「…せんごくっ…」 
 
 
上ずった声は、それだけ彼の動揺を示しているようだった。 
 
 
「…南」 
 
 
返す声も、実は底の方で震えていたなんて。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そんな馬鹿馬鹿しい、二人。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
僕 ら の 冬 は  夏 に 来 た

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「どうしたの?こんなとこで、珍しいね」 
 
長いのか短いのか、硬直時間から先に現実に帰ってきたのは千石だった。 
勤めて平静な声を出そうとしていたためか、彼の声はいつになく硬い。 
明るさの抜けた声は奇妙な静けさを持ち、笑いきれなかった口元と相まって南の眼前に差し出される。 
南はといえば、そんな千石に余計に喉が乾くような緊張を覚えた。 
緊張、などという言葉を目の前の存在に使う日が来るなんて…南はまとまらない思考でそう感じる。 
けれどこの体に落ちてくる、隠しようも無い変化はその二文字からのものでしかなく、だからこそ何故と問いたくなり、あとは思考の袋小路。 
知らず、鞄を持っているほうの掌に力がこもる。 
 
南が言葉を返せずにいるのに、千石はもう大分予想していたというように息を吐いた。 
それは別に侮蔑や非難など含まれていないごく純粋なものであったが、それでも南の肩を震わせるには十分すぎた。 
 
 
 
 
ああ、どうしてこんなところに? 
 
どうしてこんな時間に? 
 
 
 
 
 
二人が立っていたのは、いつかの日と同じ場所。 
長い廊下の、中途半端に過ぎたところ。 
窓はあの日と同じ夕暮れをさして、けれど少しだけ鍵の開いたそこから聞こえてくる蜩(ヒグラシ)の声に季節の移ろいを感じさせずにはいられずに。 
長い影はお互いに繋がる事も無く、まっすぐに伸びている。 
 
 
「お前こそ…こんな時間までなにやってたんだ?」 
 
ようやく吐き出された声は、少しだけ過去に引きずられていた千石の耳に届いた。 
まだ僅かに動揺が残っているとわかるようなものではあったが、だからこそ余計に彼が平静を勤めようとしているのがわかって。 
痛い。 
 
「俺?俺は、ちょっといい天気だからーって屋上の日陰で昼寝してたらこんな時間」 
 
事実、そのとおりだったので流石に自分の抜け具合に苦笑が浮かぶ。 
へらっとしたそれがいつもの千石であるとおもったのだろうか、そこでようやく南の肩から力が抜けた。 
 
「もう昼どころか夕方…夜だぞ。お前さては午後の授業…」 
 
「あーそれ以上はいいっこなしだよ、南!」 
 
「お前留年するぞ」 
 
「ラッキーだから大丈夫だって」 
 
テンポのいい掛け合いは普段と同じ。 
気の置けない友人としての、会話。 
それに酷く安堵を覚えたのは…どちらだったのだろう。 
 
「そういう南こそ、どうしたのさ?こんな時間まで。もう門締められちゃうよ」 
 
「部活の引継ぎのことでちょっとな」 
 
「バンジイ話長すぎだからねぇ」 
 
「そうだなぁ」 
 
呟きながら、南はふいに背を向けた。 
何事か?と千石がその背を見つめていると、南は僅かに空いていた窓に手をかけた。 
カラカラ…と小さな音がして、ガラス窓がきっちりと閉められる。 
少し固めの鍵を力を入れて上げると、先ほどまで五月蝿いぐらいだった蜩の声がぴたと止んだ。 
もっとも実際は止んだのでなく聞き取りにくくなっただけだったのだが、ふいに訪れた沈黙に近い静けさは場の空気を平坦なものに変える。 
 
お互い、何を話したらいいのか。 
そんなことを考える事自体がおかしいことに、気づきもせずに。 
二人は口をつぐんだ。 
南はいまだ窓に手をかけたまま。 
千石はその背を見つめたまま。 
時間だけが過ぎていく。 
 
 
そして窓の外、夕日がもう少し落ちた頃合。 
とんとん、と南は肩を叩かれて反射的に振り返った。 
その先にいたのは当たり前ではあるが千石で。 
存外にその顔が近くにあって、いまだ遠いとは言い切れない場所にしまいこんでいた記憶が顔を出しそうになる。 
ひくっと南の喉が言葉を発する事も出来ずに鳴ったのを、千石は見なかったふりをした。 
そしてゆっくりと笑う。 
 
「もう帰ろう、先生に怒られるよ」 
 
柔らかな物言い。 
笑みと共に押し付けられるのでなくそっと手渡されるようなその感情に、南は不意に泣きたくなった。 
驚いたのは千石で、見てわかるぐらいがちがちになっていた南が急にそんな表情になるものだから、どうしていいのかわからなくなる。 
 
「みなみ?」 
 
どうしたのか、という言葉は続かなかった。 
聞くだけの勇気がなかった。 
 
「…なんでもない。帰ろう」 
 
ゆっくりと吐き出した言葉を紡ぐ頃には、もう南の表情は戻っていて。 
 
だから千石は何もいえないまま。 
もっとも、言える状況だったとしても口に出すことなど出来なかっただろうけれど。 
曖昧に頷いた。 
 
 
歩調をどちらにあわせるとも無く、なんとなし隣に並んで。 
肩を付き合わせればその高さの違いに小さな距離。 
 
ポケットにいれるでもなくぶらりと下げたままの手は、隣にある体温を指先の皮だけで感じていた。 
 
ちりちりと感じられないはずの熱が、暑さの残る屋内で脳を侵食する。 
かすめるような熱のやり取りに気づかないふりをして。 
触れ合ってしまっても、その理由を見つけられないから。 
 
けれど鞄を持ち直す事も出来なくて。 
靴が鳴る。 
鞄の中からカチャカチャと、ペンのぶつかり合う音が小さく響いた。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
僕らの冬は 夏に来た 
 
 
 
そんな言い方をすると まるで安っぽい恋愛小説のようだけれど 
 
 
この 心臓が芯から冷えるような空気とか 
 
それでも温もりが欲しいと思ってしまう指先があるから 
 
 
これはやっぱり 冬到来 なんだろう 
 
 
 
 
 
 
今日も蝉は せわしなく鳴いている 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  終