びゅぅっ!

 突風が一つ、背中から駆け抜けて行った。
「…あっ」
 目の前…正確には目の高さよりもずっと上だが…の少女の影が、大きくよろめく。
 危ない!
 そう思ったときには、もう走り出していた。それでも、視線だけは両手という支えを失って落下していく影だけを見詰めながら。

 少女が地に付く寸前、地面を持てる最大の力で蹴って飛び込み、地面と少女の間に身体を滑り込ませた。

「よう、大丈夫だった…か?」
 危機一発。そんな言葉がまさにぴったりだと思った。
 全く、冷や冷やさせてくれる。

 受け止めた際に何やら嫌な音がしたが、きっと気のせいだろう。
 だって、ちゃんと二人とも無事で…。
 さっきの見事な跳び込みだって…。下手したら野球選手狙えるんじゃないか?
「…あ」
 声を発したのは、ここまで。
 急に身体中の神経が騒ぎ出す。視界が徐々に黒くなっていく。
「…ういち…く」

 覚えているのは、そこまでだ。

「祐一君っ!」

Baby's-breath



 電車から降りて一言。
「…寒い」
 わざわざ言うことでもなかったが。
 電車の中からでも伺えたが、雪が積もっていた。
「これはもう、人体に悪影響を及ぼす寒さじゃないか…?」
 なんだか、ものすごく不安だ。
 当然だが前にいた街も冬は寒かった。だが、この街は別格といって言い。何せ雪が降っている。視覚効果だけでも充分にこちらの方が上だ。
「迎えの約束…一時だっけ?」
 ホームの時計に目をやる。約束の時間まで、あと十数分といったところだ。

 ポケットの財布を確認すると、ちょうど缶ジュースが一本買えるだけの小銭があった。
 しょうがないのでコーヒーでも啜って時間を潰すことにする。ちょうどいい具合に有った自販機へと足を進めた。

「当たってしまった…」
 自販機のルーレットが見事に揃った。
 無糖ブラックの缶コーヒー二本は、好きと言っても流石に胸焼けしそうだ。
 運を無駄に使ってしまった。そう思うと何か悔しい。
「だいたい、二本目は絶対冷めるって…」
 誰もいないホームで一人突っ込み。これでは単なる寂しい奴だ。
 早く行こ。

「流石に、誰もいないか…」
 休みも終わりで、尚且つ昼過ぎ。さらにこの寒さとあっては駅前が賑わうこともないだろう。
 ベンチに積もった雪を払い、一本めのコーヒーの蓋に手をかける。
 ぷしゅっ、といい音がした。

 一本めのコーヒーが飲み終わるころ、既に二本めは冷め切っていた。
 仕方ない。そう思ってプルタブに手をかけようとしたところ…
「お待たせしました」
 声がかけられた。
 顔を上げてみる。そこには…
「名雪か?」
 こちらの声に相手は少し困ったような顔をしていた。
 すぐに判別ができたのがご不満だったのだろうか。
 いや、それにしても綺麗になったと思う。ますます秋子さんに似てきたと言うべきか。
「いえ、名雪は部活ですから…」
「はい?」
 知る限り、名雪に姉妹はいない。
 となると…
「…もしかして、秋子さんですか?」
「ええ」
 彼女はにこっと笑って言った。
 間違いない。この微笑みには見覚えがある。
「いや、びっくりしました。本当にお変わりなく」
「そう言っていただけるとお世辞でも嬉しいです」
「いや、本当に」
 秋子さんは微笑んで流した。
 …本気だったのになぁ。

「えーと、どうして秋子さんがここに?」
 確か名雪が迎えに来る手筈だったはずだが。
 その問いに、秋子さんは一拍置いてから答えた。

「名雪は、知りませんから…」

 少しなっとく。
「そんな労るような身体でもないんですけどね」
 少なくとも日常生活に支障を来すような異常はないと思っているのだが。
「自覚が足りないだけです」
 ちょっと厳しく返された。
 でもまぁ、それは一理あるかもしれない。医者曰く“ボロボロ”らしいし。

 秋子さんは丁寧にもタクシーを用意してくれていた。
 重たい荷物を持っていたこちらとしては助かる事この上ない。

 水瀬家の前でタクシーが止まった。
 荷物を担ぎ上げて、家の前に立ち、秋子さんのほうへと振り返る。
「えーっと、これからお世話になります」
 秋子さんは少し笑った。
「そんなにかしこまらなくて良いですよ。今日から“家族”なんですから」

「じゃあ、あえてこう言いますね」
 何か変な気もするが、これできっと正しいのだろう。
 だから、“私”は言った。

 「ただいま」と。



 二人で供に玄関を潜る。
 リビングはエアコンを切って間もないのか、それとも電源を入れたままだったのか暖かかった。
「くつろいでいて下さい。今お茶を淹れますから」
「あ、お構いなく」
 足元に鞄を置いてソファにもたれ掛かる。何かぐっと楽になった。
「二人とも、すぐに帰って来ると思いますから」
「ええ。テレビでも見て時間を潰してま…」
 待った。今“二人”と言った?
 再び言うが、名雪に姉妹はいないはず。秋子さんは再婚でもしたのだろうか。
「あゆちゃん、家族になったんですよ」
 あゆ。私にとって忘れようも無い名前。
「…あゆと言いますと、たいやき好きで口癖が『うぐぅ』のあゆですか?」
「ええ、そのあゆちゃんです」
 なるほど。あゆを引き取った、ということになるのだろうか。
 何やら複雑な事情がありそうだ。訊いてみてもいいものだろうか。
 少し迷ったが、好奇心には抗えなかった。
「あの…どういった経緯で引き取ったんですか?」
「月宮さん…あゆちゃんの両親は七年前に亡くなったんです。私は月宮さんとは縁があったものですから」
「それは、その…すいません」
 訊いてはいけなかったことのような気がした。
「いいえ。それに祐宇さんも家族ですから、知ってなければいけないんです」

 どうも私は深刻な話は苦手だ。
 と言うより、誰だって苦手だろう。得意な人がいるならそれこそ見てみたいと思う。
 私自身の身体も充分に深刻な問題を抱えている気がするが、それはそれ。

 ばたんっ。
 唐突にドアが開かれる音。
「ただいまぁっ!」
 どたどたどたどたどた…べちんっ。
 何やら元気のいい声と元気のいい足音と元気のいい転び音が聞こえた。ついでに「うぐぅ、痛いよぉ」とか謎の声まで聞こえてくる。
「……うぐぅ…?」
 改めて口にしてみると何やら気の抜ける掛け声だ。どんな時に使うのかも全く持って意味不明。それほどまで意味不明な言語を操る人間は一人しかいない。

 買い物袋をぶら下げて、ちょっと慌て気味にリビングへと突進してきたあゆあゆ。
 って言うかこいつは成長しているのか? 見た目はどこをとっても小学生並みなんだが。
「お、おかえりあゆあゆ。早かったな」
 何処に行ってたか知らないけど。
「うんっ、たいやきが冷めない内に食べようと…って、あれ?」
 ふむ、買い物に行ったついでにたいやき購入か。実に解りやすい行動パターン。
 あゆあゆが私を見て固まっている。もしかして財布でも落としたのか? 
「どうした、まさか金を払ってくるのを忘れ」
「そんなこともうしてないもんっ!」
 セリフを言い終わる前に凄い勢いで返された。それより「もう」ってなんだ。昔はしてたのか。
 あゆあゆのことだから何事も無かったかのように

「うんっ、ただいま祐一君。たいやき食べる?」

 とか言うと思ってのだが、そうもいかなかった。
「あー、忘れたのか? 相沢ゆ」
「祐一君っ!」
 言い終わる前に猛烈タックル。私は器用に身体を捻ってそれを避ける。
 ぼふっ。
 あゆがソファに頭から突っ込んだ。
「うぐぅ、祐一君が避けたぁ…」
 そりゃ避けたくもなる。
 私には出会い頭にタックルをくらって喜ぶような特殊な趣味は無い。
 …待てよ? 私を“祐一”と呼ぶと言うことは秋子さんは何も教えていないのか?
 自分で全て説明しろと言うことか。面倒だが仕方ないか。本人が言わないと聞く耳持たないかもしれないし。

「あゆちゃん、おかえりなさい」
 キッチンの方から秋子さんが現れた。手に持ったお盆の上には湯のみが三つ。どうやらキッチンの方にも騒音が聞こえていたみたいだ。
「ただいま、秋子さん」
 にっこりと笑ってあゆが言う。そして何かを思い出したように「あ」と声を出してリビングから出ていく。
 恐らく「手を洗うの忘れてたよ」とでも言いながら帰ってくるだろう。
「騒がしい奴ですね。相変わらず」
 苦笑しながら言う私に、
「でも、賑やかでいいでしょう?」
 微笑みながら返す秋子さん。
 私はさっき疑問に思ったことを訊いてみた。
「…そう言えば、あゆ、あと名雪にも教えてないんですか」
 相沢祐宇を。
 たしかに祐一を名乗っていた自分が悪いとは自覚しているが。
「ええ。誤解は自分で解くものですから」
 別に誤解とかじゃないような気もする。
 単にあの二人の勘違いだ。

「面倒なんですよね…。『証拠を見せろ』とか言われるのが常ですし」
 これまでに何度かあったことだが。ちなみにその度にそういった輩には保険書を見せて納得させていた。
「そうですか? 案外素直に受け容れてくれるかもしれませんよ。祐宇さんは姉さんに似てますし」
 秋子さんの姉。つまり、私の母さんにか。母さんも秋子さんと同じく若々しい美人だった。
 近所でも『若い』と評判を受けていたのは記憶に新しい。
「母さんにですか。それこそお世辞ですよ。私は父親似だと思ってますし」
 私から言うと、奴は普通のおじさんだ。
 多少容姿は整っていた感はあるが、年の衰えを隠せない辺りで普通の人だ。
 って言うか奴は過保護で親バカだった。

「手を洗うの忘れてたよ〜」
 良そう通りのセリフを言いながらあゆ乱入。本音トークシャットアウト。
「たいやき、たいやき〜♪」
 意味不明な歌を歌いながらあゆが私の横に座る。
 そしておやつタイム突入だ。

「…名雪、遅いな…」
 まさか今ごろ私を迎えに行ってるなんてことはないだろうな。
 時計を見ると一時半をちょっと過ぎたところ。
「うん、名雪さんは部長さんだから忙しいんだよ…」
 そうか、部長か。それはまた難儀な仕事を…って何!? 部長だと!?
 部長と言うと、部活動の中でもトップに君臨する職務ではないか。そして、それをやるからには実力と人望の二つを兼ね備えていなければならない。
「月宮さん、一つお尋ねしたいのですが…」
 何故か丁寧語になってしまった。
「なに?」
「名雪って、何部所属?」
 休みに部活があるといえば運動部だ。だが、あの名雪が部長を勤められる部活ならば運動部など有り得ない。
 広い世界、休みの最中にも熱心にやる部活があるのかもしれない。
「名雪さん? 陸上部だよ」
 今度は私が固まった。
 世の中にはいくらでも不思議なことがある。そう思った。

「それじゃ、私はお茶を片付けてきますね」
 秋子さんがお盆にカップを乗せてキッチンの方へと運んでいく。
 残されたのは私とあゆだけ。
「あの」
「ええとっ」
 同時に発音した。
「先に言っていい」
 私の方は名雪が来たときにでも一緒に話せば良いから今回はあゆに譲ることにする。
 あゆは何故か少し(うつむ)いて黙る。質問をするのに言葉を組みたてているのだろう。
 そう思ったが、違っていた。

「祐一君っ、ごめんなさいっ!」

 いきなり謝られても困る。
 第一、あゆが謝る理由がよく解らない。
 困惑した表情を浮かべていると、あゆが言葉を続けた。
「だって、ボクのせいで祐一君、大怪我をして…」
 あゆは少し涙ぐんで言った。
 そして私は納得した。
 あゆは、七年前の事件のことをずっと気に病んでいたのだ。

 確かに、自分のことながらあの“事件”はただごとではなかったと思う。
 そして、“事件”は確実に私の身体に亀裂を入れていた。
 下手に心臓に負担をかけると急停止する可能性もある、とか聞いた。
 医者に「日常生活には支障はありませんから…」とか言われたから、なんとなく覚えている。

「別に気にしてないって」
 むしろ私よりも親父の方が気にしていた。謝るべきは私に、ではなく親父に、だろう。
「まぁ、あの時の『必殺あゆあゆフライングボディープレス』は今までの生涯最高の威力を誇ってたけど」
「…うぐぅ」
 逆効果かいな。
 まぁ、「気にするな」と言う方が無理なのかもしれない。

 仕方なく、私は強行手段に出ることにした。
「あゆあゆぅ!」
 がばっ、とあゆの頭を抱きしめる。
「うっ、うぐぅっ!?」
 かなり困惑気味のご様子。
 あゆの耳とか真っ赤なんですけど。
「あ、あの…祐一君?」
 あゆが手足をジタバタさせる。
「何だ。人がせっかく元気度をアピールしてやってるのに」
「な、名雪さんが…」
 …は?
 私はその状態のままで、くるっとターンした。つまりにあゆあゆを抱きしめたままの状態でだ。
 一時停止する私。そして名雪。あゆは私の腕の中でうぐうぐ言っている。
「え、えと、…あゆちゃんの、友達ですか?」
 何故かうろたえる名雪。
 そして何やら私は激しく誤解されているらしい。
 名雪も私のことが解らなかった。私はそんなに変わっただろうか。
「あ、あゆちゃん…、わたし祐一を迎えに行って来るから…」
「名雪、その必要はない」
 私はここにいるから。
「…え?」

「あの、祐一君? さっきから、ずーっと訊きたかったんだけど…」
 おずおずと私の腕の中であゆが声を出す。
「祐一君って…男の子だよね?」
 やはり、そうきたか。
「私は七年前も今もそんなことを言った覚えはない。って言うか、最初に気付け」
 と言っても、この家に来る前からコートを着たままだった。体型が解らなくても不思議ではない。
 そして髪を短めにしてあるから、もしかしたら男と間違われるかなぁ。とか思ってたがジャストミートだった。
 男装の麗人というやつだ。別に自分が麗人だとは思ってないけど。
 あゆ&名雪は未だに状況をよく理解してないようだ。
「聞けあゆあゆ&なゆなゆ」
「ボク、あゆあゆじゃない…」
「わたし、名雪…」
 そう来ると思った。

「それなら私だって“祐一”じゃない」



「…ええっと、つまり祐一は実は女の子で祐宇って名前…でいいのかな?」
 実は、も何も私は隠していたわけでも騙していた訳でもないんだが。
 単に二人の勘違いじゃないか。
 私に非は一切ないはず。それなのに…、
「祐一君、ボクのこと騙したんだね」
「祐一、極悪人だよ…」
 私は二方向から攻められなければならないのか。
 ここはじっと耐えて、秋子さんからの助け舟が出るまで待つべきだろうか。

「二人とも、祐宇さんも騙していた訳ではないでしょう?」

 戻ってきた秋子さんからの助け舟。待ってました、そのセリフ。
「うー…」
 だから、何故拗ねる。
「もうボクたちに隠してることはないんだね?」
 だから別に隠してないってば。
 私は秋子さんの方に目を遣る。果たして私の身体のことを言っても良いものだろうか、と。
 何せ今日から一緒に暮らすのだ。変に溝を作るのも避けたい。
 秋子さんは私に笑いかけて返した。好きにしろ、ということか。
「…無い、と思う」
 私が無理をしなければ良いだけの話だ。障害と言うほど大層なものでもない。
「じゃあ、許してあげる。ねっ、あゆちゃん」
「うんっ」
 二人は、ようやく笑顔を見せてくれた。

「あ」
 名雪が、突然声を上げる。
「祐一の制服…頼んでないよ〜」
 なんだ。そんなことか。
 やれやれ、と言った感じに溜息をつきながら。
「別に、前の学校のでも構わないだろ?」
 無理矢理手に入れた男物だけど。

「私が注文しておきましたから問題ないですよ」

 …はい?
 秋子さんは私のことを全て知っていた。
 つまり、注文した制服は女子の物、ということになる。
「…それって、今、名雪が着てるやつですか?」
「ええ」
 嫌過ぎ。
 だいたい冬場にそのスカートは寒いだろう。
「…なんとか男物に替えてもらえませんか?」
「駄目ですよ。女の子でしょう?」
 やはり無理か。
 絶対に前の学校の奴には会いたくない状況になってしまった。
 三日は話の種にできるレベルと言っても良い。

 明日からの生活が急に不安に思えてきた。
 いや、マジで。