見ないで 触れないで 名前を呼ばないで わたしが壊れてしまうから暖かい秋の昼下がり。 玲也は図書館で本を読んでいた。 目の前では足を組んで片手で難しそうな本を支え子供とはいえないような態度でそれを読むロキの姿。 一緒にいられるだけで嬉しくて、玲也は本に夢中なロキを盗み見ては顔を緩めていた。 今二人がここにいるというのは、玲也の学校で『読書週間』が始まった為だ。 『読書週間』とは言っても、学校が本を読む時間を作ってやるわけではなく、 自分で何か本を読んで読書感想文を提出する、というもの。 お嬢様小学校はこういう点で他と違う。 「読書の秋、か。芸術の秋、食欲の秋、なんて言ったりもするけどね」 ロキはそんな風に言いながらも玲也と一緒に図書館へ付き合っていた。 読書週間なんてあんまり好きではなかった玲也だが、 そのおかげでこんな時間を過ごせたのかと思うと読書週間もまんざらではない様子だ。 静かで、幸せな一時。 ただ本に囲まれているだけなのに、その空気は玲也をうっとりと酔わせるには十分だった。 と、その時、ロキが何気なくポケットに手を突っ込み何か取り出した。 「………!!!」 玲也はハッとする。 ロキが手に持っているモノ、それは……。 「…?レイヤ、どうかしたの?レモンキャンディ」 ――レモンキャンディ……… 鮮明に蘇る、あの時の記憶。 公園で和実と出会って、そして頬に口づけられて。 たったそれだけの行為だった筈なのに、どうしてあんなにも驚いて、どうしてあんなにも腹が立って、 どうしてあんなにも……怖かったのだろう……? あれから数週間経っているのに、未だあのゾクッとした感触が離れない。 風呂に入るたび毎日思い出して、頬を一生懸命洗った。 和実を憎んだりしているわけではない。 ただ、あの出来事は憎悪するしかなかった。 どうしても、怖くて。 ――ロキさまが………、いなくなる………っっっ! そんな気がしてならなかったのだ。 死んだりとか、引っ越したりとか、そういうある意味物理的なことではなくて、 玲也の精神の中から、いなくなる、そんな気がしてならなかったのだ。 この気持ちが消えて、なくなるかと思った。 いつもの、穏やかな一時。 それが、この瞬間に音もたてずに崩れ去った。 「ロキさま……、レイヤ、もう帰るです…」 心持ち青ざめたような顔で、玲也は立ち上がる。 「レイヤ、どっか気分でも悪いの?送ってくよ」 ロキは心配そうに玲也を見つめて、パタンと本を閉じた。 綺麗な瞳が玲也を映す。 「……ハイ……です…」 本当は断ろうと思った。 きっと自分は今、まともな精神状態ではないだろうから。 迎えでも呼んで、早く帰って、早く一人になって、なんとか自分を取り戻さなければならなかった。 けれど、あんな目で見られてイエス以外の返事ができるだろうか。 少なくとも、玲也には不可能なことであった。 これ以上ロキに心配はさせられない。 「何か飲み物でも買ってくるね。表で待ってて」 ロキは少し安心したようににこっと笑って言った。 図書館は町からほんのちょっと外れたところにある。 洋風な雰囲気の柱があり、ともすればレトロな洋食屋にもなり得た。 玲也は柱にもたれかかって、ロキを待つ。 ふーっと息を吹いて、なんとなく居心地の良さを感じた。 ロキに送ってもらえるというのは玲也にとって嬉しいこと以外のなんでもなく、 彼の笑顔を想いながらそれを待つという行為はこの上なく幸せに近い。 目を閉じて思い切り息を吸い込む。 取り込まれる空気の気持ちよさに、少女は無意識に頬を緩めた。 そこに、突然の、陰。 覚えのある、気配。 「………和実さん、ですか」 玲也は目を閉じたまま呼びかける。 返事はなかった。 かわりに、横で微笑む気配がした。 「レイヤ、まだ怒ってるですよ」 目を閉じたまま、更に続ける。 すると、その陰が動いた。 「そんなずっと目つぶって、キスでもしてほしいの?」 「……!!」 ぱちっと玲也は目を開いた。 鼻先15センチくらいのところに和実がいる。 空っぽな、何もない笑顔。 少女は目を睨んだ。 「もーすぐロキさま、来るですから」 そして避けるように彼から離れ顔を背けた。 その時、ふと何か甘い匂い。 気になって和実の方を向けば、そこには鉢植えの季節外れな黄色いクロッカス。 そして。 「………」 玲也は押し黙った。 じっと片目でこちらを見つめる和実。 この瞳は、なんて瞳なんだろう。 何もかも、捕らえて決して放さない、そんな瞳。 「……『裏切らないで』………?」 玲也も彼の目を見つめ返した。 もう睨んだりはしない。 ただ、その言葉の意味が知りたくて。 しかし、和実は何も言わずに目を反らした。 どこを見るでもなく哀しい笑みを浮かべる。 ――………!? 瞬間、初めての感情が玲也を支配した。 まるで締め付けられるような、恐ろしい感覚。 それと同時に、切なくてどうしようもない気持ち。 ――『裏切らないで』………? 「花屋でそのクロッカスが僕をじーっと見るからさ、レイヤちゃんにあげようと思って」 そう言う和実に眼を向けると、今度はこっちを見て優しく微笑んでいた。 ――和実さんも……、こんな風に笑うですね…… 不覚にも、動悸が早くなったのを自覚して。 和実の顔から目を反らした。 違う、違う、違う……。 ただ少し驚いたから、それだけなんだ。 そう自分に言い聞かせて、深く息を吸う。 空気が震えているように感じられるのは、この唇のせいなのか。 そしてちらっと盗み見た和実の表情はもういつもの空っぽなそれに戻っていた。 もう1度あの笑顔を見たい、と思う自分がそこにいることなんて気付きたくない。 やっとおさまってきた動悸を押え込み、平静を装う。 「お花、ありがとうです」 玲也は手のひらで鉢を包み伏し目がちに言った。 長い睫がその大きな瞳を隠す。 しかし即座に少女は目をぱちっと開き、しっかりとした視線を和実へ向けた。 「でも、レイヤはまだ、怒ってるです」 今にも震えてきそうな声を気力だけで支える。 ――お願い、もうレイヤの前に現れないで………! 確かにそう瞳で伝えて。 なのに、この人ときたら。 「じゃあレイヤちゃんが赦してくれるまでがんばろうかな」 ぬけぬけとそう言って、いつものあの不敵な表情。 気付いている。 この少年は、玲也の言いたいことをはっきりと感じ取っている。 それなのに。 そのまま和実は歩いていった。 どこへ向かうのかなんてどうでもいい。 玲也はその背中を見ようとはせず、少し息を吸い込んだ。 空気が、重い。 ああ、また、和実のペースだ。 ―――怖い そう思った。 どうしてロキはこんなに遅いのか。 早く戻って来て下サイ・・・・! どうして? どうして、デスか…? どうしてレイヤはこんなに、 和実さんに振り回されてる、デスか……? そこへ、やっと来たロキの姿を見つけて、走って駆け寄る。 思いっきり、抱きつく。 ロキはかなり驚いた様子だったが、そんなこと今の玲也にはどうでもいい。 怖い 怖い…です…… ぎゅっとロキの手を握って、放さないでくだサイ、と哀願する。 少年は不思議そうな顔して、でもすぐに優しく手を握り返した。 ダイジョブだよ、そう言いながら。 本当……ですよね?ロキさま 大好きな、ロキさま 放さないで下サイ 絶対・・・ ずるい ずるい まだ瞼を閉じると、和実さんの二つの笑顔が鮮明に蘇る。 レモンキャンディよりも、ずっとずっと鮮やかに。 どうして、レイヤの前に現れたデスか? どうして、こんなにレイヤに強く残るデスか? どうして、レイヤの心乱すデスか? レイヤの心は固く閉ざしたままなのに 気が付くと、この前よりもずっと近い所にアナタは居た いとも簡単に、近付いて来る 春咲きのクロッカスの花言葉 『裏切らないで』 レイヤはいつかアナタを裏切るデスか……? それとも、レイヤはいつかアナタを裏切ったデスか……? 怖い ナニガ? 痛い ドウシテ? 分からない 分からない 分かりたくない………っ! 見ないで 触れないで 名前を呼ばないで 私が壊れてしまうから 全てが狂ってしまうから
クロッカス