『ロキ………さま…………』 8月15日。 あの人は去っていった。 目を閉じればそこに、いつでも居てくれるのに。 思えば不思議な人だった。 夢をみることも無くなってしまった今の私でさえ思う。 あの人は"消えてしまった"のだ、と。 喪服少女 あんまり呆気なくって、思い出しても涙さえ溢れない事件。 ぬるい風が世を支配するように湿気た日。 燕雀探偵社で火が揚がった。 何故かちょうど、闇野さんもスピカさんもフレイさんも和実さんもそしてロキさまも、みんな揃っていた 日らしかった。 虫の知らせというものなのか、不意に怖くなってそこへ駆けつけ目にしたのは、赤の欠片も見えぬ黒一色 の残骸。 ぽたりぽたりと雫が滴って、こんなに湿度の高い日にどうして全焼などしたのだろうかと大人たちが呟き あっていた。 すぐ近くで知らせを聞いた繭良さんが、ぺたんと座り込んで驚いている。 眼が乾いたままで、あの黒の中にロキさまたちが混じっているなんて考えてもいないらしかった。 たぶん、焼けたのはこの建物だけだと信じていたのだと思う。 彼女にとって、物理的に在り得ないことで。 私にとっては、そうでもなかったけれど。 こんな時に限って泣き叫んだり呆然としたりしないで居られるのは、決して悲しみが足りないわけではない。 ただ、諦めにも近い情報の確かさが在った。 自分をそこまで信用しているでもないけれど、黒く艶やかな景色が私の脳に貫き通したのは、決して希望 ではなかったから。 ただ最後に胸のうちで響いたロキさまの声が、 『愛してる』 そう囁いたという事実だけは、現実と結びつけたりなどできなくなったけれど。 何日も経って、繭良さんが彼らの死を確実に知っただろう時、既に私はこの町にいなかった。 見野さんに頼んであの孤立した山荘へ帰って、生まれて初めて孤独に親しみを感じた。 テレビも電話も何もない生活だから、あの事件が世間でどう扱われているのかもどう処理されたのかも知 らない。 街へ繰り出すのは見野さんだけだから、あの後の繭良さんの様子もあの人たちの葬儀などについても知ら ない。 ただ私は真っ黒な喪服を着た。 イリュージョンのように消えてしまったあの人を思って、毎日黒い服を着た。 あの人の為に、目を閉じればいつでも再現できるあの人の笑顔を脳で用意した。 そして毎夜、瞼の裏で微笑むあの人に問うことを習慣とした。 『どうしてデスか』 その後は切なすぎて、心の中でさえ言えないけれど。 消えてしまったあの人。 誰に聞いたわけでもなくて、不確かなのに確かな事実。 決してこの世界に存在してはいない。 だから、此処で生きている限りはできない再会。 決して死んだのではない。 だから、私が死を選んだところで其処に見つけるなんて奇跡より低い確率:零パーセント。 朝目が覚めて顔を洗って、鏡に映る喪服を見れば、戒めのように私にこの服を脱ぐことができないことを 思い知らされる。 気分の優れない朝日の下では鳥の囀りさえも疎ましくて、カーテンで丸一日光を遮る日さえしばしばだ。 首元で紫のリボンを結べば、今日も在って無いような一日が始まる。 見野さんはいつも心配そうに私を見るけれど、私自身変わったと思うことはない。 敢えて言うなら、元に戻っただけじゃないか、と。 ―――ピーンポーン 午後一時。 飾りのようなインターホンが鳴った。 人や小鳥、木々の葉など以外で音を聞いたのは久しい。 今日はお昼前から見野さんが買い物に出かけていて誰も居ない。 とは言えこんなところまでお客が来ることなんて滅多に無くて、怪しいし面倒だから一度ティカップから 外した視線をまた元に戻した。 出かける前に用意してくれていた紅茶とコーヒー味のクッキー。 いつになっても慣れない苦みを敢えて選ぶのは、私が今この喪服を着ているのと変わらない理由があるから。 この味が私を此処でないどこかと結んでいるような心持ちは、精神的な快楽を与える。 よくは知らないけれど脳内麻薬に似たものかもしれない。 癖になってしまった目を閉じるという所作であの人の笑顔に溺れていると、二度目のインターホンが鳴った。 今度は玄関へ目もやらないでテーブルの向こうの愛読書へ手を伸ばすと、三度目。 栞を使わない私が昨日のこの時分読んでいたはずのページを見つけ出したところで四度目。 だんだん間隔が短くなってくるにしたがって、塵程度には溜まっていた自分の罪悪感に気付き玄関へ足を 向けた。 「はぁい、どちらサマですかぁ?」 五度目が鳴らないうちに声を張り上げて、 ガチャ 重いドアを開けば 「ひさしぶりだな〜、レイヤちゃん」 あーつかれたぁ、と付け足して、私の頭を撫でた。 骨ばっていて、キレイな手。 わざわざ腰を低くして微笑むその様子を見て、あの人が大人になったらこんな感じじゃないかと不意に思った。 トポトポと音を立てる紅茶が妙に新鮮で、さっきまで飲んでいたのと同じ紅茶を淹れているとは思えない。 誰かにお茶を淹れるなんて、まるで年単位で懐かしいような気がする。 ひどくコーヒー味に拘る私の為に見野さんが買いだめてくれていたクッキーを戸棚から取ろうと椅子に登 ると、その人はにこにこ笑ったままでこっちへ来て、私がいっぱいいっぱいに腕を伸ばしても取れるかどう かというクッキーの缶をひょいっと取り上げてしまった。 「ありがとぅですv」 「ゴメンな〜、急に来るって決めたから みやげも何も持ってなくてさ」 人懐っこい、それでいて相手を図るような顔。 クッキーを運んでもらって、私が紅茶を持っていって、とりあえず二人で腰掛けた。 開け放たれた窓から差し込まれる光は夏の色で、若葉の発する眩しいくらいの濃い緑色が部屋の中まで侵 食しそうな勢いだ。 静かに、けれど確実に、あれからもう一年が経とうとしている。 「気になってたんだけどさ、レイヤちゃん、なんで喪服着てんの?」 「へ………?」 私はよほど顔を凍りつかせてしまったんだろう。 紅茶をかき混ぜていた彼の指が一瞬止まってしまった。 「いや、似合ってるからいーけどな」 一度中身を見せてしまった鍋の蓋を慌てて閉じるような声。 この喪服を着るようになってもうすぐ一年だけれど、そこまで自分が敏感に反応していたことに驚いた。 また一つ、いやな事実を知ってしまった。 無垢な鳥のひなみたいなふりをしたところで、良くなることなんて一つもないのに。 「レイヤはまだ………………………」 コトバが唇を突いた。 必死で押さえ込んだけれど。 「ん?何て?」 彼は首を傾げて私を覗き込む。 言ってしまうわけにはいかないから、両手で口を押さえてしまいたい気持ちを制して、とりあえず笑った。 「何でもないですv」 ―――レイヤはまだ、消えてないんですか。 「………。そっか、そっか」 彼はまたにこりと笑って呟き、クッキーに手を伸ばす。 じっとしていた。 じっと、その指を見ていた。 多分彼は気付いたと思うけれど、敢えて何も言わなかったみたいだ。 「あ、そーいえばさ、今日こっち来たのな、ちょっと頼みごとあったんだよな」 「何ですかぁ??」 指を見るのをやめて首を傾げていると、どこからともなくカメラが出てきた。 高価そうな、実際見たこともないが一眼レフってやつかもしれないと思った。 少しの間、大きなレンズや重たそうなボディを見ていたが、さっぱり予測がつかないで今度は彼の顔を見 上げる。 「わりぃけどさ、モデルとかやってくんね??」 それでもよく分からなくて、ぼーっとカメラのレンズに視線を落とした。 見野さん、帰ってくるの遅いな、とか考えながら。 風が気持ちいい。 気の早い夏とのんびり屋の春が同時にそこへあって、目を閉じると今ここに世の全てが存在しているよう な気さえする。 ちょうどいい日を選んで来たものだと、となりでカメラをぶらさげ歩くヒトを見ながら思った。 「ホントに、レイヤなんかでいいんデスかぁ??」 説明を聞くと、彼の友人にデザイナーのタマゴがいるらしく、そのタマゴが作った服にぴったりなモデル を探しているということ。 子供服でフリルの多いものだから、そう簡単には見つからなくて彼に頼んだみたいだ。 別にファッションショーがあるわけでもないのでとりあえずその服を着た写真だけあれば満足と聞いて、 少しだけ安心はした。 敢えてその友だちを連れてこないでくれたのも、大変感謝だ。 今は街に出たくないし、知らないヒトのごった返す道なんて歩きたくもない。 そういうところをずっと会ってもいないのに察してくれるあたり、優しさだと思う。 「レイヤちゃんならカンペキだって!!」 にっと微笑むと、髪を撫でてくれた。 ずっと切っていないので、あの時からかなり伸びている。 ただ質は変わらないらしいから雰囲気は同じだと思う。 「でも…………」 「おっ、この辺でいいんじゃねーの?すっげーピッタリ」 言った瞬間、視界が光になった。 少し言い過ぎかもしれないけれど、確かにそう思った。 この森の中で初めて見た景色。 大きな湖が太陽を照らして、風さえ眼を凝らせば見えるのではないかと感じるくらい緑が濃い。 ホンモノの昼の匂いを、これまで生きてきて初めて吸ったような気がした。 「わぁぁぁ…………」 気付いた時には、もう走り出していた。 てってと私の走る様子は、どこか危なっかしそうに見えたかもしれない。 なにしろ走ったのは何ヶ月ぶりかもわからないくらいだから。 何回も転びそうになったけれど、それはそれで、この草の上なら喜んで転びたい。 全てを忘れた気でいた。 「ここ、レイヤちゃんも初めて来たのか〜??」 「ハイです〜〜〜!!!」 後ろも見ないで返事して、やっと湖面に辿り着いた。 わくわくしながら、覗き込む。 それはもう、未知の世界が見えると信じて。 「何かあるか?」 端的に答えれば、イエスだと言えなくもない。 水面に、居た。 何がって、私が。 どんなって、それはそれはこの湖と似合わない喪服を着た私が。 こんなキレイな景色に喪服は似合わない。 そしてそれを脱ぎ捨てられない私は、もっともっとここに似合っていない。 たとえば風がいくら私のリボンをゆらしてもそれは恐ろしく深い冬の色―――紫。 たとえば湖がいくら私の瞳を映してもそれは哀しいくらい無機質な色―――ガラス玉。 なんて、なんて似つかわしくないんだろう。 「レイヤちゃん……?」 隣に彼が移った。 にこっと上手な愛想笑いまで鮮明に映しだされたけれど、冬の色なんてなかった、ガラスなんかじゃなかった。 「レイヤは、レイヤは、………」 目を閉じる。 もう見たくない。 こんな醜い私を、これ以上見たくない。 こんな醜い私を、これ以上見ないで。 「何かあった?だいじょぶか??」 止まらない。 私の力はそこまで及ばない。 視界に何一つ受け入れない状態で呻いた。 「レイヤはまだ、消えてないんですか」 彼は眼を丸くしている。 驚いたようだったし、けれど少しばかり予測されていたように思うのは気のせいだろうか。 「何言ってんの、レイヤちゃん……」 「レイヤはまだ、消えてないんですかッッ」 その返事があまりに的を得なかったから、今度はキッと眼を見て叫んだ。 「……………」 瞬間、見たこともないような哀れみの顔。 掛ける言葉もない、というのを、そう思われるのを、肌で実感した。 なんて醜い、私自身。 消えてしまえばいいのに。 一年前のあの日、消えてしまったらよかったのに。 自分自身で在りながら、常に自分を蔑んだ、死に損ない、と。 どうして今まで、のこのこと生き永らえてしまったのだろう。 どうして今なお、哀れむ顔を向けられてまで"在る"んだろう。 あの人の『愛してる』という言の葉。 あの人は、一体何を望んだのですか。 ―――私 ハ 未ダ 消エ テ ナイ ノ デス カ。 コノ心の中で、何かが、誰かが、叫び声をあげて壊れた。 砕け散った。 きっとこの喪服の中の"コノ人"は、湖に落ちて溺れ死んだか、陽の光で溶けてしまったか、風に当たりす ぎて風化してしまったか。 肉体と別離して、魂だけ上空7メートルくらいまで浮かび上がった気分だ。 コノ人とはただ一本の細い糸で繋がっていて、私の手をチョキにしてプツンと切る真似をするだけで縁を 断ってしまうことができるのだ。 彼にさえ私を見ることなんてできなくて、あの人までも私を見つけには来ない。 浮遊する、命。 これを消えるというなら、神サマはなんて残酷な野郎なんだ。 夢の中の夢で、いつかこんなことを経験したような気がした。 「レイヤちゃんがそんな顔することじゃねーよ」 匂い。 淡く汗ばんだ、暖かい匂い。 彼の躯が、私の周りにあった―――抱きすくめられてしまった。 肉体と魂とを結ぶ糸がクルクルと引き縮められて、ぴったり二つの影が重なってしまった。 あの人の声がこそ細く強い糸となって、その声は私を放してはくれません―――。 ―――どうか、忘れさせてください。貴方の祈りは、なんですか。 「喪服似合うなんて、お世辞だぜ?ロキのことは忘れても忘れなくてもいい、けどさ、レイヤちゃんが楽し くねーと意味ナイじゃん」 ぐいと腕に力を込めると、簡単に彼は私を放す。 「ですけど―――」 私はこの喪服を脱げばあの人を忘れてしまうかもしれないし、けれどどうしたってあの人を忘れることな んかできなくて、だけれども忘れないとこの気持ちはずっと曇ったままで、それなのにその翳り無しには狂 わずを留めることさえ不可なのです―――。 「いいからさ、ホラ、これあの木の陰で来てみ?」 ニッと笑うその顔は、私が見たどの顔よりも天に近かった。 全てを消し飛ばす、時に残酷な神のような。 そして広げてヒラヒラと見せた服は、真っ白なワンピースだった。 ブラウス地で、フリルでリブのハイネック、同じ首もとのリボンは淡い紫、スカートの部分はふんわりと 膨らんで裾からフリルが見え隠れ、そして右腰あたりの大きなリボンは蝶々結びで端は足の踝くらいまで伸 びている。 なんて対照的な、敢えて選んで作ったようなワンピース。 それと彼とを見比べ、笑顔に負けて木陰へとそれを持って、てってと走った。 今私は、白い白い、真っ白なワンピースを着ています。 レンズ越しのコノ姿は、貴方にも見えていますか。 p.s. 光太郎さんも、一年前消えてしまうかと思ってました。 そんなことを笑いながら尋ねると、彼もにかっと笑い、オレは別格だから、と冗談交じりに教えてくれました。