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向けられた背中。 とりあえず、見なかったことにしようかと思った。 小 さ な 窓
一歩踏み込んで、南は思わず足をとめた。 それは別に急用を思い出したとかではない。むしろ、いまこの場にいることこそが、ある意味急を要することなのだが。 何気なく前方を向いた視線が捉えてしまった後姿に、帰りたいと思っても仕方ないだろうと嘆息する。 すると、そんな南の気配に気づいたのだろうか。 前方にいた人影が前触れなく振り返った。 「あっれ、南」 「…よぉ」 気の抜けたような明るい声。 そして、南の姿を見止めて丸く開かれた瞳と、口元。 あまりにも良く知った姿。 「千石、お前なんでこんなとこいるんだ?」 南の問いに、千石はまだ顔だけ振り向いた状態で首を傾げた。 「南こそ、なにしてんのさ… ってこんなとこなのに、それ聞くのも野暮?」 「…野暮だな」 うめくように相槌をうつ南の足下には、はがれかけたタイル。 左手には鏡が3枚、整然と並んでいる。その下には小さな洗面台。黄ばんでいる。 けして高くない天井につけられた蛍光灯は、その一本の寿命を惜しみジジ…と時折鳴いて。 入り口の南と、一番奥の千石の間に並んでいたのは、男性が用を足すのに都合のいいもの。 こんなところに、用事がなければ入る人間など滅多にいないのではないだろうか。 南はしばらく眉を寄せた後。 ふいに先刻までの体のうったえを思い出して、迷う。 眼前にはあいかわらず顔だけをこちらに向けている千石の姿があって。 目的をはたすためには、彼の近くまでいかなくてはならない。 おまけに他に誰もいないのだ。この場所で。 「どうしたの?ひっこんじゃった?」 「五月蝿いよ」 グルグルと同じ事を考え始めた(人はそれを堂堂巡りと呼びます)南だったが、そこへからかわれるような物言いをされ。 瞬間的にムッとした。 (なんで、コイツがいるからって意識しなきゃいけないんだよ) 眉を寄せて、自分の考えを放棄して。 南は入口で止まったままであった足を動かし、千石の近くまで歩み寄る。 いや、あくまで目的の場所まで移動したのであって、千石の傍によるためではないのだが。 意識すれば気になってしまう。 南は内心で意識するなと何度となく呼びかけ、手馴れた動作に集中する事にした。 こんなことに集中するというのも、大変微妙ではあったが。 千石はまだ顔だけを向けている。 けれどそれは、視線を外した南にはわからないことで。 「う〜ん、南くんの生を拝んじゃったよ〜!」 「言うな馬鹿!ていうか見るな変態!!」 なのに、耳に飛び込んできた声に否応なく存在を押し付けられる。 しかも言うに事欠いての内容。 南の眉間の皺が一本増えた。 おもわず怒声にも近い声で返すが、千石に動揺したようなそぶりは見えるはずもなくて。 とにかく手早く終わらせて、南はさっさとここを立ち去ろうと決めた。 千石に背中をむけ、手洗い場の蛇口まで行き力を込めて回せばすぐに水が流れてきた。 節水、というのか。いくら蛇口をひねってみても弱弱しい水流に手をさらして。 ズボンのポケットからハンカチを出すと、また五月蝿い声。 「へ〜!南はハンケチを常備してんの」 「なんだよ、悪いか」 「いや、まめだね」 褒めているのか、けなしているのかわからない。 いや、千石の顔は笑っていたのできっとけなしているのだろう。 少し濡れたハンカチを再び4つ折にして、ポケットにしまいその場を立ち去る。 つもりでしかし、そうなる前に南は千石に再び声をかけられる。 「なんだよ、南は俺がここにいるわけとか知りたくないわけ?」 「別に興味ないよ」 本当に興味が無かったので、あっさりとそう返すと、千石は笑った。 「つまんないなぁ、適当でもいいから当ててみなよ」 「なんで俺が」 「ここに来たのも何かのご縁ってことで! とりあえず、南が思いついたもの言ってみてって」 こちらの言い分などどこ吹く風。 千石はにんまり笑って子供の顔で、南をせかす。 けれどやはり顔だけしかむいていないのが気に触って。 「トイレだろ」 「ブー。30点。普通すぎる。地味だよ」 こめかみのあたりがピリピリする。 口を尖らせて点数をつける千石が、とても憎たらしく見えてしまう。 時折見せる子供のような仕草が可愛いと、時々何をとち狂ったのかそんな声も聞くが。 南はそうは思わない。 もう立ち去ってやろう。という南の思惑はしかし。 それを読んだかのような『ジミーズは地味な答えしかでないね』との揶揄に、阻まれた。 深い溜息一つ。なるべく平常心、と思って言葉を選ぶ。 「…タバコか?」 「それもはずれ。でもタバコは実は持ってるよ。 南、吸う?」 ガサガサとポケットをさぐる仕草に、南は手を前に出して止める。 「いや、吸わないし。つかお前それでも部活する気あんのかよ」 「出ました、部長的発言」 「お前に真面目に向き合おうとした俺が馬鹿だった」 時間の無駄としか思えない。 南は今度こそ、この場を立ち去るために背を向けて歩き出す。 一歩。 二歩。 三歩目の前に、背後からまた声。 「俺はね、南。この窓から見える景色が好きなんだよ〜」 三歩目は出しかけて、しかし止まった。 振り返ると、千石は窓に手をかけて笑っていた。 「何にも見えないだろ。別に。すぐ目の前、隣の棟の壁じゃないか」 この場所は、特別教室の棟に位置する。 すぐ向かいには通常教室の棟があって、渡り廊下で繋がっている。 空気とりのために作られたのかどうかはわからないが、普通の窓に期待するようなものは見えないはずで。 「見えるよ。灰色と茶色の微妙な壁と、横長の小さな空が見えるよ」 ふざけているのか本気なのかわからない返答。 思考が読めない、笑み。 脳裏に記憶されていくそれらが、位置付けられない淀みになって積み重なる。 溜息を一つ。 それらを乗せて吐き出すように、深く。 「どうでもいいけどさ。 お前、ずっといるとここの臭い移るぞ」 お世辞にも綺麗とは言いがたいこの場所。 しかし。 「じゃーん、8×4−!ぬかりはないよ」 どこから出したのか、掌サイズのスプレー缶が千石の手に高々と。 そこまでして、ここにいる。 その『好き』が南には理解できない。 「もう次の授業はじまるぞ」 「んーどうしようかな」 予鈴は当の昔に鳴っているというのに。 千石はまったくその場から動く様子も無い。 それを見て、これ以上はつきあいきれないなと、南は再び背を向けた。 「お前、本当わけわかんないなぁ」 そんな一言を残して。 一歩。 二歩。 三歩、四歩… 遠ざかる。 そうして。 南の姿がなくなった狭い部屋に。 「でも俺は、好きなんだよ」 その言葉は誰の耳にも届くことなく。 響きさえせずに。 終 |