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向日葵



 斜陽。  そろそろ時間だ。  フレイヤは窓の向こうにあるグラデーションを気にしながら、身支度に取り掛かった。  淡い水色のドレスに腕を通して、薄い色のパフを叩いて、ローズピンクのルージュを引いて、細かな装飾 に覆われたのオルゴール箱を開けば艶やかな輝き―――ブリーシングの首飾り。  取り出し首に当ててみると、ふいにドキッとする。  そういえばいつか、どこぞの邪神がこの首飾りを盗みに来たっけ。  出かけようとこの首飾りの金具を遊ばせていると、『不器用だなぁ』とかいう声と共に背後であの男が現 われたりしたこともあった。  ついでに言えば思いっきり殴ってやったというエピソード付きである。  今ごろ何をしているのかなんて、考えるのも馬鹿げたこと。  どうせ生きているのは判りきっているのだから、放っておいてもそのうちひょっこり帰ってくるだろう。  ………なんて思ったりし続けてはや半年。  大した変化の無いこの世に、―――良くも悪くも―――最も彩りを与えた彼が居ない今、たぶん人間なん かよりずっと長い日々を過ごしているんだと思う。  橙色の空気は変にぼやけて、不規則に揺れていた。 『敢えて言うんなら……、そだなぁ、オーディンには絶対奪われたくないものがあったっていうだけだよ』 「ンもぅ…、帰ってきたら思いっきりぶっ飛ばしてやるわ………ッッ」  髪を掻きあげてまさに沈まんとする陽にそう誓うと、フレイヤは部屋を後にした。 「よく来たな」 「呼んだのはアナタでしょう?」  座ろうと思えば20人は座れるのではないかと思うような長いテーブル。  重いドアの両端にはメイドが人形のようにして立っている。  椅子に近寄れば片方のメイドが打ち合わせをしたようにスタスタと寄ってきて、無表情に背凭れの長いそ れをさっとひいた。 「ありがとう」  長い髪を軽く払って、慣れた椅子の心地はいつもとやはり変わらない。 「今日は幾分、機嫌が悪いようだが?」  グラスに血を薄めたようなワインを注がせながら、オーディン。  片方の眼で貫くように、フレイヤを見る。 「気のせいではないかしら?」  前を見ることも無くこちらでも注がれた色の無いワインを口に含み、舌先で躍らせてから喉へ通した。  今まで何度来たことかわからないけれど、一度だって彼と同じものを飲んだことは無い。  いつ聞かれようとも彼女は「偶然よ」とだけ答え、彼が何か繕うように他の話題を振るまでは何も言わな かった。  四度目か五度目くらいで学習したらしく、今では敢えて自分の飲むものとは違うものをメイドに出させる。  これくらいでフレイヤの満足が得られると思ってはいないだろうし、当然フレイヤもそれに何か口を働か せたりはしない。  名目上の立場こそオーディンが上に座っているものの、事実上のそれに於いて、どちらが上とつけるもの はいなかった。  実際、当のどちらもそんなことを考えて行動を起こしたりはしていないのだが。 「なら、いいが」  フレイヤがつれなくそっぽを向いて答える時にそれ以上追求すべきでないということも、彼は学習済みだった。  カタカタ……。  そんな音をたてて、もくもくと食事は進む。  たまに話し出すのは全能の神で、豊穣の女神はたまに、「そう」と儀礼的に微笑むだけだった。  居心地の悪さを感じようともしないメイドは言うまでもなく無口で、やはり規則的に響くのはナイフと フォークのみ。  こんな食事をフレイヤは、三日に一度くらいの頻度でとっている。  飽きないでもないが、飽きたから、といっていつもいつも断っていいような誘いではない。  いつまで続くのかとぼんやりデザートを待っていたところで、同じような気持ちでもあったらしい オーディンがため息をついた。 「フレイヤ、何が不満なのだ」  半年も、よく我慢したものだ。  彼がそう言ったのはその日が初めてだった。  フレイヤは確かに尋ねられれば答えるし、求められれば微笑む。  しかしそれは表面だけの、挨拶のようなものであることは彼女自身認めていることだろう。  それどころか意識さえしているのかもしれない。 「不満なんてありませんわ」  丁寧で無表情に出されたのは、カシス色のシャーベットだった。  小さなスプーンを手にとる。  冷たい喉越しを想像すれば少しは口に含む気になるかとも思ったが勘違いで、とりあえず操られるスプー ンはそれをぐしゃぐしゃに潰していた。 「………ロキのことか」  フレイヤの様子を見て、オーディンは重々しい口を開く。  とは言っても内心、もうたくさんだという念が無かったとも言い切れないだろう。  不満ごとを集中的に発散されているシャーベットを不憫に思ったともとれる。  女神のお返事をしばし待ったが、何も無い。 「お前が怒ることでもないだろう」  暖かく、宥めるように言ったつもりであったらしいその神の声は吐かれた息に載っていた。 「どうせロキを下界へ送ったのに意味なんてないんでしょう?」  カツン、とスプーンが皿に投げ出され、声こそ穏やかであるものの、その眼は幾分荒々しい。  驚くでもなく血の気の無いメイドは、両開きの扉の両脇で控えている。  それはそれはふんわりと、先まで窓から差し込んでいた月光に雲が掛かった。 「意味なら…………ある」  認めることを恐れるように、ゆるりゆるりと紡がれた言葉。  フレイヤはにこりとも笑わない。  ロキの言ったことを思い出していた。 『敢えて言うんなら……、そだなぁ、オーディンには絶対奪われたくないものがあったっていうだけだよ』  がたん  後悔とも安堵とも言えぬ顔をしたまま、その神は立ち上がった。  まるでこの世の全てを背負っているとでも言わんばかりの重々しさで、漆黒の色したマントのはためきに さえ力が加わっているようだ。  こつ、こつと足を鳴らし、徐々に近づく、フレイヤの椅子へ。  確かにここでの態度はそれほど良くなかった。  それが今日になって彼の怒りに触れてしまったとでも言うのだろうか。  僅かに潤ませた瞳に誰も気付かぬよう、フレイヤは椅子をゆっくりと後ろへ下げ、腰を上げた。  少しでも怯んだら負けだ、とでもいうような表情は硬く、しかし握った拳の震えは決して怒りではない。  俯いた顔を上げ、勝負とばかりにオーディンの眼を見た。と、その時。 「……!?オ、オーディン様?!」  フレイヤの華奢な肩はすでに黒いマントの中、腰に腕が回る。  びくりとして、次の瞬間身を捩じらせてみたものの状況は変わらなかった。 「オーディン様!何を考えてらっしゃるのですか!?」  何も言わない。  その躯は熱を帯びず、震えさえ伝わるように思えた。  この人は、どうしてこんなにも冷えているのだろう。  腕には強さも、誇りさえもない。  しがみ付くようでもなければ、媚びる気持ちも見えなかった。  フレイヤはぼんやりと考えていた。  この金の髪に、彼の頬は触れているのだろうか。  ただその身欲するところが分かる以上、腕を解かないわけにはいかなかった。 「いい加減にして頂戴」  両腕でぐっとその胸を押し返し、思ったよりも力なかったその躯はよろめき2メートルほどで止まった。 「あいつ……ロキのことだ。お前にも何か言っただろう」  こちらを向かないオーディンをじっと見据えるが、メイドが動くことはない。  血もかよっていないような頬を我が向くべき正面へあてるだけだ。  フレイヤはある程度言葉の意味を理解すると、軽く微笑んだ。  ひらりと身を翻し、ドアへ向かう。 「おやすみなさい、また来るわ」  ドアの前で立つと、メイドは少し困ったようにオーディンを見やって、それからゆっくりと開いた。 「おやすみ、良い夜を」 「あなたもね」  月の道は開かれ、夜を越えた明るさが窓から寂しいテーブルを照らす。  オーディンは拳で壁を殴り、そして寄りかかって輝くシャーベットを見つめていた。







†いながき かおり†