう戻ってこなかったが、感謝の言葉を耳に届けてもらった。 なぜか妙に嬉しく、気恥ずかしさもまた共にあった。 手近にあった本棚に入れられている蔵書を、タイトルも読まずに取り出して開いた。 あてずっぽうであけたそこには、ちぐはぐな文書ばかり。 略図が多く、理解する事もあきらめて、図形を柄として眺めてみたりした。 パラッパラッとページがめくれる音に、衣ずれが重なって。 「しかし、甘いぞ。これは」 かけられたのか、呟かれたのか、判断のできない囁きに。 反射的に視線を追うと、降ってきた笑顔。 に。 心臓が跳ねて。 また恋をする。 何度でも。 いつまでも。 恋をする。 恋をする。 恋をしている。 貴方と。 ガタガタと窓ガラスを揺らす風は 春の訪れを高らかに謳った 了 |
|
ひさしぶりのクジャセムです。 出来上がりきった二人という感じで。 終わり方が毎回同じようなパターン(これをマンネリという)なので、そろそろ新しいおつむにしたいですね。 この二人が好きです。 『孔雀』らしき表記は一度も出てないですが;; |