the end of the myth
時はラグナロクも終わり。 かつては美しい丘であったはずのこの場所は既に荒れ果てる荒野と化して、 いつか茶色い仔ウサギがちょこんと座って野いちごを食べていたはずのここで あらゆる――神々をも含む――生物が骸と成り果て足の踏み場さえないほどに敷き詰められている。 日の光など望めるわけもなく、そこはまさに地獄絵図そのままだ。 「アナタは……、どこにいるのですか…?」 そして今、その真ん中に一人青年が立っていた。 紫の髪は艶など疾うに失っており、 片方しかないその眼には現実が映っているのかどうかさえ判断不可能で虚ろさだけが在る。 一歩、また一歩と彼は歩いた。 骸の上を、そうとも知らずに。 哀しみの上を、そうとも感じずに。 しかし不思議と踏んだときの衝撃による、 生命宿らぬ骨の折れた音や辛うじて虫の息ほどには生きていた生物の呻き声は、まるで無かった。 彼は、ただ音もなく歩いているらしい。 静寂のままに、歩いているらしい。 まるで単に、浮遊しているだけのように。 単ニ、浮遊シテイルダケノヨウニ。 そしてうわごとのように呟く、否、うわごととして呟く。 「アナタは……、どこにいるのですか…?」 彼の脳を今取り巻いている記憶は、紛れもない愛しい人のそれ。 愛しい人の指先、愛しい人の髪、愛しい人の唇、愛しい人の瞳。 全ては鮮明に、その脳を麻痺させるほどに包み込んでいた。 ほぼ全ての記憶が、そこにはあった。 ただ一つをのぞいて。 指先の繊細さも、あの髪の柔らかさも、唇の紅色も、 そしてあの瞳の揺れまでこの上なく鮮やかな色しているのに。 何故かそれらは、無音の世界。 聴覚が失われただけなのか。 いや、それでも記憶ならば全て失われてしまうはずもなく。 忘れてしまっただけなのか。 いや、それでも本能に繋がっているのならば忘れてしまうはずもなく。 艶やかな、艶やかな、無音の世界。 脳の描く世界と、現実に今ある外界とでは、さして違いはないように思われた。 そうしていると、時折頭が痛んだ。 彼はその頭痛が訪れるたびに微笑んだ。 別に、痛み自体を好んでいるわけではない。 頭痛とともに脳を訪れるのは、愛しき人の唇。 最後に交わした、何気なく幸せなコトノハ。 艶やかな、艶やかな、無声映画。 男。 ――もうすぐ、夜ですね。 女。 ――そうね。 男。 ――泊まっていきますか? 女。 ――冗談でしょ。 男。 ――もし本気だったら……? 女。 ――殴るわ。 男。 ――……冗談です。 女。 ――生きるのが上手いわね。 男。 ――フレイヤさまほどじゃありませんよ。 女。 ――私は人の顔色なんて見てないわよ。 男。 ――…皮肉ですか? 女。 ――そう思うのはあんたにも非があるってことね。 男。 ――キツイなぁ。 女。 ――褒め言葉かしら。 男。 ――この上ない褒め言葉ですよ。 女。 ――ありがと。 男。 ――褒めついでに、言っちゃってもいいですか? 女。 ――勝手に言えば。 男。 ――愛しています。 女。 ――あらそ。 視界全部がスリーディーのスクリーンと化し、女神は鮮やかに蘇る。 何度も見た映画のようで、しかし見飽きたことなど皆無に等しく。 最後の一言は、いつも頬を染め呟いていた。 笑顔よりも愛してしまったその表情の名は、未だに多分誰もつけてはいないのだろう。 感情表現を忘れた青年が、このとき初めて歯軋りをさせた。 そしていつしか、音のない足音が止まった瞬間。 焦点を失ったはずの瞳は見開かれ、やがて悦びがそれを征した。 あまりに静かすぎた沈黙の流れを止めるものはそれでもやはり現れず、 ただ密かに青年の心持ちのみが跳ねている。 「やっと、見つけましたよ」 その目の前には、白い肌の女神が一人。 否、その目の前には、蒼い肌の骸が一つ。 過去、その骸は女神であって、現在、その女神は骸である。 表情は弱く――もっとも絶命してかなり時間が経っているらしく身は完全に固まっているのだが――、 それでも逝く瞬間の心持ちを示しているのか理不尽な疑問を浮かべている。 ――どうしてこうなったの。 ――私は女神よ。 ――死ぬはずなんてないわ。 ――どうして。どうして。どうして。 今の彼にそこまで感じとる能力が残っていたかどうかは定かでない。 目の前に存在している物体に生が宿っているのかさえ判断できたようには思えない。 それほどに、彼は悦んでいた。 手を骸の頬へ伸ばす。 「アナタは、もうボクのモノです」 狂気じみた悦びの片目は、天使の羽をも漆黒に染め、悪魔のそれへと成り下がった一片の羽根を強く握った。 嗚呼。 妄想激しく彼の思考は既に触れた瞬間であり、心持ちの指先は柔らかく薔薇色に染まった頬を味わっている。 黒い羽根をあまりに強く握りすぎたためなのか。 いつしかそれは握りつぶされどろりとした血に変わる。 瞳の描いたまやかしの幻想は絶望よりも惨く、彼の脳の大部分を抉り取った。 「………っ?!!」 女神の死体はあくまでも肉体、魂はどこかへ浮遊していたとしても身体はここに存在しているのだ。 現にその肉体の上にも死を受け入れた別の肉体がいくつか積もっており、 さらにその下にもいくつかのそれが下敷きにされている。 ならばあり得るはずも無いことが起こってしまった。 何度も何度も、青年は同じ動作を繰り返した。 手を愛しき頬へ伸ばし、ゆるりゆるりと蒼いそれへ近づき、触れた、触れたと思った瞬間、彼の指は空を切り。 何かの間違いだと思いもう一度手を伸ばし、薔薇色のそれへ近づけ、柔らかい、柔らかいと思おうとした瞬間、 彼の指はまた空を切った。 脳の動きがほぼ停止している彼は、その時やっとのことで状況の危うさに気づく。 「…………………っっっっっ!!!!」 触レラレナイ、触レラレナイ……、触レラレナイ…………っっっっ!!! 鈍い光を放つ瞳を最大限に広げ、彼女という残像を繰り返し引き裂くように、スピードをあげて空を切り続けた。 どうして、どうして、どうして。 彼女の身体は、消滅してしまったのだろうか。 こんなにもはっきりと見えているこの姿は幻なのか。 ずっと考えていたのだ。 出会えたら、もう一度巡り会えたら、彼女がどのような姿であろうと力の限り抱きしめて放さない、 この身が有る限り。 コノ身ガ有ル限リ。 刹那、頭痛。 キリキリ痛み出した。 「う……ぅ、あぁ………!!!」 視界が急に、暗くなった。 たとえばそれがただの黒いカーテンの中でさっと捲ればまた女神の笑顔があるのなら、別にそれも悪くない。 たとえば今の一瞬で自分は地の底深い墓場へ落とされ永久に無の世界であるのなら、 それをどうして耐えられようか。 「嫌…だ…………っ!!」 いつものとは違う。 この激しい痛みは脳が拒否している証拠。 思い出したくない、のに、溢るるは無数の苦痛。 「…僕は……、僕は…………っっっっ!!!」 夢も現実も大した差の無いここで、過去が悪夢より残酷に脳を抉る。 否、過去が欠けていた脳を埋める。 正しい形を拒んだ脳が、次第に復元を始める。 「ここに…、居る…………んだ…………ぁ!!!!!」 そしてついに、最後のひとかけ。 最も拒んだ記憶の欠片。 何故なのだろう。 あの愛しき人の声は失われたのに。 どうして、あの忌々しき輩の声はこんなにも鮮明に――――、 ――ヘイムダル、相打ちだね。 「ぐ…っあぁぁぁぁぁ!!!!!」 忘れていたんだ。 彼は、ヘイムダルは、 『単ニ、浮遊シテイルダケノヨウニ。』 本当に浮遊していたのだ。 『コノ身ガ有ル限リ。』 この身は既に、無かったのだ。 触れられないのは、彼女のせいではなくて。 自分自身が、存在していなかったのだ。 ――彼女は誰にも、渡さないよ。 「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっっっ!!!」 叫び声はどこまで届いたのだろうか。 この朝も望めぬ空を貫いただろうか。 自分とは違うところで、しかし自分のように浮遊している女神は聞いただろうか。 そして彼女は、一言くらい答えたのだろうか。 声枯れ果て、彼はふいに目を閉じる。 ――そろそろ認めたらどうなのよ。 初めてだった。 暗闇の中で、あの恋しい声が響いた。 艶やかな画ではなくて、リアルな、まるで肉声。 「……はい……」 黒い闇で、白くぼんやりとした彼自身が現れ、そしてまた闇が喰うように、指先から少しずつ消えてゆく。 さらさらと黒い砂になって、闇に溶けてゆく。 「終わったんだ…」 最後の最後が砂になる直前、ヘイムダルはそう呟くように言った。 破滅。消滅。絶滅。 全て滅し、無に帰し。 神々の時代に終わりを告げたのは、禁色の門番。