椿
あんまりヒマだから、辞書を開いてみた。 最近この四角い空は日に日に青く、私に近づいて来ているようで、多分あと一週間もすれば、あんなに大 きな空だから、こんな小さな部屋なんて簡単に押しつぶしちゃうんじゃないかと思う。 ここニ、三日はずっとこんな天気だった、らしい。 笑えば笑い返してくれる小さな椿の花しか見ていなかったから、実際のところあまり覚えてはいない。 ただ日記にそう書いてあったから、そうだと認識しているだけ。 そういえば見野さんが言っていた。 『もったいないですね』 あの時、私はどう答えたのだろう。 思い出せないのは、別に記憶喪失なんかではないけれど。 品種改良を重ねられたあのかわいらしい椿の花は、どんな思いで私に笑ってくれてたんだろう、なんて考 えてたら、そんな小さい記憶を引き出している余裕がなくなっただけなんだと思う。 手が、勝手に『適当な』ページを見つけて『適当な』言葉を指していた。 病気。一、身体または精神に異常が起こること。二、悪い癖。 今一番したくないのは、鏡を見ること。 どんな顔をしているか想像がつくぶん、ものすごく恐ろしい。 そうだ。 ここニ、三日、私はベッドに居た。 大した病気なんかじゃない。 少し風邪を引いただけなのに、見野さんが慌てて体温計やら氷枕やら冷えピタやらお薬やらをいっぺんに 持ってくるから、されるがままにしていると。 大丈夫だとは言ったけど、やっぱり気がつくと頭がフラフラしてきて、どうやら私よりも見野さんのほう が私のことをわかってくれてるらしかった。 その間、部屋を出られなくて寂しかったその間、ふと隣を見ると紅い椿の花。 水替えくらいはしてたけど、こんなにまじまじ見つめるのは久しぶりだった―――否、多分初めてだった。 寂しくて笑いかけると、笑い返してくれる物静かな椿の花。 ほんの、ほんの少し、わけもわからず自己嫌悪して、とりあえず自分を嫌な子だと思う。 手が、また勝手に『適当な』ページを見つけて『適当な』言葉を指していた。 知らせ。一、報知。通知。通報。ニ、何かが起こるような兆し。前兆。 椿が居ても、見野さんが居ても寂しくなってきたときに届いたカード。 見野さんが渡してくれたんだっけ。 『わざわざ持ってきてくれましたよ、よかったですね』 クッキーの缶に、ペタンとシールで貼り付けられていて。 大好きな人の字で、『早く元気になってよ』。 一言が嬉しくて、ベッドに座ったままで何度も何度も見ていた。 気を使ってくれたんだろうけど、部屋まで来てほしかったのに、なんて考えてみる。 隣の椿にも、絶えず笑いかけていた。 少し俯いているように見えたけど、それは多分今日の私の気分が明るくて、姿勢も高くなってるから、単 に私が少し椿を見下ろすような形になってるだけなんだと思って。 嬉しくて笑いかけると、笑い返してくれる機械的な椿の花。 私は何一つ思わず、否、何一つ思えずにいた。 そしてまた、手が勝手に『適当な』ページを見つけて『適当な』言葉を指していた。 女神。女の神、女性の神。 いつかロキさまが呟いていたこと。 『豊穣の女神・フレイヤ』 お花を見ている時だったような気がする。 女神サマ。 後になってからなぜかそれが妙に気になって、 『女神サマ、ですかぁ?』 なんてたずねてみたけれど、 『なんでもないよ』 とか曖昧にされて、そのまんまで。 女神様。 その夜、どこか、何か、恐さも感じながら。 欲しているのは幸せだけだ。 欲しているのは、誰のものであろうと幸せだけで、不幸を嫌った。 だからきっと、不幸は見えなくて。 出来る限り目をそらしてきたから、見えない不幸を見出す力なんてこれっぽっちもなくて、そんなものい らないとさえ思っていて。 気づかなかった、気づかなかった、気づけなかった。 生きることに苦しみを感じているなんて、知ることすらなかった。 改良を重ねられた椿。 それは美しい声と引き換えに王子を得るための足を手に入れた人魚姫より、辛い悲劇。 それは自然と引き換えにヒトの気まぐれな笑顔のための容姿を手に入れた、小さな椿。 人魚姫が歩くたびに刺された胸の痛みは、椿の花が微笑むたびに受けた死の侵食。 人魚姫が生き長らえたのは王子への愛の深さで、椿が生き長らえるのは化学という呪い。 なんて悲しい物語。 女神サマなら、神サマなら、気づいたりするんだろうか、こんな物語。 ただ言えるのは、決して無意味に無差別的に、微笑みかけたりなんてしなかったんだろう。 精神、前兆、神。 ポロンと、命の終える音。 美しいままの首はまだ微笑んでいて。 憎むことをこれっぽっちも知らなかった赤い花を哀れむに、私はひどく醜くすぎた。 六月、季節外れに花屋で咲いている小さな小さな椿の花を微笑ましく思いながら一鉢買った。 小さな小さな椿に見合ったように見えた小さな小さな鉢。 庭に植え替えてあげたらよかった、なんて、馬鹿みたいな後悔。 お花を育てれば何度でも経験したことだけれど、それでもいつもよりひどく悲しい。 というか、申し訳ない、みたいな。 「レイヤぁぁ!」 「………ッッッ?!ロキさまですかぁ??」 窓から、久しい久しい大好きな声。 体もだいぶん軽くなって、窓から大きく身を乗り出した。 大好きなヒトはそんな私を見て『そんなに乗り出したら落ちるよっっ』って焦っていたけど、どうでもよ くて、やりきれない気持ちが爆発しそうだ。 「女神サマって、どんなお方なんでしょうかっっっ??」 喜びもしないで突然こんなことを叫んだって、きっと気持ちをわかってくれることはないだろうけど。 大好きなヒトはぽかんとして、それからすごくくすぐったそうに微笑んだ。 「すごくキレイで、ワガママで、ジョーシキにかなり欠けてて、だけどちょっとだけレイヤに似てる、僕の 大切なヒトだよ」 女神サマを語る大好きなヒトのほっぺたはほんの少しピンク色。 胸がきゅんとなって、やきもちをやくどころか、優しい気持ちになれる。 愛しいってこういうことなんだなぁ、なんて、密かに思ってみたりして。 「レイヤ、女神サマじゃないですぅ」 「僕の知ってる女神サマはね、絶対に過去を捨てないから、時々すごく苦しいかもしれない。それでもわざ わざ僕んとこまで来てワガママとか言ってられるのは、ある意味かなり尊敬してるんだ」 ドクンって、私の中の私じゃない血が鳴った。 言ってしまえば、小さな椿のことだって、花の終わった寂しさと自分への憎悪だけ。 別に特別な出来事でも何でもない、私の過去。 私は捨てないでいられるんだろうか。 だけど、捨てられるんだろうか。 「よくわからないですぅ…」 そう言う私のココロを大好きなヒトが読み取ってることはわかってるんだけど。 あえて何も言わないから、大好き。 「あははっ。それよりクッキー食べようよ。闇野クンが作ってくれたんだ」 「ハイです〜v」 階段を上ってくる音。 近くなればなるほどいつでもドキドキする。 椿はあとで庭に埋めてあげよう。 鉢植えはあとで庭に植え替えてあげよう。 大好きなヒトといっしょに。 fin.