Mugen
手も出ねぇ。 彼がそう結論付けざるを得なくなったのは、確か一年程前の夏の日。 むせ返るほどの熱を帯びた風がそこらを行き来し、我が国誇るべき気候のある日。 突如訪れた暗闇は、多分未だ開放しようという意思すら持たないのだろう。 ただその暗闇への恐れが酷く衰退しているというのは、痛みの感覚すら脳が麻痺しつつあるから。 それでも光無きやるせなさに身を落とすような日は、きっとこのままこの輪郭はいつしか闇へ溶けてしま うのではないかと思ったりもする。 たとえば今日のように。 久しぶりの休みである本日、空晴天なれど心持ち曇天、夏の風物詩こと我が扇風機の送る風は間違いなく 温風なれど今朝まで氷をかいていた指先冷たく、暖めようと擦る姿鏡に映せばそれは影抱き光乞い祈るよう である。 『フレイヤ』 その名を呼ぶたび、何故か酷く酷く歯痒い思いを抱いてしまうのは、彼の劣等感の為。 『レイヤ』 その名を呼ぶたび、どこか深い深い哀愁帯びた少女を想うのは、彼の罪悪感の為。 あぁ。 言葉呟くはずであった唇はただ溜め息を吐き、予定の上でのその言葉は心中にて一箇所だけ画鋲で留めら れた画用紙が如く無力にぶら下がっている。 ―――生まれたことさえ後悔した。 このような気持ちを抱いたことなど、今まで一度限りにもなかった。 無論、恋焦がれた経験も愛し慈しんだ経験も―――どこぞの邪神ほどではないが―――それなりにある。 逆にそれへ破れた切なさも苦しさも大方は記憶している。 しかし、今回ばかりは話が違った。 ―――生まれたことさえ後悔した。 考えたこともない思い。 熱を上げて語るつもりはないが、自分は自分に使命か何かがあって生まれてきたのだと今なお信じている。 それでも、生まれてこなければ良かったと思わざるを得なかったのは、ひどく必然的である彼女のせい。 彼女の周りにあるのは全て必然。 夢もうつつも、幻も真実も、全ては必然。 だから。 ―――生まれてきたことさえ後悔した。 年輪刻まぬこの躯に齢を尋ねるのはいささか難く、自分が発生してからどれほどの年月が経過しているの かというところは推測の範囲を過ぎないが、その何百年程前から自分は彼女の必然に呑まれていたのではな いかと思う。 敢えて偶然を呼ぶなら、それは発生だけではないか。 その他の全て―――身に降る真実、描いた夢幻、果てに信じたじゃれ合う現―――は、彼女の必然。 生まれた瞬間から、きっと自分は必然的に彼女を想ってきたのではないか。 夢に遊び現にじゃれて、いつしか残ったのは灰色の世界。 流れに歯向かい求めた結果、地に落とされた自分を彼女は笑うのか。 カギリナキを司る彼女。 ユメマボロシに游ぶ少女。 ピーンポーン…………ガチャ 突然。 遠慮のないヤツだ。 誰だか判断し終えぬうちに印象はできあがった。 どうせならフレイヤか玲也を期待。 しかしどこぞの少女漫画ではないのだからと頭を叩いて物理的に追い出す。 そうした行為の後でいつも思うのだが、こういうときに限って期待は一層成長するものだ。 ナルカミくん、いんの? 随分古くからの友人で、妄想の夢は終わった。 情けないくらいの落胆を感じながら声のほうへ振り返る。 四畳一間の部屋であるから、ダイレクトにその友人とは視線が重なった。 ふと思い出してみるとこの部屋。 なんと汚いことだろう…。 食べかすはないにしろ、溜まった洗濯物やらマンガやらが所狭しと散らばっている。 布団が敷きっぱなしであることは言うまでもなく、正直なところフレイヤや玲也が来なくて本当によかっ たかもしれない。 なんだよ? あぁ、いたんだぁ。えっちゃんがねぇ、ナルカミくんがすっごい怖くって伝言できなかったんだって。 一瞬、どくんと心臓が鳴った。 さっきまで自分は、ひどくばかげたことを考えていたように思う。 自分が影を抱いた姿は、ヒトの目にどう映るのか。 大方、ムリして物事を考えすぎたけれど結局何も答えが出ずに自らの無力さを恨んでいる姿、と思われる んだろう。 特にこの嫌味な元・邪神は絶対例に違わずそれを思うに決まっている。 ちっと考え事してたんだよ。 へーぇ、ムリしすぎたね。でもそれがキミの限界なんだし、しょーがないと思うよ? 想像通りのお言葉。 わかってるから、わかってるからその腹立たしさ80%増量の嫌味はやめてくれ。 拳を握り締めている彼の姿は、そう語っているほかなかった。 あ、これからレイヤんちの別荘でパーティあるんだけど……… 食いモンあるか?! そ、そりゃパーティだしね……… 行くっ、行くぞっっっ!!! うん、絶対行くと思って下でレイヤが待ってるよ……。 レイヤ。 結局来てたのか。 ともかくもう昼過ぎなのに、今日一日何一つ食べていない。 鳴神は完全にいつもの調子に戻っていた。 じゃあ早く行こーぜっ!! せっかちだなぁ、まだ始まってもないのに。 ロキがそういい終わるが早いか、鳴神はすでに仕度を整え終える。 この世で食に勝るものはないと証明しているかのようだ。 そして二人で玄関を出るとき、ロキは呟くように囁いた。 カギリナキユメマボロシ、か。同志だね、ナルカミくん♪ むせ返るような熱い風。 今もあの少女の髪を揺らしているのだろうか。 アパートの剥き出しになった階段から、こちらに微笑む少女が見えた。 今行くからなぁ!!待ってろよっっっ!!! 必要以上に大声を出して、階段を駆け下りるのは鳴神の姿。 カギリナキユメマボロシ。ムゲン。