向日葵
いつもはこの屋敷までの道のりがまどろっこしくて仕方なかったというのに、 今日はどうしてこんなにもすぐたどり着いてしまうのだろう。 目の前に立ちはだかる巨大な屋敷を見上げ、彼は心の中でそう呟いた。 先にツラいことが待ちうけている場合、よく『足取りが重い』なんて言ったりするけれど、 いくら『足取り』は『重』くとも歩くスピードは普段の3倍速くらいなのではないか。 たどり着きこんなに重い気分になるくらいなら初めから来なければよかった、 なんて思ってみたりもするけれど、既にこれは日課と化していて、 そうでなくともこの屋敷の女王様が――決して口には出さないだろうケド――自分という存在を 心待ちにしてくれているだろうから、そんなこと考えたところでどうにもならないわけだけど。 「ウソ、だよねぇ………」 ため息交じりの声は人気のない夜道にぽつんと響き、 月すらも追いかけっこで忙しいらしくそのぽつんを聞き取ってくれているようには見えなかった。 別にここへ訪れる時間というのはいつも全く定まっていないから、 少しくらい時間がずれたって何も支障はないだろう。 そんな考えのもと、ロキはつい先ほどのことを思い出し歩きながらでは うまくできなかった頭の整理をすることにした。 それはつい数時間前、全く予期せぬできごととして起こった。 カチャン ナイフとフォークが皿の上に転がり落ちる。 「オ、オーディン、今さ、何て言った??」 先ほどまで無邪気な笑みを浮かべていたその頬は青ざめ、瞳はいつもの倍くらいに見開かれていた。 久々に酒でも交わしながらお互いのことを語らないか、そう言われてロキはこのテーブルに座っている。 それはそれは久しぶりだったので、心も軽く浮かれていた。 想像通りの高級な料理が振舞われ、募る気持ちに会話は途切れず、緩やかな暖かさがそこに存在していて。 なのに。 オーディンは低いトーンで繰り返した。 「人間界へ、行ってくれ」 カチャカチャと音をたてて銀の刃は肉を切り裂き、同色の槍はそれを残酷に貫いて主人の口へ運ぶ。 ロキは拳を握って怒鳴るような声をあげた。 「どーゆーことかわかんないよっ。人間界は今安定してるし、ボクだってここ一ヶ月くらいは大した悪戯も してない。なんで人間界なんてっっ」 「そんなことは関係ない、ただ今は………」 「フレイヤ?」 ロキがその名を瞬間、オーディンの空気の色がくるりと変わる。 穏やかなそれが、突如波立った。 「何を言って――」 「フレイヤのことが、関係してるんだね」 睨み上げるロキの瞳に、オーディンはついと視線を逸らす。 「違う、そういう訳では―――」 「そーゆーことだろっ?!ボクがフレイヤとよく会ってるからっっ!」 「違う………っっっ」 「違わないね!!ボクとフレイヤのカンケー疑ってるんだろ!」 「……違うといったら違うっっっ!!!しつこいぞ、ロキ!いいからお前は人間界へ行け。命令だ」 「……っ」 絶えかねたオーディンは怒鳴り声をあげた。 恐ろしいほどのトーンにビクリと震えるロキの肩。 ガタン これ以上歯向かったところで先は見えている。 ロキは立ち上がり、メインディッシュを半分も食べぬままにこのテーブルから去ることを決意した。 「………そー。違うんなら言うけどさ、ボクは別に、フレイヤとのカンケー否定する気はないからね」 敢えてそんな捨て台詞を残して。 「はぁ」 溜息をついても状況は変わらない。 後悔することもないが、どうにかしてあの場を変えることはできなかったのか。 いつもならもう少しくらいは考えて行動できていたはずなのに。 月が先ほどよりもずいぶん高くなっている。 呼び鈴を鳴らしてメイドが出てくるのを待って『少々お待ちください』とか言われてまた屋敷の中に戻って いってフレイヤの返事を聞いてまたここにメイドが出てきて『どうぞお入りください』と言われて屋敷の中に 入って彼女の部屋まで走って行っちゃいたいのにゆっくりとメイドに案内されながら、やっと女王様に会える まで平均12.7分。 デカい家なんだからもう少しくらい手間を惜しんでもいいと思うのだけれど。 今そんなにも時間をかけていたら、それまでの間に逃げ出して帰ってしまいたくなる。 「めんどくさいんだよねー」 彼はそう言うが早いか、ハエに姿を変えていた。 いつかそうやって忍び込んだことがあったかなかったか。 以前見つけた針がやっと通るくらいの穴を見つけ、入り込む。 そして彼女の部屋まで飛んでいきその存在を確認すると、その変身を突然解除した。 「や、フレイヤ」 今の今までハエであったことなど微塵も感じさせぬ笑顔を浮かべて。 フレイヤが叫び声を上げたというのは、言うまでもない。 「今日は遅かったわね」 そう言いながら、フレイヤは見たこともない食べ物を差し出した。 皿にカフェオレ色の丸いものがのっかっていて、小さなスプーンが添えてある。 お菓子のようだ。 「へーv待っててくれたんだぁ」 いつものテーブルに肘をつき、それをスプーンにすくって舐めてみる。 冷たくて甘くて、ちょっとだけ苦い。 「ちっ、違うわよっっっ!あんたが毎日来るから今日も来るんだろーなーと思ってただけっ」 ロキの好きなコーヒーの味がしてこちらに夢中になりそうであったが、 フレイヤの顔があまりにもかわいかったので結局そっちに釘付けだった。 「ふーん、まあ何とでも言ったらいいけどね」 わざとニヤッて笑ってやる。 「何よそのカオっっっ!!あたしは………」 ロキはこのノリが大好きだ。 「どーでもいーけどさ、これ、おいしーねv」 「………っ」 この悔しがる顔がなんともいえないらしい。 悪趣味極まりない。 しかしフレイヤとていつまでもそうしているわけにもいかず、気を取り直して口を開いた。 「コーヒークリームっていうらしいわ。兄さまが買ってきたのよ、人間界で」 ロキは、ペロペロと舐めていた舌を一瞬止める。 「…………。人間界、ね…」 もう少し忘れていたかったがそうもいかないらしい。 遅くとも早くとも大差はないはずだ、フレイヤにつけてしまう傷は。 彼女は何も知らず、不思議そうにロキを見つめている。 その様子がかわいらしくて、ロキは思わず微笑んだ。 「人間界に行かなきゃいけないらしーんだよね、ボク」 「……っっ!?」 彼の思ったとおり、フレイヤは笑ってはいなかった。 時の流れが止まったかのように瞬きもせず、血の流れが止まったかのように身動きもしない。 ロキはわざと、微笑んだままでいた。 彼女には悪いがこれも自分のため―――取り乱してはほしくなかった。 そうすればきっと、自分こそものすごく見苦しい醜態を曝け出してしまいそうだったから。 できればこんな気持ちには気づかず、自然と思い通りに流れてほしい、そう心で願いながら。 彼女は、その通りに在った。 「……いいんじゃない?わ、私には関係ないわ」 眼を逸らして、まるで大好物であるかのようにそのコーヒークリームとやらを食べだした。 そういえばこのお菓子も、きっとロキが来るからといってわざわざ食べずに残しておいてくれたのだろう。 「そーだよね、うん、確かにフレイヤには関係ない」 ロキもコーヒークリームを食べた。 こんな微妙な時にもその甘さと冷たさ、そして苦さは変わらないのだろうと思う。 ただ今は美味しいと感じる心が失せてしまっているだけで。 ただ今は全ての感覚が、目の前の美女の表情だけに集中してしまっているだけで。 「そーよ、関係ないわ」 嘲笑うようなその瞳、無関心とでもいうようなその唇、 ここまでは予想通りだったのに、 ここまでは期待通りだったのに。 計算ミスは、そのわずかに震える指先。 「………やめてくれない?」 いつの間にか、ロキは俯いていた。 「何よ」 「否定しなかったコト、本当に否定できないよーにしちゃいたくなるんだよね」 カタン そう謎の台詞を載せるが早いか、ロキは立ち上がり向かいに座っていたフレイヤの頭を引き寄せて―――。 「ガマン、できなくなっちゃった」 笑みの欠片もないようなその表情で言うと、遮る間もなくそれは触れ合った。 否定しなかったコト―――オーディンへの捨て台詞。思いっきり肯定してやりたかったコト。 ロキは唇を開放してやったが、その後数秒間は頭が回らないらしく、フレイヤはそのまま固まっていた。 「ゴメン、これ以上はしないから」 コーヒークリーム最後の一口を立ったまま口へ入れると、ロキはハエに成る準備をしようとする。 と、フレイヤがすとんと椅子に座り落ちて口を開いた。 「ねぇ」 怒ってはいないらしい。 「なに?」 それが少し嬉しくて、ここからは硬派な邪神サマでいこうと思っていた決心は儚くも崩れ去り、 笑顔がこぼれる。 「なんで…、あんたが行かなきゃいけないのよ」 さっきのキスで、彼女のベールがはがれてしまったのかもしれない。 切なげな瞳がロキの全視界を征服していた。 「敢えて言うんなら……、そだなぁ、オーディンには絶対奪われたくないものがあったっていうだけだよ」 にこりと笑ってそう言ったかと思うと、ロキはもう飛んでいた。 NEXT